陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

始まりはここから

2010-08-03 12:02:19 | weblog
もう少し「努力」の話を続ける。

その昔、中学生や高校生の家庭教師をしていたころ、定期試験のが返ってくると、その答案を前に、自分がどこがわかっていなかったか、自分のどういうところがダメで、この点数になったか、生徒に答えさせていた。実際、わたしがおなじことをさせられていたのだ。

自分の経験からもよくわかるのだけれど、たいてい生徒というのは、自分の点数しか見ていない。悪い点でも取ったことなら、もう答案を見るのもイヤだから、机の中にしまいこんで、この世にそんなものはなかったことにしてしまう。自分のできないところや失敗に直面するのは、屈辱を感じるし、腹立たしく、うんざりする体験だから、そんなことはせずにすませたい。

けれど、それをやらないと、先に進めない。自分のつまずいた点、理解の不十分な点を理解することで、つぎに自分がやるべきことも見えてくる。だから、教える側に回ってからも、強制的にそれをやらせていた。

そんなとき、勉強をある程度やっている子は、一次関数の応用問題がよくわかっていなかったから、とか、ベクトルの展開のところがよくわかっていなかったから、とか、字が雑過ぎて、自分でも自分の書いた字を見誤って、計算間違いをしていたから、とか、基本的な単語を覚えてなかったから、とか、関係代名詞が出てくるととたんにどう訳したらいいかわからなくなってしまう、とか、具体的な答えが返ってくる。
なんだ、自分でもわかってるじゃない、それをつぎにやっていこうね、と話は進んでいく。

ところが、塾へは来る、家庭教師が来た時間だけはとりあえず机に向かっているが、あとは本を開くこともない、という子は、ほぼまちがいなく「自分が努力しなかったから」「なんだかやる気が出なかったから」と首うなだれるのである。

このことからわかるのは、「やる気」だの「努力」だのという言葉は、なぜできないか、その理由が判然としないときの説明のために持ち出してくる言葉だということだ。

そもそも「やる気」だの「努力」だのを出すもの(もしかして「根性」とか?)がどこかにあって、ドライアイスから二酸化炭素が出てくるように、そこから「やる気」や「努力」がもわもわと放射されてくるわけではない。ところがわたしたちの言葉の使い方を見てみると、なんだかそんなふうなイメージを抱いているのではあるまいか。

まず、「やる気」があって、そこから「努力」というエネルギーが出てきて、わたしたちを動かしていく……みたいな。

さらにいうと、「目標」があって、わたしたちは自由意思で「やる」と「やらない」を選ぶことができる、というふうに思っている。「やる」を選びたいのはやまやまだけれど、「やる気」がないから「やらない」方に押しやられてしまう……というふうに考えているんじゃないだろうか。

ところが実際には、まだ何も始めていない状態では、それが何だかわからないので、やる気の出しようもないし、何を一体「努力」したらよいのか、わけがわからない。何も始められないのは、努力ともやる気とも関係なく、単に始める条件が整っていないからだ。

わたしはこれまで何度となく、「どうしたらやる気が出るか」と聞かれてきたし、「自分はどうしても努力ができない」という相談も受けてきた。わたし自身が、長いこと、何かやりたいと思いながらできずにいて、できない自分の怠惰を責めていた時期が続いた。

けれども、目標に向かって何ごとかを始めることができないのは、「やる気」や「努力家であるかないか」という問題ではなく、その条件が整っていないのだ。わたしたちは「やる気」が出なかったり、努力ができなかったりする自分を責めるのではなく、自分ができるようになるためには一体何が必要か、考えることから初めていかなくてはならないのだろう。

昨日も書いたように、「努力」というものを「自分を高めよう、強く、大きくしよう、とする欲望」を行為に移したもの、と考えると、「努力」という言葉の持つ、ありがたみがずいぶん薄れてくるのではあるまいか。

わたしたちはどこかで、「目標に向けて一生懸命がんばること」というのは、尊いことだと思っていて、それができない自分をダメだ、ダメだと思ってしまうところがあるのだけれど、少し発想を換えてみたらどうだろう。

たとえば、いま、これから始められることで、十年、二十年続けられることはなんだろう、というふうに。

それが部屋の掃除だったら、そこから始めればいいと思うのだ。