きょうは、6日。6のつく日・・・ってことで、本願寺佐賀会館の常例法座にウチの仏教婦人会役員さんと共にお参りしてきました。
本日の布教使さんは、同じ組内のH寺前ご住職さんでした。(86才になられたそうですが、お若い、お若い)
大変有り難い、味わい深いご法話をいただいたのですが、
まず、「う~む、なるほど」と、聞かせていただいたのは、ヘレンケラーさんの言葉でした。
愛の反対は、憎しみではなく、無視である
「憎しみ」は、まだ、相手に「愛」と裏返しのエネルギーを感じているが・・・「無視」は、何の関心も、感情もなく・・・無視する側に罪の意識がない分、これほど残酷で、「愛」にかけ離れたことはないわけで・・・
キリスト教で「罪」の自覚、浄土真宗で言う 煩悩多い「凡夫」「悪人」の自覚がないということは、恐ろしい、傲慢なことなんだとあらためて思ったのであります。
本日の布教使さんは、同じ組内のH寺前ご住職さんでした。(86才になられたそうですが、お若い、お若い)
大変有り難い、味わい深いご法話をいただいたのですが、
まず、「う~む、なるほど」と、聞かせていただいたのは、ヘレンケラーさんの言葉でした。
愛の反対は、憎しみではなく、無視である
「憎しみ」は、まだ、相手に「愛」と裏返しのエネルギーを感じているが・・・「無視」は、何の関心も、感情もなく・・・無視する側に罪の意識がない分、これほど残酷で、「愛」にかけ離れたことはないわけで・・・
キリスト教で「罪」の自覚、浄土真宗で言う 煩悩多い「凡夫」「悪人」の自覚がないということは、恐ろしい、傲慢なことなんだとあらためて思ったのであります。