日本の太平洋沿岸海域や日本海のみならず、チリ沖をはじめ南太平洋などの環太平洋沿岸海域のプレートの境界付近で、昨年のニュージーランドの地震や東日本大震災を引き起こしたような大~超巨大地震(M=6.9~9.0)が、海底地下10数 km以浅を震源として発生すると、巨大津波がセットで生じるのは周知の事実である。
そして、発生場所によっては数分から30数時間をかけて、弧状列島より成り立っているこの日本の島国に到達し、巨大津波の持つ凄まじいエネルギーによって、沿岸部の都市や町、村落を一瞬のうちに呑込んでしまい、何もかも掻っ攫ってゆく。
この光景は、丁度一年前に関東から北海道の沿岸地域が、宮城沖等の巨大地震の発生に伴い生じた巨大津波に襲われ、家屋や自動車、田畑、道路、橋、堰堤などは言うまでも無く、鉄道から港の船舶と、インフラを含む日常の生活圏が破壊されてゆく様を、国民はまざまざと映像にて目の当たりにしたばかりである。
しかも、福島県においては、安全性を地域住民らが信じて受け入れ、共存共栄をはかってきたはずだった原発施設もぶっ壊れ、世界中で最悪の原発事故をも発生させる引き金となった。目にみえない放射線や放射性物質の拡散によって生じた、この信じがたい規模の災害責任や補償問題は、一向に解決に向かっていない。被曝者や被災者の健康や日常生活の苦悩ははかり知れず、その事をも含めて、この想定外の大災害には心が傷むばかりだ。
さて、次の巨大地震がいつ、何処に来るのか・・・、人々の関心も昨年の大震災を境に一段と高まり、従来、なりを潜めていた大学のえらい教授連や、地震学者の大先生方の予想コメントなども次々に飛び出し、マスコミにさえ登場し、ニュースに信憑性を与えつつ世間を賑わし、世論を巻き起こすようにさえなった。
大震災の前には、研究チームの観測データ等が差し迫った状況を示していたにもかかわらず、外れた時の引責問題を考えれば、「言わぬが勝ち」だったのかも知れない。
我が輩は、1923年(大正12年)9月1日発生の、関東大震災以前にあったと言う、「大森-今村論争」をふと思い浮かべた。今なら、最新の研究学説や観測データ等、確かな根拠がなくても、巷の地学屋や町博士など、誰が次の巨大地震や巨大津波の予想や予言をしても、世間の関心が次の震災の防災に向いている限り、許容の風潮にある。
「信じる、信じない・・・」はともかく、今年中に昨年クラスの巨大地震の再来があれば、東北地方は、今復興に向けて地域社会を挙げて立ち向かっている時だけに、「泣き面に蜂」などでは到底済まない。再々復興など全く出来ない程の痛手をも通り越し、さながら爆撃を受けた敗戦国戦後の無法地帯化さえ現実となってしまう。どの政党が与党となって政権を担当したところで、原発による目に見えない「放射能」との戦いも強いられ、政府の手に負える話ではない。
ところで、関東地方はどうだろう。首都直下地震について、「東京大学地震研究所のある研究チームが、気になる試算結果をまとめた」と言う。その試算では、「マグニチュード7クラスの首都直下地震が、今後4年以内に70パーセントの確率で起きる可能性がある」、との報道が一月にあり、庶民を震撼させたのは、記憶に新しい。向こう4年以内に「70パーセント」であると言う事は、単純計算上100パーセントになるのは、数学の簡単な比例式を使えば、
70 : 4 = 100 : X ・・・・・ Xについて算出すれば、X ≒ 5.7 年 (以内)となる。
無論、先の試算の論拠は、関東一帯の震源の分布、地震の規模等の推移の周期性や、集積した観測データなどの分析と、理論上の複雑な数式を駆使してのシミュレーションによるものであろうが、数値だけを見れば、向こう6年以内には、確実に100パーセントに達し、M=7クラスの地震が発生する事に等しい。
果てさて、我が輩の予想では、関東地方に今年あたり連動して発生してもおかしくはないのだが・・・。
最後に、我が輩の住む三重県伊勢市にも影響を与えるであろう、「東海地震」はどうであろうか?
我が輩は、ずっと県立高校に奉職し地学と生物を教えて来たが、早期退職前の年(2005年)に、「東海沖地震を最短7年先と予想」し、学校の機関誌に「Min7年後・東海地震の来襲に備えつつあなたは生き残れるか」、との科学随筆の記事を掲載し、防災への備えなどを提言してきた。今年はその翌年となるのだが、この5月までなら8年未満。記事は「最短で7年後」として記した訳だから、外れはない。
当たれば東日本以上の未曾有の大震災となり、地震動に津波、原発事故プラス富士山の噴火と・・・、最悪のシナリオを考えておく必要がある。ただし、地方自治体のレベルで、手の打ちようがあるのかどうかだ。
日本列島の太平洋側の沿岸域で発生する、プレート境界型の大~巨大地震には、余震とは別に同規模程度の地震が連動して続発し、「双子地震」や「三つ子型地震」としてセットを成すクセがあると言われている。前回の地震は、安政元年(1854年)の「安政東海地震」(11月4日発生)であった。ご存知のように、その32時間後に「安政南海地震」(11月5日発生)が続発し、とてつもない災害となった。伊勢志摩地方にも巨大津波が襲い、古文書によれば、「津以南大津波、浪先は朝熊岳中腹に達す」との記録が残されている。
最後になったが、伊勢湾内に波及した「津波の記録」について、安政地震以前のものを遡って調べてみたゆえ、ご参考までに。
◆ 宝永4年(1707年)10月4日
四日市大高潮、海岸防波堤破壊
津江戸橋落橋、半田橋西の方へ押傾く
◆ 慶長19年(1614年)10 月25日
宇治山田海辺津波流失者あり
◆ 慶長9年(1604年)12 月16日
伊勢の浦に大津波
◆ 明応7年(1498年)8 月28日
伊勢大湊領塩屋津波にて180戸殆ど全滅
◆ 応永14年(1408年)12 月14日
伊勢の海岸津波
◆ 永長元年(1096年)11 月24日
伊勢阿乃津も津波による被害あり
追 記
伊勢志摩の紀行文の名著である、北尾鐐之助の著書「伊勢志摩 吉野熊野-国立公園紀行 第二編-」に、二見地方の地形が、明応の大地震によって一変してしまった様子が記されているので、関連箇所のみ付記しておこう。
前文章は省略。 「また、三津からの道は、明応の大地震の際に起こった大海嘯(だいかいしょう=大津波の事)で、溝口附近の堤が破壊し、地盤の変動で、河水は二見の今一色の方へ流れるようになり、むかしの宿島が小島山となったり、鷺島が鷺の森になったりした。むかしは江村から三津にかけて、漫々たる入江であったのが、すっかり陸地に変わって、旧い五十鈴川の大河も一トすじの浅い里川の風景になってしまった。」
以下の文章は省略。
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