陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

家族の問題

2010-08-05 19:09:18 | weblog
わたしはアン・タイラーというアメリカの作家が好きで、80年代の半ばぐらいから、作品が出版されるたびにずっと読んでいるのだが、この人がテーマとしているのは一貫して家族である。それも、崩壊しつつある家族だ。

崩壊を経て、何とかしてそれを立て直そうと献身する人がいるおかげで、再生に向かう家族もあるし、ぶっこわして別のところに勝手に作ってしまう人が主人公の作品もあるが、いずれの家族もかならず一度はバラバラになってしまう。

タイラーはドストエフスキーの研究で修士号を取っている人で、中期の傑作に『カラマーゾフの兄弟』を下敷きにした『ここがホームシックレストラン』(原題を直訳すると「ホームシックレストランでの食事」というぐらいになって、このホームシックレストランというのは、次男がオーナーシェフを務める店の名である)という作品がある。

1950年代から80年代の約三十年間を描いたアメリカ版カラマーゾフは、同じように三きょうだいの物語(長男・次男・長女それぞれにカラマーゾフの兄弟の投影があって、それを見つけるのはたのしい)が、こちらは強い父親ではなく、根無し草のセールスマンである。この「地域と結びつきをもたない孤立した家族」というのが、この作品のひとつの大きな背景となっている。

父親は、いつものように仕事に出たきり、ある日帰ってこなくなってしまった。そこで母親は孤軍奮闘することになる。地縁のないところで友だちもなく、食料品店で働きながら、三人の子供を育て上げる。まるで鬼軍曹のように子供を叱咤するその姿は、子供から見れば暴君そのもの。

カラマーゾフの場合、ロシアという国土が大きな問題としてあったが、アメリカ版のそれには国土も風土もなく、ただ「家庭」だけ。大地と結びつくかわりに家族と結びつく。家族という共同体が、いきなり社会の中に剥きだしで放り出されている。その結果、孤立した家族が互いにしがみつきあうわけだから、家族の凝集力がものすごいことになってしまう。子供たちはそれぞれに、何とかこの母親との関係から外に出ようと苦しむ。

地域のゆるやかな共同体や親戚からも切り離されて、世間の真っただなかに放り出され、頼る者は自分の家族だけ。そういうなかで、しがみつき、憎み合いしながら成長し、なんとか外へ出ても、やっぱり自分が通ってきた過去は、自分自身の行動に如実に現れ、立ち上ってくる。どれだけ大人になっても、何らかの意味で、子供たちは過去を再現しているのだ。

それでも『ホームシックレストラン』は、家族は再生はしなかったけれど、問題を抱えながら子供が成長することで、なんとなく希望の気配のある終わり方だった。

ところが2004年に発表された『結婚のアマチュア』(原題を直訳すると「アマチュアの結婚」ぐらいか)は、中心となる家族は完全に崩壊する。こちらが扱うのは、第二次世界大戦から、二十一世紀初頭の六十年間。一家が誕生し、途中で破局し、それでも夫婦という社会的関係が失われても、家族という絆だけは残っていく……、こう書くと、いかにもタイラーらしいドメスティック・ストーリーなのだが。

この作品がすごいのは、読みながら、こうなっていくだろう、というこちらの予想が、ことごとくつぎの章で裏切られることだ。逆に、裏切られることによって、わたしたちが結婚や夫婦や家族に持っている幻想が明らかになってくる、という仕掛けになっているのだ。

決して悲惨な話ではない。どんなひどいことが起こっても(娘が家出し、何年も経ってから薬物中毒で入院したことを知らされる。残った子供を引き取ってくれないか、と連絡が来てみると、戸籍もなく風呂に入ったこともない三歳の男の子がいる)、それを描きだすタイラーの筆致は暖かく、ユーモラスである。だが、それにだまされてはいけない。タイラーは、わたしたちは恋愛小説ならふたりは結ばれる、家族ならば愛し合う、別居しても互いに良いところを思い出して元の鞘におさまる、離婚したら、それぞれが幸せな生活を築き始める……そんな漠然とした予想を抱いていることを、暴き出すのだ。
えっ? そう来るの?? という展開を用意することによって。

家庭だから、家族だから、そこに幸せがあるんじゃない、お互いのエゴとエゴがぶつかり、それぞれの歴史がぶつかり、どうやったって幸せになんかなれない(ぶつかり合いがなく、穏やかに過ごしていてもそれは「幸せ」ではない、というところまで、タイラーは描く)、そうではなくて、救いがどこかにあるんじゃなくて、どこにもないからしがみつくしかない、ほかによりどころがないから、家や家族にしがみつくしかないのだ、という話なのである。だってここはロシアじゃないから。たとえばラスコリニコフが最後に大地と結びついて再生を果たすようなことはできないのだから、と。

登場人物たちがしがみつこうとしているのは、現実の家や家族ではなく、幻想としての家族である。そうして、物語の筋を追いながら、わたしたち自身がその幻想を持っていることが暴かれていく。
家族だったら愛し合い、幸福な日々を過ごすものだ、と思っているでしょう? と。
そんな家族なんて、どこにもいないのよ、と。
どこの家にも問題があり、それに目をつぶり、目を開けてそっちを見てしまったらそれでおしまい。新しい家族を作ろうとして、そこは確かに平穏かもしれないけれど、それは単なる退屈な日々に過ぎず、幸福なんてものでもないのよ、と。

タイラーは恐ろしい。
ストーリーテリングは見事なもので、読んでいるとおもしろいのだけれど。

それにしても、である。
これだけ問題を抱えていても、たとえぶつかりながらでも、タイラーの描く家族は、重荷を共に分かち合おうとしている。重荷というのは、人の誕生であり、死であり、老いである。ぶつかりながら、どうしようもなく行き違いながら、もはや法的には家族ではなくなっても、それでも人の死や誕生(というか、ここでは登場といった方が正確なのだが)をみんなで分かち合うのだ。

もしかしたらタイラーが唯一、家族に託しているのは、そのことなのかもしれない。
それがあるから、わたしたちは絶望的な気持ちにならず、タイラーの作品を読み続けるのかもしれない。


一方、このところ、新聞をにぎわしているのが、昨日も書いたように不在高齢者の問題、これを見ていて不思議なのは、家族の誰かが病気になった、死んだなどということは、とんでもなく大きな出来事で、人ひとりでは抱えきれるものではない、ということだ。抱えきれないから、家族で分かち持ち、親戚で分かち持ち、さらに近隣や社会全体で、みんながその人物との関わりと社会的役割に応じて分かち持つ。わたしたちはそうやって人の生や死を社会的出来事として、みんなで担ってきたのだ。それを、その当事者は、どうやってたったひとりで、もしくはほんの数人で、担えたのだろうか。

ひとりで抱えなければならなくなって、抱えきれなくなった人が、子供を殺したという事件もあった。
それを考えると幼児遺棄事件も、高齢者不在も、コインの両面なのではないのだろうか。

家族というのは、おそらく、死と誕生というふたつのことを、共に担う、それさえしていればいい関係で、あとはおまけみたいなもの、と言ってしまったら、言い過ぎになってしまうのだろうか。