首切案の出た当日。事務所では いつに変わらぬ談笑が声高に咲いていた。
さりげない その無反応を僕はひそかに あやしんだが 実はその必要もなかったのだ。
翌朝 出勤はぐんと早まり 僕は遅刻者のように捺印した。
ストは挫折した。小の虫は首刎ねられ 残った者は見通しの確かさを口にした。
野辺で 牛の密殺されるのを見た。尺余のメスが心臓を突き 鉄槌が脳天を割ると 牛は敢えなく膝を折った。素早く腹が割かれ 鮮血がたっぷり 若草を浸したとき 牛の尻から先を争って逃げ出す無数の寄生虫を目撃した。
生き残ったつもりでいた。
*
<ここにはおそらく吉本隆明の「悲歌」とまったく同じ情景が描かれている。同じ近親憎悪がうたわれている。それは労働者の生活にかかわる問題だけに、状況はさらに苛酷であったといってよい。つまり、吉野氏はここで <先を争って逃げ出す無数の寄生虫> どもに対して断固たる訣別を宣言することができた。もうひとつの『マチウ書試論』を書くこともできたはずである。しかし、彼はそうしなかった。ただ黙って内なる絶望に耐えた。 <生き残ったつもりでいた。> という最後の一行が、そのとき彼の耐えたものの重さを物語っている。
誤解を恐れずにあえていえば、ここで吉本氏と吉野氏を分けているものは、二人の学歴と環境の差である。工業大学を卒業して、研究者として会社に入った吉本氏にとって、労働運動はいわば意識の実験場であった。それが実験場であるかぎり、彼は実験の失敗とともに別の世界に <転位> することができた。しかし <根っからのプロレタリア出身者> である吉野氏にとって、労働運動はいわば所与の現実であり、生活と意識の最後の拠点でもあった。したがって彼は、そこで何を目撃しようと、この密殺された牛を見捨てるわけにはいかなかったのである。>【郷原宏「やさしい受難者 吉野弘論」(『続・吉野弘詩集』(思潮社、1994)所収】
□吉野弘「記録」(『消息』(私家版、1957)所収)
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シラー・カンパニュラタ(釣鐘水仙)

さりげない その無反応を僕はひそかに あやしんだが 実はその必要もなかったのだ。
翌朝 出勤はぐんと早まり 僕は遅刻者のように捺印した。
ストは挫折した。小の虫は首刎ねられ 残った者は見通しの確かさを口にした。
野辺で 牛の密殺されるのを見た。尺余のメスが心臓を突き 鉄槌が脳天を割ると 牛は敢えなく膝を折った。素早く腹が割かれ 鮮血がたっぷり 若草を浸したとき 牛の尻から先を争って逃げ出す無数の寄生虫を目撃した。
生き残ったつもりでいた。
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<ここにはおそらく吉本隆明の「悲歌」とまったく同じ情景が描かれている。同じ近親憎悪がうたわれている。それは労働者の生活にかかわる問題だけに、状況はさらに苛酷であったといってよい。つまり、吉野氏はここで <先を争って逃げ出す無数の寄生虫> どもに対して断固たる訣別を宣言することができた。もうひとつの『マチウ書試論』を書くこともできたはずである。しかし、彼はそうしなかった。ただ黙って内なる絶望に耐えた。 <生き残ったつもりでいた。> という最後の一行が、そのとき彼の耐えたものの重さを物語っている。
誤解を恐れずにあえていえば、ここで吉本氏と吉野氏を分けているものは、二人の学歴と環境の差である。工業大学を卒業して、研究者として会社に入った吉本氏にとって、労働運動はいわば意識の実験場であった。それが実験場であるかぎり、彼は実験の失敗とともに別の世界に <転位> することができた。しかし <根っからのプロレタリア出身者> である吉野氏にとって、労働運動はいわば所与の現実であり、生活と意識の最後の拠点でもあった。したがって彼は、そこで何を目撃しようと、この密殺された牛を見捨てるわけにはいかなかったのである。>【郷原宏「やさしい受難者 吉野弘論」(『続・吉野弘詩集』(思潮社、1994)所収】
□吉野弘「記録」(『消息』(私家版、1957)所収)
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