伊勢市内で、古来の名物岩と言えば、まず、名勝・二見ヶ浦の「夫婦岩」であろうが、市街地にも昔から著名な「葛籠石」(つづらいし)と言う巨石がある。
その所在地は古市に隣接する中之町内で、現在安置されている場所は、麻吉旅館横の石段の小路(昔は「御岩世古・おいわせこ」と呼んでいた)を下った先の、高速道路沿いの側道に出た曲がり角である。すぐ横向かいに、麻吉旅館の第2駐車場がある。ここは、古市からの旧道沿いにある寂照寺の裏藪斜面の真下で、その真正面が側道の信号交差点(三叉路)である。
高速道路の工事の際に、元あった場所から移動させて、現在の位置に鎮座させた経緯がある。
芝草の中の幅約5m × 10m 四方のスペースが、「葛籠石」を御神体とする「浅香つゝ゛ら稲荷」の境内として、葛籠石と同質の石垣石ほどの岩塊20数個で区画され、石で囲まれたちょっとしたこの境内の中央に、「葛籠石」が鎮座している。
巨石は大岩を真ん中に大小3つあり、大岩の前には祠が置かれ、畳ほどの板状石の祭壇にはお供えものがあり、石にはいずれも注連縄が張られている。境内の左サイドには鳥居も一基立っている。このお稲荷様を祭る敷地には、白石が敷き詰められ、鳥居から祠の正面にごく僅かな参道がついているし、祠の右に繁る大きな楠の他、数本の木立が巨石を囲むように植えられている。
鳥居横の側道沿いには、「浅香つゝ゛ら稲荷 由来記」と題した説明書きの立て札がある。
さて、大小3つある葛籠石の石質は、いずれも石英片岩の一枚岩で、畳を横に立てたように据えられている。
これら巨石の大きさであるが、石の底はいずれも60cm以上敷地の土にめり込んでいるので、高さは正確には解らないが、地上に出ている部分についての計測値は、屏風状になっている中央の最大岩は左右の横幅が約5m、石の厚みが0.9~1.2m、高さの最大値は2.2m(以上)ある。
この岩塊に向かって左右の2個は、左側の岩塊が横幅が約1.6m、石の厚みがおよそ0.3~0.7m、高さの最大値は1.4m(以上)である。右側の岩塊は横幅が約3.2m、石の厚みがだいたい0.65~0.70m、高さの最大値は1.6m(以上)である。
この「葛籠石」については、江戸時代以前の昔から知られていたようで、郷・里村や街道筋によく見られる名物岩・謂れ石の類である。その名の由来は、殆どの古文書や郷土誌・史に、「石重なりて葛籠の形に似たり」とある。現状は、とても葛籠の形には見えないが、定説に従えば、かつて古市のはずれ(旧、仲之地蔵町)の丘陵地の斜面か上面に、露岩のような状態であった頃は、二つの長方形の板状の大岩が斜めに重なっていて、その形状が葛籠のように見えたのかも知れない。
当地の葛籠石は、伊勢国の最初の地誌本である「勢陽雑記」(初版 明暦二年頃・1656年頃)や「伊勢参宮名所図会」(寛政九年・1797年)、「勢陽五鈴遺響」(天保四年・1833年)等、明治期以前の古文書や図会にその記述を見る他、爾来の版画や刷り物等にも数多く描かれている。
「勢陽雑記」には、「葛篭石 ツゝラ石 あひの山中の地蔵にあり。一丈四方程なる石重なりてつゝらの形に似たり。しめを引く。小社也。伊勢風土記にも此石の事あり云々。」とある。
「伊勢参宮名所図会」には、「葛籠石 中地蔵町東の方二町許にあり、此のところも長峯といふ。高さ八尺余、横二丈許、石重なりてつゝ゛らの形に似たり、今は注連(しめ)を引て小社とす、此傍(かたはら)に観音堂あり、是を大岩の観音といふ、春は櫻多く咲いて騒客遊宴(そうかくゆうえん)の地とす。」と記述されている。
「勢陽五鈴遺響」には、さらに詳しく次のように記述されている。
「葛籠石 同所観音堂ノ南民家ノ傍ニアリ此小路ヲヲイワト名ルハ此巌に拠テ称スナリ 注連縄ヲ引テ神祠ノ如ク土人祭レリ崇敬シテ御岩ト云高八尺余長二丈許其状葛籠ニ似テ方形ニシテ蓋アル如シ今詳ニスルニ地上ニ突出スル処ハ纔ニシテ其根磐ハ土中ニ数丈連リ入テ一磊ノ巨嵒ナリ其土入ノ祀レル処ハ其地ヲ遺失セサランカ為ニ此挙ニ及ヘリ其所伝ハ未詳トイヘトモ正国保□(□は文字転換不能の漢字です)中ノ探リ尋ラルヽニ拠テ其嵒ヲ得タルヨリ新ニ奇石ト称スルニ至レリ其ノ前世ニ此石に名アルコト旧録ニ未詳勢陽雑記云間ノ山中ノ地蔵ニアリ一丈四方ナル石重リテ葛籠ノ状ニ似タリ注連ヲ引小社ナリト云… (以下省略)」
古市町から中之町を経て桜木町に続く旧道筋の台地~丘陵地は、古名を「長峰」(ながみね)と言い、この界隈の地質は高位段丘堆積層であるが、中央構造線に接するすぐ南の「西南日本外帯地質区」に属する。
従って、この段丘堆積層の基盤岩は、石英片岩を含む三波川変成帯の結晶片岩や千枚岩類で、これを不整合に覆う上層の更新世時代の砂礫層は、明らかに五十鈴川等の河川堆積物であり、かつての川原や中州がその後の地殻変動によって離水した、隆起地形である。
それゆえ、葛籠石のような岩塊は、河川によく見られる川床や川岸の岩盤等から離脱した、現地性の「根無し岩」であろう。このような岩塊は、今の五十鈴川の随所にかなり散在している。
後になったが、以前に読んだ民俗学の書物には、この「つづら石」の語源は、日本全国各地のどこにでもある「霊石」のような巨石の一つであり、「津々浦々の石」(つづうらうらのいし)から出た言葉だろうとの推測があった。しかし、古文書等に記された記述を読み取る限り、「石重なりて」とあるので、古くは大小の長方形~板状の石英片岩の巨岩が、どっしりと重なっていた事は確かである。これらの石の表面(石づら)は、現状から見てほぼ平坦であったはずである。
古文書には、「伊勢風土記」にもその記述が見られるとあるので、語源について突き詰めて考えれば、石の呼び名の「つづら」の言葉が先か、行者(修験者)が背負う衣類を入れる柳行李のような、収納具としての「葛籠」(つづら)の用語が先か、と言う事になる。
もし、庶民が道具として「葛籠」を使い出したのが、後年の事であれば、「つづら石」の語源は「面々石」(つらづらいし)であり、その短縮形が「つづら」になり、いつの頃からか「葛籠」に転じたのではあるまいかと、考えてもみる次第である。
ちなみに、三重県内には、似たような地名に「ツヅラト峠」がある。ここは、度会郡の旧大内山村と東紀州の紀伊長島町(北牟婁郡)とを、嶮しい山稜で境する熊野古道(旧街道)の峠路である。この地名の由来は、「山々が連なる様」など諸説あるが、山越えの峠道に多い「九十九折り」から来ているとするのが定説らしい。類推ではあるが、この「ツヅラト」の語源は、「九十九徒歩」(つづらとほ)から生じたのかも知れない。