陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アーネスト・ヘミングウェイ 「キリマンジャロの雪」その2.

2010-08-31 23:19:26 | 翻訳
その2.


 彼は横になってしばらくのあいだ口をつぐみ、かげろうがゆらめく平原の彼方のブッシュを見やった。黄色い大地を背景に、数頭の羊が白い点を描いている。そのはるか向こう、ブッシュの緑を背に浮かび上がる白い色は、シマウマの一群だ。ここは快適な野営地だった。丘を背にして、木は高く生い茂り、水にも恵まれている。すぐそばには涸れた泉の跡もあり、朝になると砂鶏も飛んできた。

「ねえ、何か読んでほしくない?」彼女は尋ねた。男が横になっている寝台の脇に、キャンバス・チェアを置き、そこに腰を下ろしている。「いい風が吹いてきたわ」

「いや、大丈夫だ」

「トラックがそろそろ来るんじゃない?」

「トラックなんて知ったことか」

「大事なことでしょ」

「君の大事なことってのは、えらくたくさんあるらしいな」

「大切なことは、ほんの少ししかない、ハリー」

「一杯やるってのはどうだ?」

「お酒は良くないと思う。ブラックの本にもアルコールは一切避けるように、って書いてあったから」

「モーロ!」彼は怒鳴った。

「はい、ブワナ(旦那様)」

「ウィスキー・ソーダを持ってきてくれ」

「かしこまりました、ブワナ」

「そんなことしないで」彼女は言った。「そんなもの飲むなんて、あきらめたことと一緒じゃない。ケガした体に悪いって書いてあるんだから。毒なんだから」

「とんでもない」彼は言った。「薬さ、おれにとっちゃ」

 こういうふうに何もかもが終わっていくわけか、と彼は思った。やりとげるチャンスは永遠に来ないってことだ。こんなふうに終わるのか。飲むだの飲まないだのでやりあいながら。

右脚が壊疽を起こし始めると同時に、痛みはなくなり、痛みが消えると同時に怖れもどこかへ行ってしまい、いま感じているのはひどい疲労と、こんなことで終わってしまうことに対する激しい怒りだけだ。ここまで来てしまうと、近づきつつある死に対しても、好奇心すらわいてこない。もう何年もおれに取り憑いて離れなかったのに。結局、死そのものというのは、何の意味もないんだな。疲れたというだけで、これほどあっさりとどうでもよくなってしまうとは、おかしなものだ。

 うまく書けるようになるまで大切に取っておいたさまざまなことを、おれはもう、決して書くことはないのだ、と考えた。まあ、何とか書こうとして失敗することもなくなったわけだが。きっとおれには無理だったんだろう。だからこそ、書き始めるのをずるずる先送りし、延ばしに延ばしてきたんじゃなかったか。なんにせよ、もういまとなってはわかりようがないことだが。

「こんなとこ、来なきゃよかった」女が言った。グラスをにぎりしめ、唇を噛んだまま、彼にじっと目を注いでいる。「パリにいたら、こんなことにはならなかったのに。あなた、パリが好きだっていつも言ってたじゃない。あのままパリにいたってよかったし、どこかよそへ行ったってよかった。あなたが行きたいところなら、どこへだってわたしはついていったのに。狩猟がしたいのなら、ハンガリーだってできるんだし、そこでなら快適に過ごせたのに」

「君の金でな」彼は言った。

「そんな言い方するなんてひどい」彼女は言った。「わたしのものはいつだってあなたのものだったじゃない。何もかも捨てて、あなたの行くところならどこだってついて行ったし、あなたが望むことを何でもやってきた。だけど、ここだけは来なかったらよかった」

「ここが気に入ったって言ってたじゃないか」

「あなたが元気なときはそうだったの。でも、いまは大っきらい。なんであなたの脚がそんなふうにならなきゃいけなかったの? わたしたち、こんな目に遭わなきゃならないような何をしたって言うの?」

「最初にかすり傷ができたときにヨードチンキを塗るのを忘れたってだけさ。感染症に罹ったことなんてなかったから、気にもとめなかった。そのあと悪くなってから、薄い石炭酸溶液を使ったんだ。ほかの消毒薬がなかったからね。そのあげく、毛細血管が麻痺して、壊疽を起こした」彼は相手を見つめた。「それだけのことだ」

「わたしが言ってるのはそんなことじゃない」

「じゃ、もしおれたちが半人前のキクユ族の運転手なんか雇わずに、立派な修理工を雇ってさえいたら、オイルの点検もおさおさ怠らず、トラックのベアリングを焼き付かせるようなヘマもしなかった、とでも?」

「そんなことじゃないんだったら」

「ってことは、もし君が君のお仲間、オールド・ウェストベリだのサラトガだの、パーム・ビーチだのの連中を捨てて、おれに乗り換えたりしなけりゃ」

「だってあなたを愛してたから。そんなこと言うのは卑怯よ。こんなに愛してるのに。これからもずっと愛してる。あなたはそうじゃないの?」

「いや」男は言った。「たぶん愛してはいないな。これまでだって」

「ハリー、なんてこと言うの? 頭がどうかしちゃったんじゃない?」

「ちがうね。どうにかなるような頭すら持っちゃいない」

「そんなもの飲まないで」彼女は言った。「ねえ、お願い。お酒なんてやめて。力を合わせて、できるだけのことをしましょうよ」

「君がやればいい」彼は言った。「おれはもう疲れた」

* * *
 いま彼の脳裡には、トルコのカラガッチ駅があった。彼は荷物を持って立っており、闇を引き裂いてシンプロン・オリエント急行がやってくる。彼はいま、ギリシャ軍が撤退したあとのトラキアを発とうとしているのだ。これも、そのうち書こうと大切に暖めてきた題材のひとつだった。それと、その朝の食事の席で、窓の外、ブルガリアの山々が雪をかぶっているのが見えたことも。

ナンセンの秘書がナンセン老人に、あれは雪でしょうか、と尋ねたところ、老人はそちらに目をやり、いや、あれは雪ではない、と答えた。雪にはまだ早すぎる、と。そこで秘書はほかの女の子たちに、いいえ、あれは雪じゃないんですって、と繰りかえした。雪じゃないのね、とみなが口々に言い、わたしたち見間違えたんだわ、と言い合った。だが、雪以外の何ものでもなく、ナンセンが開始した住民交換計画は、雪の中へ人びとを送り込むことになった。その冬、歩き続けた人びとを死に追いやったのは、その雪だった。(※訳注:ギリシャ-トルコ戦争で休戦時に締結されたローザンヌ条約によって、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定し、約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住することになったことを指している。ナンセンはこの移動に尽力した。ヘミングウェイ自身も希土戦争に特派記者として従軍している)

 あれもまた雪だった。同じ年のクリスマスの週、オーストリアのガウエルタールは雪が毎日降り続いたのだ。みんなで生活した木こり小屋には、大きくて四角い陶器のストーヴが部屋の半分を占領していて、みんなブナの葉をつめたマットレスで眠った。そのとき、血だらけの足の脱走兵が雪の中をやってきた。警察がすぐそこまで来ている、と言うものだから、みんなはウールの靴下を履かせてやり、彼の足跡が雪ですっかり覆われてしまうまで、みんなで憲兵に話かけて引き留めたのだった。





(この項つづく)