今日からアーネスト・ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」の翻訳をやっていきます。まとめて読みたい方は一週間後くらいにまた来てみてください。
原文はhttp://members.multimania.co.uk/shortstories/hemingwaysnows.htmlで読むことができます。
キリマンジャロは標高6007メートルの雪におおわれた山で、アフリカの最高峰である。西側の山頂はマサイ語で「ヌガイェ ヌガイ」、神の家と呼ばれている。その「神の家」近くに、一頭の干からびた豹のしかばねが凍りついている。豹がこんな高地に何を求めてやってきたのか、理由は誰にもわからない。
「不思議なのは、ちっとも痛くないってことなんだ」彼は言った。「そこで、ああ、いよいよおいでなすったか、ってこっちにもわかるわけさ」
「痛くないってほんと?」
「ああ、全然痛まない。まあひどい臭いは勘弁してくれ。君もうんざりだろうが」
「そんなわけがないでしょう」
「見ろよ」彼は言った。「あんなふうに集まってるのは、こっちを見つけたからか、それとも臭いを嗅ぎつけたからなのか、どっちだろうな」
男が横になっている簡易寝台は、ミモザが作るふところの広い木陰に置いてあった。陰の外、太陽がぎらぎらと照りつける平原に目をやると、三羽の大きな鳥が猥褻ともいえるような格好でうずくまっているのが見える。空にはさらに十数羽が飛び交い、地面にはその動きに合わせて、黒い影が踊っていた。
「やつら、トラックが故障した日からずっと、あそこを飛んでたんだ」と彼は言った。「地上に降りてきたのは今日が初めてだかね。初めは、いつか小説に使うかもしれないと思って、やつらがどんなふうに飛ぶのか、じっくりと観察していたんだ。こうなっちゃ、笑い話にしかならないが」
「そんな話、聞きたくない」
「ただしゃべってるだけじゃないか。口を動かしてる方が楽なんだ。でも、君がいやならもう黙る」
「わたしがいやなわけないでしょう」と彼女は言った。「わたしにできることが何もないから、ちょっとイライラしてるだけ。でもわたしたち、気楽に構えてなきゃね。飛行機が来るまでは」
「さもなきゃ、未来永劫、飛行機なんて来ないことがわかるまでは」
「ねえ、何かわたしにしてほしいことはない? できることがあるはずよ」
「じゃ、この脚を切り落としてくれよ、そしたらこいつも治まるにちがいない。いや、そんなにうまい具合にはいかないか。それよりひと思いにおれを撃ってくれ。いまじゃ君の腕もたいしたもんだ。なにしろ、このおれが教えてやったんだから」
「そんなふうに言うのはもうやめて。何か読んであげましょうか」
「読むって何を?」
「カバンの中のまだ読んでないものなら何でも」
「じっと聞いていられそうにない」彼は言った。「話してるのが一番楽なんだ。ケンカしてれば時間も過ぎるってもんだ」
「わたし、ケンカなんてしたくない。ケンカはいや。ねえ、もうケンカなんて、ほんとにやめましょうよ、どれだけイライラしてても。だって、今日にもあの人たち、別のトラックで戻ってくるかもしれないし。それとも飛行機が来るか」
「もう動くのはごめんだよ」男は言った。「どこかに移ったって同じことだ。ま、君の気分が晴れるぐらいだな」
「意気地なし」
「人が死ぬってときに、悪態のひとつもつかないで、穏やかに逝かせてやれないものかねえ。おれにガタガタ言って何になるって言うんだ」
「あなた死んだりしないわよ」
「バカなことを言うな。こうやって死んでいくんだ。あいつらに聞いて見ろよ」彼が見上げた先には、巨大で汚らしい鳥が、禿上がった頭を丸めた背中の真ん中に埋めてたたずんでいた。そこに四羽目が舞い降りて、素早く脚を動かしたかと思うと、ほかの三羽に近づいたところで歩調を緩め、身を寄せる。
「あんな鳥なら、どこのキャンプのまわりにだって集まってる。あなたが気がつかなかっただけ。あきらめさえしなかったら、死ぬなんてこと、絶対にない」
「そんな言葉はどこで覚えたんだ。底抜けの阿呆だな」
「じゃ、誰かほかの人のことを考えてなさい」
「おいおい、いいかげんにしてくれよ」彼は言った。「それこそ、おれがこれまでずっとやってきた仕事じゃないか」
(つづく)
原文はhttp://members.multimania.co.uk/shortstories/hemingwaysnows.htmlで読むことができます。
* * *
The Snows of Kilimanjaro(キリマンジャロの雪)
The Snows of Kilimanjaro(キリマンジャロの雪)
by Ernest Hemingway
キリマンジャロは標高6007メートルの雪におおわれた山で、アフリカの最高峰である。西側の山頂はマサイ語で「ヌガイェ ヌガイ」、神の家と呼ばれている。その「神の家」近くに、一頭の干からびた豹のしかばねが凍りついている。豹がこんな高地に何を求めてやってきたのか、理由は誰にもわからない。
「不思議なのは、ちっとも痛くないってことなんだ」彼は言った。「そこで、ああ、いよいよおいでなすったか、ってこっちにもわかるわけさ」
「痛くないってほんと?」
「ああ、全然痛まない。まあひどい臭いは勘弁してくれ。君もうんざりだろうが」
「そんなわけがないでしょう」
「見ろよ」彼は言った。「あんなふうに集まってるのは、こっちを見つけたからか、それとも臭いを嗅ぎつけたからなのか、どっちだろうな」
男が横になっている簡易寝台は、ミモザが作るふところの広い木陰に置いてあった。陰の外、太陽がぎらぎらと照りつける平原に目をやると、三羽の大きな鳥が猥褻ともいえるような格好でうずくまっているのが見える。空にはさらに十数羽が飛び交い、地面にはその動きに合わせて、黒い影が踊っていた。
「やつら、トラックが故障した日からずっと、あそこを飛んでたんだ」と彼は言った。「地上に降りてきたのは今日が初めてだかね。初めは、いつか小説に使うかもしれないと思って、やつらがどんなふうに飛ぶのか、じっくりと観察していたんだ。こうなっちゃ、笑い話にしかならないが」
「そんな話、聞きたくない」
「ただしゃべってるだけじゃないか。口を動かしてる方が楽なんだ。でも、君がいやならもう黙る」
「わたしがいやなわけないでしょう」と彼女は言った。「わたしにできることが何もないから、ちょっとイライラしてるだけ。でもわたしたち、気楽に構えてなきゃね。飛行機が来るまでは」
「さもなきゃ、未来永劫、飛行機なんて来ないことがわかるまでは」
「ねえ、何かわたしにしてほしいことはない? できることがあるはずよ」
「じゃ、この脚を切り落としてくれよ、そしたらこいつも治まるにちがいない。いや、そんなにうまい具合にはいかないか。それよりひと思いにおれを撃ってくれ。いまじゃ君の腕もたいしたもんだ。なにしろ、このおれが教えてやったんだから」
「そんなふうに言うのはもうやめて。何か読んであげましょうか」
「読むって何を?」
「カバンの中のまだ読んでないものなら何でも」
「じっと聞いていられそうにない」彼は言った。「話してるのが一番楽なんだ。ケンカしてれば時間も過ぎるってもんだ」
「わたし、ケンカなんてしたくない。ケンカはいや。ねえ、もうケンカなんて、ほんとにやめましょうよ、どれだけイライラしてても。だって、今日にもあの人たち、別のトラックで戻ってくるかもしれないし。それとも飛行機が来るか」
「もう動くのはごめんだよ」男は言った。「どこかに移ったって同じことだ。ま、君の気分が晴れるぐらいだな」
「意気地なし」
「人が死ぬってときに、悪態のひとつもつかないで、穏やかに逝かせてやれないものかねえ。おれにガタガタ言って何になるって言うんだ」
「あなた死んだりしないわよ」
「バカなことを言うな。こうやって死んでいくんだ。あいつらに聞いて見ろよ」彼が見上げた先には、巨大で汚らしい鳥が、禿上がった頭を丸めた背中の真ん中に埋めてたたずんでいた。そこに四羽目が舞い降りて、素早く脚を動かしたかと思うと、ほかの三羽に近づいたところで歩調を緩め、身を寄せる。
「あんな鳥なら、どこのキャンプのまわりにだって集まってる。あなたが気がつかなかっただけ。あきらめさえしなかったら、死ぬなんてこと、絶対にない」
「そんな言葉はどこで覚えたんだ。底抜けの阿呆だな」
「じゃ、誰かほかの人のことを考えてなさい」
「おいおい、いいかげんにしてくれよ」彼は言った。「それこそ、おれがこれまでずっとやってきた仕事じゃないか」
(つづく)