(1)マスメディア業界には電通タブーのようなものが存在する。電通は日本的な体質が強い企業だ。コネ重視というか。
電通の「鬼十則」は、このグローバル時代に、世界有数の総合広告代理店の行動規範としては妙だ。米国では考えられない。
(2)電通は日本のパブリック・リレーションズ(PR)を歪めたと言われる。
井之上喬・井上パブリックリレーションズ社長が『パブリック・リレーションズ』(日本評論社、2006)を出版したとき、PRが戦後日本に導入された際の電通の関わりに係る記述について、電通のある幹部が「削除してもらいたい」と言ってきた。井之上社長は、「歴史的事実を書いただけだ。脅しには屈しない」と答えた。
この本には、日本のPRがどのように発展してきたか、認識されてきたかが歴史的視点で書かれている。PRはいまでも「広報」や「宣伝広告」という言葉と半同義語で使われていることがある。時にはプロパガンダと受け取られることもある。広報や宣伝はたしかに大きな意味でのPR戦略の一部だが、「PR=広報・宣伝広告」ではない。プロパガンダは、発信するほうが自分たちの意見や考え方を正当化するために、間違っていても発信するもので、それが必ずしも公共の利益と結びつくわけではない。
PRは、特定の企業や個人に利益をもたらすためだけの手法ではない。あくまでも、それぞれの目的や目標達成のための、より良い社会の実現に向けたリレーションシップマネジメント(関係性構築)だ。企業が目標を立て、その目標達成のための戦略を練り、ステークホルダー(利害関係者)を設定し、優先順序を決め、必要な関係構築をはかっていく(リレーションシップをつくっていく)。そして、最後はメディアに落とし込む。
依頼者(企業)の売り上げに直結する一方向性の強いパブリシティを主体とした広報や宣伝だけがメディア・リレーションズではない。PRには大別すると、製品PRとIRやCSR、危機管理などの企業PRに分けられる。こうしたことの全体が本来のPR会社の仕事であり、従来型の広報などはその一部でしかない。
(3)なぜ「PR=広報・宣伝」と誤解されるのか。
1950年に日本電報通信社(現電通)がPR部を新設した。企業の売り上げに直結する広報・宣伝こそ、このPR部の仕事だった。
同社が戦後PRの理論を積極的に日本に紹介したことは評価できるが、広告会社ゆえに広告のイメージアップをはかるための手段として使われ、それによってPRと宣伝が混同されるようになり、PRが本来持つ広範な業務が極めて狭く解釈され、PR=パブリシティという誤解を生む結果になった。こういう誤解がいまだに根強くある。
また、日本にPRを導入したGHQがサンフランシスコ講和条約と日米安保条約の発効とともに日本から引き揚げたことも、正しくPRが伝わらなかった大きな要因だった。
(4)1970年代後半から日本市場の開放を求めて、外国企業が国際PR会社(バーソン・マーステラなど)を尖兵つぃて対日攻勢を強めた。外国企業が日本に市場参入する際、やはりPR戦略を練ってくる。
ものすごい戦略を練ってくる。特に米国や英国などのアングロサクソン系企業だ。
1980年代、米国シリコンバレーのPRは、スピード、フェア、オープン性のどれをとっても目を見張るものだった。戦略の中心には必ずPR部門とコンサルタントがいた。
1980年代から1990年代にかけて通信や半導体、自動車など激化する日米経済摩擦のなかで、日本のPRと米国のPRはまったく異質のものであることが明らかになった。前者はパブリック・リレーションズではなかった。
グローバル化はこれからさらに進むだろう。グローバルビジネスの基盤はPRだ。
日本人の文化はハイコンテクストカルチャーと言われる。つまり共有する文化や慣習が多いから、言葉を多く使わずとも以心伝心、あうんの呼吸が成立する文化だ。ところが中国大陸や欧米各国では、民族、文化、言語、宗教がさまざまで、ハイコンテクストでは意思疎通ができない。ローコンテクスト文化だ。自分の考えをはっきり、細かく、丁寧に言わないと相手にきちんと伝わらない。そうした社会的背景の違いを理解しておかないとグローバル社会では大やけどする。
井之上喬『説明責任』(PHP、2009)でも、日本に古来からあるコンテクストについて触れている。田植えや収穫期になると、誰が指示を出すわけでもなくみんなで協力しあう。これこそハイコンテクスト型の文化だが、今度はローコンテクスト型の教育も子どもに行っていかなくてはいけない。「絆教育」だ。まず自分は一人でないことを教え、父親や母親、兄弟姉妹、友だち、近所のおじさん、おばさんとの関係性を築いていくこと、リレーションシップの築き方を伝え、その大切さを教えるのだ。それに目的意識を持たせることも大切だ。何の目的で自分はやろうとしているのか。
これが実はPRの基礎でもある。小さい頃に基礎を学ばせ、中学・高校生になったらPRを教える。
大学の授業では、人間にとって大切なのは道徳ではなくて倫理だと教える。
倫理観を備えた人間を幼児教育から始め育てねばならない。それに双方向性と自己修正だ。そのためには一人ひとりの個が強くないと駄目だ。個を強くする教育こそ絆教育、パブリック・リレーションズ(PR)だ。
□語り手:井之上喬(井上パブリックリレーションズ社長)/聞き手:平井康嗣(本誌編集長)「広告代理店主導の「PR=広報・宣伝」という誤解を解きたい」(「週刊金曜日」2015年4月3日号)
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電通の「鬼十則」は、このグローバル時代に、世界有数の総合広告代理店の行動規範としては妙だ。米国では考えられない。
(2)電通は日本のパブリック・リレーションズ(PR)を歪めたと言われる。
井之上喬・井上パブリックリレーションズ社長が『パブリック・リレーションズ』(日本評論社、2006)を出版したとき、PRが戦後日本に導入された際の電通の関わりに係る記述について、電通のある幹部が「削除してもらいたい」と言ってきた。井之上社長は、「歴史的事実を書いただけだ。脅しには屈しない」と答えた。
この本には、日本のPRがどのように発展してきたか、認識されてきたかが歴史的視点で書かれている。PRはいまでも「広報」や「宣伝広告」という言葉と半同義語で使われていることがある。時にはプロパガンダと受け取られることもある。広報や宣伝はたしかに大きな意味でのPR戦略の一部だが、「PR=広報・宣伝広告」ではない。プロパガンダは、発信するほうが自分たちの意見や考え方を正当化するために、間違っていても発信するもので、それが必ずしも公共の利益と結びつくわけではない。
PRは、特定の企業や個人に利益をもたらすためだけの手法ではない。あくまでも、それぞれの目的や目標達成のための、より良い社会の実現に向けたリレーションシップマネジメント(関係性構築)だ。企業が目標を立て、その目標達成のための戦略を練り、ステークホルダー(利害関係者)を設定し、優先順序を決め、必要な関係構築をはかっていく(リレーションシップをつくっていく)。そして、最後はメディアに落とし込む。
依頼者(企業)の売り上げに直結する一方向性の強いパブリシティを主体とした広報や宣伝だけがメディア・リレーションズではない。PRには大別すると、製品PRとIRやCSR、危機管理などの企業PRに分けられる。こうしたことの全体が本来のPR会社の仕事であり、従来型の広報などはその一部でしかない。
(3)なぜ「PR=広報・宣伝」と誤解されるのか。
1950年に日本電報通信社(現電通)がPR部を新設した。企業の売り上げに直結する広報・宣伝こそ、このPR部の仕事だった。
同社が戦後PRの理論を積極的に日本に紹介したことは評価できるが、広告会社ゆえに広告のイメージアップをはかるための手段として使われ、それによってPRと宣伝が混同されるようになり、PRが本来持つ広範な業務が極めて狭く解釈され、PR=パブリシティという誤解を生む結果になった。こういう誤解がいまだに根強くある。
また、日本にPRを導入したGHQがサンフランシスコ講和条約と日米安保条約の発効とともに日本から引き揚げたことも、正しくPRが伝わらなかった大きな要因だった。
(4)1970年代後半から日本市場の開放を求めて、外国企業が国際PR会社(バーソン・マーステラなど)を尖兵つぃて対日攻勢を強めた。外国企業が日本に市場参入する際、やはりPR戦略を練ってくる。
ものすごい戦略を練ってくる。特に米国や英国などのアングロサクソン系企業だ。
1980年代、米国シリコンバレーのPRは、スピード、フェア、オープン性のどれをとっても目を見張るものだった。戦略の中心には必ずPR部門とコンサルタントがいた。
1980年代から1990年代にかけて通信や半導体、自動車など激化する日米経済摩擦のなかで、日本のPRと米国のPRはまったく異質のものであることが明らかになった。前者はパブリック・リレーションズではなかった。
グローバル化はこれからさらに進むだろう。グローバルビジネスの基盤はPRだ。
日本人の文化はハイコンテクストカルチャーと言われる。つまり共有する文化や慣習が多いから、言葉を多く使わずとも以心伝心、あうんの呼吸が成立する文化だ。ところが中国大陸や欧米各国では、民族、文化、言語、宗教がさまざまで、ハイコンテクストでは意思疎通ができない。ローコンテクスト文化だ。自分の考えをはっきり、細かく、丁寧に言わないと相手にきちんと伝わらない。そうした社会的背景の違いを理解しておかないとグローバル社会では大やけどする。
井之上喬『説明責任』(PHP、2009)でも、日本に古来からあるコンテクストについて触れている。田植えや収穫期になると、誰が指示を出すわけでもなくみんなで協力しあう。これこそハイコンテクスト型の文化だが、今度はローコンテクスト型の教育も子どもに行っていかなくてはいけない。「絆教育」だ。まず自分は一人でないことを教え、父親や母親、兄弟姉妹、友だち、近所のおじさん、おばさんとの関係性を築いていくこと、リレーションシップの築き方を伝え、その大切さを教えるのだ。それに目的意識を持たせることも大切だ。何の目的で自分はやろうとしているのか。
これが実はPRの基礎でもある。小さい頃に基礎を学ばせ、中学・高校生になったらPRを教える。
大学の授業では、人間にとって大切なのは道徳ではなくて倫理だと教える。
倫理観を備えた人間を幼児教育から始め育てねばならない。それに双方向性と自己修正だ。そのためには一人ひとりの個が強くないと駄目だ。個を強くする教育こそ絆教育、パブリック・リレーションズ(PR)だ。
□語り手:井之上喬(井上パブリックリレーションズ社長)/聞き手:平井康嗣(本誌編集長)「広告代理店主導の「PR=広報・宣伝」という誤解を解きたい」(「週刊金曜日」2015年4月3日号)
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