goo blog サービス終了のお知らせ 

語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【詩歌】吉野弘を読む(3) ~首切案の出た当日~

2015年05月02日 | 詩歌
 首切案の出た当日。事務所では いつに変わらぬ談笑が声高に咲いていた。

 さりげない その無反応を僕はひそかに あやしんだが 実はその必要もなかったのだ。

 翌朝 出勤はぐんと早まり 僕は遅刻者のように捺印した。

 ストは挫折した。小の虫は首刎ねられ 残った者は見通しの確かさを口にした。

 野辺で 牛の密殺されるのを見た。尺余のメスが心臓を突き 鉄槌が脳天を割ると 牛は敢えなく膝を折った。素早く腹が割かれ 鮮血がたっぷり 若草を浸したとき 牛の尻から先を争って逃げ出す無数の寄生虫を目撃した。

 生き残ったつもりでいた。

 *

 <ここにはおそらく吉本隆明の「悲歌」とまったく同じ情景が描かれている。同じ近親憎悪がうたわれている。それは労働者の生活にかかわる問題だけに、状況はさらに苛酷であったといってよい。つまり、吉野氏はここで <先を争って逃げ出す無数の寄生虫> どもに対して断固たる訣別を宣言することができた。もうひとつの『マチウ書試論』を書くこともできたはずである。しかし、彼はそうしなかった。ただ黙って内なる絶望に耐えた。 <生き残ったつもりでいた。> という最後の一行が、そのとき彼の耐えたものの重さを物語っている。
 誤解を恐れずにあえていえば、ここで吉本氏と吉野氏を分けているものは、二人の学歴と環境の差である。工業大学を卒業して、研究者として会社に入った吉本氏にとって、労働運動はいわば意識の実験場であった。それが実験場であるかぎり、彼は実験の失敗とともに別の世界に <転位> することができた。しかし <根っからのプロレタリア出身者> である吉野氏にとって、労働運動はいわば所与の現実であり、生活と意識の最後の拠点でもあった。したがって彼は、そこで何を目撃しようと、この密殺された牛を見捨てるわけにはいかなかったのである。>【郷原宏「やさしい受難者 吉野弘論」(『続・吉野弘詩集』(思潮社、1994)所収】

□吉野弘「記録」(『消息』(私家版、1957)所収)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

     シラー・カンパニュラタ(釣鐘水仙)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【経済】金儲けの三つの秘訣 ~安田財閥~

2015年05月02日 | 社会
「きみに聞きたいが、カネを儲ける秘訣は何か、知っているかね?」
「金儲けの秘訣ですか」
「そうだ、株で成功するとか、何か発明するとか、そんなのは駄目だよ。必ず金儲けに成功する秘訣だ」
 金造はそういって太吉の反応をうかがった。
 太吉はかすかに首をかしげて考えこんだのち、
「わかりません」
 と残念そうにいった。
「教えてもらいたいかね?」
「本当にそういうものがあるのでしたら、ぜひ」
「あるとも。わたしは、きみをからかっているわけじゃない。いいかね、金儲けの秘訣はね、三カク主義を実行することだ」
「三カク主義?」
 太吉は不思議そうにくりかえした。
「そう、三カク主義だ。ただし、これは前もってことわっておくが、わたしの考えたことではない。むかし、安田財閥を一代で築いた安田善次郎翁がいったことだ。安田翁がある人に、あなたは一代で巨富を手にしたが、その秘訣は何か、と質問されたとき、答えたことなんだ」
「三カク主義を実行したからだ、といったんですか」
「そうだ、つまり、義理をかく、恥をかく、人情をかく。このことさえ実行できるなら、誰でも金を儲けることができる、と翁はいったんだ」
 太吉は沈黙している。金造はなおもいった。
「むかしの日本は、義理というものを重んじた。あいつは義理知らずだといわれると、それだけで仲間はずれにされた。しかし、近ごろは、義理なんていうものは、さして重くみられない。義理という言葉さえ知らない若い人もいる。だから、義理をかくくらいのことは、さして難しいことじゃないかもしれん。しかし、二番目の恥をかくということは、結構、難事だぞ。恥をかくようなことをしても平然としていられる神経は、ふつうの人はもっていない。人間には、誰だって誇りというものがあるからね。そんな恥ずかしいことはできるか、という人は多い。たとえばみんなの見ている前で、三べん回ってワンといえば金をやろう、といわれて、その通りにする人は、めったにいない。食うに困っていれば、あるいは、恥をしのんでそうする人はいるかもしれんが、多少とも余裕があったら、そんなことはしない。それどころか、人をバカにするな、と怒るだろうな。どうだい? きみならどうする?」
 太吉は答えなかった。金造は、
「人情をかく、というのも、ふつうの人には、なかなかできないことだ。もっとも、人間としてではなく、企業としてなら、それほど難しくはない。借金が返済できなければ、担保に入っている物件を取り上げる。それは、どこの企業でもやっていることだ。しかし、個人となると、そうはいかない。それを取り上げてしまえば一家心中するかもしれないとわかっていたら、やはり待ってやろうということになる。きみは、いまいった三つをかくことができるかね?」
「できそうもありません」
 太吉は吐息まじりにいった。

□三好徹『ビッグマネー』(サンケイ出版、1987)から引用
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする