陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

怒ること、怒ってみせること

2010-08-01 09:51:43 | weblog
図書館の貸し出しカウンターで、初老の男性が職員をしつこく叱責している場面に遭遇した。
開館間もない、平日の午前中の早い時間のことだ。夏休みといっても、まだ静かな図書館に、難詰の声は響き渡った。

どうやら本の中に何か大切なものをはさんだまま返却したその男性が、どうして返却のときに中を改めて、それを見つけてくれなかったか、と問いつめているらしい。それがいったい何かはわからなかったが、実際、本のページより小さく厚みもないハガキや紙きれだと、仮にざっと中を改めたとしても、なかなかわかるものではないだろう。

わたしもしおり代わりにダイレクトメールのハガキをはさんだまま返却したことがあって、一年近く経って、その本がまた必要になって借りたら、わたしがはさんだその場所に残っていて(というのもそのページが参照したいと思って、ふたたび書架から取り出したからだ。本を開いたら、必要なページがいきなり開いて、自分の宛名と住所を目にしたときは、ぎょっとした)、恥ずかしい思いをしたことがある。あまり借り手がつくこともないような、地味で固い本だったので、わたしが返却したあと、つぎにまた手に取るまで、その本を開いた人がひとりもいなかったのかもしれないし、つぎに借りた人も、全体の四分の三ぐらいまでは読まなかったのかもしれない(笑)。
もしかしたら、前に読んだ人もそのままにしておいたのかもしれないが。

わたしのハガキとふたたび遭遇した理由は不明だが、ともかくそのぐらいの見落としは、見落としのうちに入らないだろう。

ところがそのおじさんは、見つけてしかるべきだ、と言い募る。ほかの人なら、ちゃんと仕事をやっているからそんなことはしないだろう、おまえはやる気がないから、そんなことになってしまうのだ、と。

頭を垂れていた職員は、三十代も初めぐらいのおとなしそうな男性で、大きな体を縮めてるようにして、暗い顔で坐っていた。わたしも何度かその人に書庫の本を取ってきてもらったり、貸し出し手続きをしてもらったりした経験があったが、確かにてきぱきとした対応とは言い難いし、何かあっても口の中でもそもそと言うだけだから、たいそう聞き取りにくい。それでも窓口で言われることというのは、だいたい見当がつくので、これまでにその人で困ったという経験はなかった。女性の中にやたらフレンドリーな人がいて、いつもどうもありがとうございます、と頭を下げられたり、この本、最近書庫に入っちゃったんですよ、ごめんなさいねー、などと言われたりするのだが、そんな人よりは、無口で陰気な対応をされる方が、気分的に楽だったのだ。

カウンターにいたのは、その職員のほかにも何人もいた。ふだんなら、携帯の着信音や、ちょっと子供が走ったぐらいでも、わざわざ出てきて注意するような、口うるさい中年女性も隣の窓口に坐っていたのだが、自分の同僚の危機には無関係を装って、本のバーコードを読み取らせる作業を続けている。もしかしたら、介入すれば騒ぎが大きくなるだけだから、暴力沙汰にならない限り、不介入でいく、というそんなマニュアルがあるのかもしれないが。

その光景を見るともなしに見ていて、このおじさんは、相手を選んでやっているのだろう、という気がした。相手を選ぶ怒りというのは、本来の怒りとは性質のちがうものではないか。

怒ってみせる、という言い方がある。ただの「怒る」ではなく、自分は怒っているんだぞ、というデモンストレーションを人に対して行うことを指す。「怒り」というの感情の発露ではなく、自分より弱い立場の相手に、自分はこれだけ権力があるのだと、相手と自分の持つ力の差を誇示するのである。

「オレさまに対して、おまえごときがこんなことをしやがって。目に物を見せてくれるわ」

そうしてそのつぎに、殴りつけたり、クビにしたり、と自分の持っている権力を行使するのだ。たとえばスネオなら、自分のお父さんに頼んで、自分とジャイアンとしずかちゃんだけ南の島に連れて行って、のび太だけ仲間はずれにする。

そういえば、と、このあいだ読んだ小田嶋さんのコラムを思い出した。

「テレビ番組もリツイートされ炎上すると覚えておくべし」

念のために、その元となったいしかわじゅんのコラムも読んで、ついでにYou Tube の動画も見た。

動画を見ていて、何ともいえない「作られた身内の和気藹々感」というのが漂ってきて、やれやれと思ったのだが、なんとなく、これはほんとうにあった話じゃないな、と思った。「木村兄」という人がいかにもやりそうなことを話して、わかるわかる、彼ならそんなことをやりかねない、と自分たちが「身内」であることを確認し、「外部」にいる人間には決してわからないだろう、と笑い合っていたのではないか。そうして、彼らの話の外にはいるけれど、会場に招かれた人も、自分たちもまた「身内」であることを確認するために笑っていたのではないか、とまあ、そんな気がしたのである。

おそらく、自分の部屋についてきて、そんなつもりじゃなかった、と帰っていった女性ファンはきっとひとりやふたりではなくいたのだろうし、件の「木村兄」が、その女性たちに向かってものを投げつけたり、暴力をふるったりしたことも、一度や二度ではなかったんじゃないか。

だが、そのときに投げたものは、カチカチに凍った鶏肉などではなく、手近にあった、もっと笑えない、危険なものだったはずだ。それを「凍った鶏肉」に換え、「おもしろい」小話に仕立て上げたところが、この話をした人は「自分の話芸」だと思ったのだろうし、「木村兄」をよく知っている人からすれば、「実在の登場人物が、実際のバックグラウンドとキャラクターを背負って演じるコント」と思って、気軽に笑えたのだろう。そうして、笑えることが、一種の自分たちの身内の会員証であるかのような、そんな優越感に浸っていたような気がする。

だから、どれだけネットでこの話が問題になったとしても、あの人たちは、「ネタを真に受けて、これだからシロウトは……」と思っているんじゃないだろうか。

わたし自身がいつも実際にあった話をちょっとだけいじって、別の話に仕立て上げることをやっているから、そんなふうに感じたのかもしれないのだが。

ともかく、「木村兄」という人は、女性ファンに対して「このオレさまに対して、おまえごときがこんなことをしやがって。目に物を見せてくれるわ」と権力を誇示した。そうして、「千原ジュニア」という人が、それをおもしろおかしく脚色して、小話に仕立てて披露したのだろう。冒頭、かなり前、と強調していたのは、英語でいうところの "Once upon a time" 、「むかしむかしあるところに」というマクラだったのではあるまいか。

つまり、何が言いたいかというと、怒りの発露は周囲の人をひるませ、怯えさせもするけれど、同時に事態の修復に向かわせることもする、けれど、それに対して、その人が「怒ってみせている」だけのときは、自分の権力をただただ誇示しているだけだから、放っておくしかない、ということなのである。それに対して、何らかのリアクションを起こしたとき、権力の誇示をしている人は、自分の権力圏が拡大したとばかりに、いっそう誇示の範囲を広げるだろう。エンジンにエネルギーが送り込まれたと同様の作用を起こし、いっそうそのデモンストレーションは華々しいものになっていくだろう。

目的の怒りではなく、手段としての怒り。
だから、手段としての怒りには、解決策はない。
そんなものに巻き込まれたくはないけれど、不幸にして巻き込まれたときは、ああ、この人は自分に力があることを示したいだけなのだなあ、と、観客になって、それをしらけた顔で眺めるというのも、ひとつの対処法なのかもしれない。



それにしても、テレビに出ている人の身内意識っていうのもすごいものだなあ。
あれもきっと一種の権力意識なんだろうなあ。
テレビに出られるという権力。
「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」ってか。ちょっと困っちゃうな。