陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

きわめて私的な努力の話

2010-08-02 10:57:03 | weblog
テレビというと、最近好んで見ているのが、『ゲゲゲの女房』である。
台本という面では、ナレーションで主人公の内面を説明しすぎだと思うのだが、朝の連続ドラマなんていうものは、集中して主人公の内面まで思いめぐらせる視聴者を想定していないのかもしれないので、その点は仕方がないのかもしれないのだが、ナレーターを務める野際陽子の発声といい、発音といい、大変美しく、ああ、そういえばこの人は昔アナウンサーだったんだなあ、と改めて思う。母音と子音がきっちりと合わさって、胸の深いところから豊かに発声される声にのって出てくる。最近ではアナウンサーでも「サ」行では母音を発音しない人が結構いて、聞いていて気持ち悪くてしょうがなくなるのだが、こんなふうにきちんと発音された日本語は、耳に心地よく、いつまでも聞いていたくなってしまう。

ともかく、この話のおもしろさは、主人公がおとなしくて控えめ、というところにある。これまでNHKの朝の連続ドラマの主人公は、自立心旺盛で、やたらキャリア志向、だったような気がする(なんていっても、まともに見たのは『ふたりっこ』以来で、その前は、見たという記憶がないのだが)。ともかく、この自立心旺盛な主人公が立てる波風が、物語を動かしていく、という構造になっていたはずだ。

ところがこの主人公は、動かない。結婚までは、家族を支え、結婚してからは夫を支える。そうして、事件はいつも外から起こって、巻き込まれながら、それに誠実に応えていこうとする。

とはいえ、映画やドラマというのはたいていそのような構造を取る。主人公が巻き込まれ、何がなんだかわからないうちに穴に落とされる。良く言えばバランスの取れた、悪く言うと、特に突出した個性のない主人公が、みんなの力を借りながらなんとかその穴から這い上がることで、成長を果たし、周囲とのつながりも作る、というのが基本的なプロットなのである。

ところが朝ドラの主流はそうではなかった。
ヒロインはつねに「わたしが」「わたしが」と主張し、どこへでもズカズカと踏み込んでいく。だから、朝ドラのヒロインを好きになろうと思えば、彼女に感情移入するしかない。思いっきり彼女に共感し、一緒に泣いたり、不当な仕打ちに腹を立てたり、成功を喜んだり、そうでもしなければ、そんな大騒ぎばかりしているような人物が主人公のドラマにつきあっていられない。一日十五分、半年間という長さは、視聴者とのそういう関係を可能にしていたのかもしれない。

視聴者のメインが女性と想定されていたこともあるのだろうが、そんな物語が、人びとの共感を生んできたことを思うと、フェミニズムもある程度共感を持って受け入れていたのかもしれない。そうして、視聴者のドラマの見方も変わると同時に(わたしは一週間まとめの録画を見ている)、そんな主人公の行動は、いつのまにか疎ましがられるようになってきたのだろう。

自分から動かない主人公が何をしているかというと、家計のやりくりをし、買い物に行き、洗濯をし、家の掃除をしている。実は、夫である漫画家があまりに売れないために、この「家計のやりくり」が波瀾万丈なのだが、それにしても従来の、目標を高く掲げて努力奮闘する朝ドラのヒロインたちとはずいぶんな違いである。

わたしたちは、基本的に何かに向けて「努力する」ことを、尊いものと考えている。けれども、そのときにいう努力とは、親の反対を押し切って、焼き物をする親方のところに弟子入りして、必死でろくろを回す(そんなストーリーはいかにも朝ドラ的ではないか)ようなことであって、日々、床のぞうきんがけをしたり、ご飯を炊いたり、ということは、想定されていない。

こう考えてみると、何が努力で、何が努力でない、というのは、実はわたしたちの恣意的な判断にすぎない。あるものを努力と認め、そうでないものを決まり決まった日常とか、ときには惰性、みたいな見方をすることに、実は根拠などないのではないか。

本来なら、誰も努力とは認めない、床を磨いたり、ご飯を作ったりといった生活の底を支えていくようなことを毎日続けていくのも、努力だろうし、それをルーティンとして努力という意識もなくやっているのは、実はすごいことなんじゃないか。

ストーリーの中に、いかにも従来の朝ドラ的な女の子が一時期出てくる。親の反対を押し切って、漫画家になりたいと上京し、パチンコ屋に住み込みながら、出版社に自分の作品に売り込みに行く。同じように苦労している先輩漫画家である水木しげるにひそかに憧れ、別の男に言い寄られもする。

けれども、彼女はほどなく表舞台から去っていく。まるで、努力というのは、何かを目指して、一時期、それだけに全力を尽くすことではない、と言わんばかりに。

何かを目指す、というのは、別の言い方をすれば、自分を高めよう、強く、大きくしよう、という欲望である、ということでもある。そうして欲望というのがどこまでもふくれあがっていくことを思えば、その目標というものには、実のところ、きりがない。そのきりのないことを続けていくことだけを「努力」と呼ぶのだとしたら、なんというか、えらくそれはしんどい話だし、わたしは努力しています、と宣言している人の近くには、寄りたくないような気さえしてくる。

けれども、それだけがほんとうに「努力」というものなのだろうか。
二十年、三十年とおなじことを続けていく、自分のため、誰かのため、ということすら考えず、良いとき、悪いとき、さまざまな出来事に巻き込まれるときがありながら、なおかつ続けていけるようなこと、努力していると感じることもなくなり、それでも続けていけるようなことが、本当の「努力」ということなのかもしれない。
来る日も来る日も、つぎのご飯、何を食べようか、と頭を悩まし、その支度をするような。