仏教でいう「我執」
「自分の思い」に「執着」することで、
我執があるがゆえに、ままならぬことに ますます 苦しむ
「我執」は、苦しみをうむ「もと」
「我執」を離れることを説くのが仏教です。
こう言うと、
「何だ、仏教は、脱・個性で、自分の意見をしっかり持たない。個性も重んじない。ただ周囲に妥協して生きる教えなのか~」
と、誤解されるかもしれませんが・・・
いえ、そうではありません。
そもそも、私たち一人ひとり、顔形が違うように、一人ひとり感性も違います。
生まれ育った「価値観」も異なります。
つまり、「常識だろう」と思うものが、各人違ったりします。
同じものを見ても、同じ話を聞いても
一人ひとり、見方、感じ方が違う
私たちは、充分「個性的」なのでありましょう。
「個性」がダメなのでも、
「自分の意見をしっかり主張する」のが、いけない のでもなく
「みんな一人ひとり違っていて、当たり前なんだ」
「でも、『自分の思いが正しい』と執着してしまう自分がいるんだ」
と、己の「我執」を「常識」と「正当化」する
「我執」の 危うさ を認識すること
それを仏さまが教えてくださっているように味わっております。
「自分の思い」に「執着」することで、
我執があるがゆえに、ままならぬことに ますます 苦しむ
「我執」は、苦しみをうむ「もと」
「我執」を離れることを説くのが仏教です。
こう言うと、
「何だ、仏教は、脱・個性で、自分の意見をしっかり持たない。個性も重んじない。ただ周囲に妥協して生きる教えなのか~」
と、誤解されるかもしれませんが・・・
いえ、そうではありません。
そもそも、私たち一人ひとり、顔形が違うように、一人ひとり感性も違います。
生まれ育った「価値観」も異なります。
つまり、「常識だろう」と思うものが、各人違ったりします。
同じものを見ても、同じ話を聞いても
一人ひとり、見方、感じ方が違う
私たちは、充分「個性的」なのでありましょう。
「個性」がダメなのでも、
「自分の意見をしっかり主張する」のが、いけない のでもなく
「みんな一人ひとり違っていて、当たり前なんだ」
「でも、『自分の思いが正しい』と執着してしまう自分がいるんだ」
と、己の「我執」を「常識」と「正当化」する
「我執」の 危うさ を認識すること
それを仏さまが教えてくださっているように味わっております。