陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フィリップ・K・ディック『変種第二号』その5.

2009-04-04 23:02:52 | 翻訳
その5.

「なんで私に気がついた?」

「待ってたから」

「待ってた?」ヘンドリックスはわけがわからなかった。「何を待っていたんだ」

「捕まえようと思って」

「何を捕まえるつもりだったのか?」

「食べるもの」

「そういうことか」ヘンドリックスの口元が険しくなった。十三歳の子供がネズミや地リスや腐りかけた缶詰を食べて、生きながらえているのだ。廃墟になった町の地下の穴ぐらで。放射能が残留し、クローの群れがうろうろし、惰行飛行するロシア軍の地雷が空から降ってくる。

「どこ行くの」デイヴィッドが聞いた。

「ロシアの前線だ」

「ロシア?」

「敵だ。戦争を始めたやつらだ。やつらが先に核爆弾を落としたんだ。全部、連中が始めたんだ」

少年はうなずいた。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。

「私はアメリカ人だ」ヘンドリックスは言った。

それにも返事はなかった。ふたりは休まず歩いた。ヘンドリックスが少し前を歩き、デイヴィッドがそれに続いた。汚れたクマをしっかりと胸に抱いている。

四時近くになって、ふたりは食事をするために止まった。ヘンドリックスはコンクリート板の間のくぼみに火を起こした。雑草を引き抜き、そこへ木ぎれを積み重ねる。ロシアの前線まで、もうどれほどもなかった。

彼がいまいるところは、昔、果樹園やブドウ畑がどこまでも続く渓谷だった。いまやその名残をとどめているのは、いくばくかの枯れた切り株と、はるか彼方、地平線へと伸びていく山脈だけだ。風に煽られて、灰はもうもうとたちこめ、やがて雑草やビルの残骸、壁、そこここに残る昔は道路だったものの上に降り積もってゆく。

ヘンドリックスはコーヒーをわかし、ゆでたマトンとパンを温めた。「食えよ」パンとマトンをデイヴィッドに手渡した。デイヴィッドは火のすぐちかくにしゃがんでいる。飛び出した膝小僧は真っ白い。食べ物をしげしげとと眺め回してから、首を横に振って返した。

「いらない」

「いらないだって? 少しもいらないのか」

「いらない」

ヘンドリックスは肩をすくめた。たぶんこの子はミュータントだ、ふだん特別な物を食べているんだろう。それならそれでいい。腹が減れば、自分で何か見つけて食うさ。この子は妙だ。だが、世界中、いたるところでいろんなことが変わりつつあるんだ。生命だって、もはや前と同じではあるまい。ふたたび前のようになることもないだろう。人類はそのことを悟らなければならなくなるにちがいない。

「好きなようにするがいいさ」ヘンドリックスはそう言った。自分だけパンとマトンを食べ、コーヒーで飲み下した。固くて飲み込みにくかったので、ゆっくりと食べた。食事が終わると立ちあがって、火を踏み消した。

デイヴィッドはのろのろと腰を上げ、子供のくせに老けた目で彼をじっと見ていた。

「行くぞ」ヘンドリックスは言った。

「うん」

ヘンドリックスは銃を両手で抱えて歩いた。敵は近い。どんなことが起こってもいいように気持ちを引き締めた。ロシア軍も、自分たちの送り出した伝達係りの返事を携えて、使者が来ると考えているはずだ。だが一筋縄ではいかない連中だ。判断ミスの可能性はつねにあった。あたりの景色に目を走らせる。金属滓と灰、小高い丘がふたつみっつ、黒こげの木々、そのほかには何もない。それと、コンクリートの壁がいくつか。だが、前方のどこかにロシア前線の一番目の掩蔽壕があるのだ。前線司令部が。地下深くに。展望鏡と銃口がいくつかのぞいているはずだ。もしかしたらアンテナも。

「ここから近いの?」デイヴィッドがたずねた。

「そうだ。疲れたか」

「ううん」

「ならどうしてそんなことを聞く」

デイヴィッドは返事をしない。後ろからおそるおそる足を踏みしめ、灰の上を歩いてくる。脚も靴もほこりで灰色になっていた。やつれた顔にも筋ができている。青白い肌に灰の隈取りだ。その顔には血の気というものがなかった。地下室や下水渠、地下シェルターで大きくなった、最近の子供たちの特徴だ。ヘンドリックスは歩を緩めた。双眼鏡を目に当てて、前方の地面を調べた。やつらはどこかそこらで、おれがくるのを待っているのだろうか。おれを見張っているのだろうか、ちょうど部下たちがロシアの伝達係を見張っていたように。ひやりとしたものが背筋を走った。おそらく自分の部下がそうしていたように、いつでも自分を殺せるように、待ち構えているのだろう。ヘンドリックスは立ち止まり、顔の汗をぬぐった。

「クソッ」不安がこみあげる。だが、向こうも自分のことは予期しているはずだ。

状況はちがう。

両手で銃をきつくにぎって、灰の上を大股で進んだ。後ろからデイヴィッドがやってくる。ヘンドリックスは唇をきつく結んであたりを見回した。いつそいつが来るとも限らない。白い閃光が炸裂して、ズドン、地中深くコンクリートの掩蔽壕から慎重に狙い定めた一発が。

片腕をあげて、大きく円を描いた。動きはない。右手には小山が続き、てっぺんには枯れた木の幹が並んでいた。野生の蔓が木をおおっているのは、あずまやの名残なのだろう。そして行けども行けどもつづく、黒ずんだ雑草。ヘンドリックスは小山を注意深く眺めた。あの上には何かないか? 見張りには願ってもない場所だ。

用心深く小山に近づいていくと、デイヴィッドは黙ったままついてきた。もしこれが自分の部隊なら、この上に歩哨を配置し、管轄区域に侵入を試みる軍隊を監視させるだろう。もちろんここを自分が掌握しているなら、クローを周囲に配置して、完全な警備体制を敷くにちがいない。脚を止めると、腰に手を当てて大股で立った。

「ここなの?」デイヴィッドは聞いた。

「近くまで来た」

「じゃあなんで止まったの?」

「隙を与えたくない」ヘンドリックスはそろそろと前進した。小山はいまや目と鼻の先、右手すぐにまで迫っている。見下ろされているのだ。不安は増した。もしイワンが上にいれば、万事休すだ。彼はもう一度手を振った。連中も、カプセルの書簡の返事を携えた、国連軍の軍服を着た人間を待っているはずだ。すべてが罠でないかぎり。

「ちゃんとついて来い」振り返ってデイヴィッドに言った。「遅れるんじゃないぞ」

「一緒に歩くんだね?」

「真後ろに着くんだ。すぐ近くに連中はいる。どんな隙も見せるんじゃない。さあ、来るんだ」

「ぼくなら大丈夫だよ」デイヴィッドは彼のあとを、数歩離れてついてくる。まだテディ・ベアをしっかりと抱きしめたまま。

「好きにしろ」ヘンドリックスはふたたび双眼鏡をのぞいた。突然、緊張が走った。一瞬、何か動いたのではなかったか? 小山に注意深く目を走らせた。何もかも、静まりかえっていた。死んだように。あの上に、生き物はいない。木の幹と灰があるだけだ。ネズミが数匹、いるかもしれないが。大きな黒いドブネズミが、クローからも逃げ延びて。突然変異のネズミは、唾液と灰を混ぜて、自分たち専用のシェルターを作っているのだ。しっくいのようなものだ。適応ということだ。

ヘンドリックスはふたたび歩き始めた。頭上の小山に、背の高い人影が現れた。マントが風にはためいている。灰緑色。ロシア兵だ。その後ろに、二人目の兵士が現れた。これもロシア兵。ふたりとも銃を抱え、ねらいを定めている。ヘンドリックスは凍りついた。口が開いた。兵士達は片膝をついて、斜面を見下ろし、ねらいを定めている。三番目の兵士がてっぺんに加わった。いくぶん小柄な体を灰緑色の軍服に包んでいる。女だ。ふたりの兵士のうしろに立った。

ヘンドリックスはなんとか声を出すことができた。「やめろ!」気が狂ったように手を振り回した。「私は……」

ふたりのロシア兵が発砲した。

(この項つづく)


(※「鶏的思考的日常vol.24」更新しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

フィリップ・K・ディック『変種第二号』その4.

2009-04-03 22:58:49 | 翻訳
その4.

ヘンドリックス少佐は二本目の煙草に火をつけた。気の滅入る風景が続く。灰と廃墟を除けば、何もないのだ。一人きりだ。世界中で生きているのは自分だけのような気がした。右手に広がるのは、かつて町だった廃墟だ。壁と瓦礫の山でそれと知れる。彼は火の消えたマッチを捨て、歩を早めた。

不意に足が止まった。素早く銃を構え、体に緊張が走る。最初、それは……。崩れたビルの陰から何者かが現れ、こちらにゆっくりと、ためらいがちに歩いてきた。ヘンドリックスは目をしばたたいた。「止まれ!」

男の子は立ちすくんだ。ヘンドリックスは銃をおろした。男の子は黙ったままじっと立ち、ヘンドリックスを見つめている。小さな体つき、まだ年端もいかない子供だ。八歳ぐらいか。だが、実のところよくわからない。生き残った子供のほとんどは、発育不良だった。色のあせた青いセーターを着て、汚れたぼろぼろの半ズボンをはいている。伸びきった髪の毛は、もつれてからまっていた。茶色い髪。顔にかぶさり、耳をすっぽり隠している。両手で何かを抱いていた。

「何を持っている」ヘンドリックスは鋭く聞いた。

男の子は差し出した。おもちゃのクマだ。テディ・ベアだ。少年は大きな目をしていたが、そこには何の気色も浮かんでなかった。

ヘンドリックスは緊張を緩めた。「こちらによこさなくていい。持っていていいよ」

少年はまたクマを抱きしめた。

「どこに住んでいるんだ」ヘンドリックスはたずねた。

「あそこ」

「あの廃墟に?」

「そう」

「地下に?

「そう」

「そこには何人ぐらいいるんだ」

「なん……なんにん、って?」

「君たちは何人いるのか、と聞いたんだ。何人ぐらいの人が集まって暮らしているのか?」

少年は答えなかった。

ヘンドリックスは眉をひそめた。「まさか君ひとりってことはないんだろう?」

少年は首を横にふった。

「どうやって生活してるんだ?」

「食べるものがあるよ」

「どんな食べ物だ?」

「いろいろ」

ヘンドリックスはまじまじとその子を見た。「君はいくつだね?」

「十三歳」

そんなはずはあるまい。いや、その通りなのか。少年はやせて、発育不良だ。それにおそらくは無精子症でもあるのだろう。放射線被曝を何年も受けてきたのだから。こんなに小さくても、驚くにはあたるまい。手も足も、針金のパイプクリーナーのように細く、関節が飛び出している。ヘンドリックスは少年の腕をさわってみた。皮膚が乾いて、肌理が粗い。放射線を浴びた肌だ。腰をかがめて、少年の顔を間近で見た。表情というものがない。大きい目、大きく、暗い。

「目が見えないのか」ヘンドリックスはたずねた。

「だいたいは見えるよ」

「どうやってクローから逃げてきたんだ?」

「クロー?」

「丸いやつだ。走ったり、もぐったりする」

「わかんない」

おそらくこの付近には、クローはいないのだろう。クローがいない場所も多い。やつらのほとんどは、掩蔽壕の周りに集まっているのだ。そこには人間がいるから。クローたちは、熱、生き物の熱を感知するように設計されていた。

「運が良かったんだ」ヘンドリックスは身を起こした。「さて。どこに行くつもりだったんだ?」

「もど……もどる、あそこ……ぼく、一緒に行っていい?」

「私とか?」ヘンドリックスは腕組みをした。「遠くまで行く予定なんだ。十キロ以上歩くことになる。急がなきゃならん」時計を見た。「日が暮れないうちに向こうへ着かなくては」

「ぼくも行きたい」

ヘンドリックスは背中の荷物を探った。「行ったって何もないぞ。ほら」持ってきた食料の缶詰をいくつか放ってやった。「これを持って帰るんだ。いいな?」

男の子は何も言わなかった。

「帰りもここを通ろう。明日か明後日のことだ。もしそのとき君がこの近くにいたら、連れて帰ってやろう。いいな?」

「いまいっしょに行きたい」

「相当な距離を歩くんだぞ」

「歩けるよ」

ヘンドリックスは落ち着かなげに体を動かした。願ってもない標的じゃないか。ふたりづれで歩いていくなんて。おまけにこの子を連れて行けば、遅くなるだろう。だがこの道を帰るという保証はなかった。もしこの子がほんとうに、まったくのひとりぼっちだとしたら……。「しょうがない。一緒においで」

男の子は彼の横に並んだ。ヘンドリックスは大股に歩いていく。テディ・ベアをぎゅっとつかんだまま、男の子は黙って歩いた。しばらくして「名前は何という」とヘンドリックスはたずねた。

「ディヴィッド・エドワード・デリング」

「ディヴィッドか。君の……君のお母さんやお父さんはどうしたんだ?」

「死んじゃった」

「どうして」

「爆撃のとき」

「何年前のことだね?」

「六年前」

ヘンドリックスの歩調が落ちた。「君は六年もひとりきりでいたのか?」

「ううん。最初のころはほかにもいた。みんな、どっかへ行った」

「それから、ひとりになったんだな?」

「そう」

ヘンドリックスは男の子を見下ろした。この子は妙だ、ほとんど口もきかない。ひどく内向的だ。だが、これがこの子たち、生き残った子供たちなのだ。静か。禁欲的。妙な運命論のようなものに捕らえられている。何ごとにも驚かない。何があっても、そのまま受け入れる。もはや彼らはどんなふつうのことも、ものごとの自然ななりゆきも、道徳的にも肉体的にも、期待ということをしないのだ。習慣やならわしなど、学ぼうと決意させるような強制力も消え失せてしまった。あとに残ったのは、獣のような感覚だけだ。「歩くのが速すぎるか?」とヘンドリックスは聞いた。

「ううん」

(この項つづく)



フィリップ・K・ディック『変種第二号』その3.

2009-04-02 23:06:29 | 翻訳
その3.

一度、深く息を吸い込んでから、彼は灰色の瓦礫におおわれた地上に脚を降ろした。しばらくして、煙草に火をつけ、あたりを注意深く見回した。

あたりの風景は屍を思わせた。身じろぎするものとてない。数キロ先まで見渡しても、灰と金属の切れ端、建物の残骸が続くだけだ。葉も枝もなくなり、幹だけが姿をさらしている木々。頭上には変わりばえもせず、灰色に渦を巻く雲が、地球と太陽のあいだを漂っている。

 ヘンドリックス少佐は歩き続けた。右の視界を何かがさっとよぎった。何か、丸い金属製の物体だ。クローが、全速力で何かを追いかけているのだ。おそらく小動物、ネズミか何かを。クローたちはネズミも捕捉する。内職といったところか。ヘンドリックスは小さな丘のてっぺんに着いたところで、双眼鏡を取り上げた。数キロ先にロシアの戦線がのびてきている。彼らはそこに前線司令部を置いているのだ。あの伝達係りはそこから来た。

ずんぐりしたロボットが一台、横を通っていった。うねうねと波打つ腕が、あたりを探求するように詮索するように泳いでいる。ロボットはそのまま進み、やがて廃墟のなかに隠れた。ヘンドリックスはそれを見送った、あのタイプは前に見たことがない。見たことのない型のロボットが、ますます増えていく。地下の工場から、種類もサイズもさまざまな新しいロボットが、つぎつぎと送り込まれてくる。ヘンドリックスは煙草の火を消して、足を速めた。


おもしろい話じゃなかったのか。戦争に人造人間を投入するなんて。だが、どうしてそんなことになったのだろう。緊急の必要。ソヴィエト連邦の緒戦は大成功だった。戦争を仕掛けた側からすれば、当然ともいえるが。北米大陸のほとんどは、地図の上から吹っ飛んだ。反撃は素早かった。当然のことではあるが。戦争が始まるはるか前から、旋回する円盤型爆撃機が空を埋め尽くし、ロシア上空に待機していたのだ。ワシントンが攻撃を受けて数時間もしないうちに、円盤はロシア全土につぎつぎと着陸した。だが、ワシントンを救うことはできなかったのだ。

アメリカ圏の政府が、その年に月に移った。ほかにできることもたいしてなかったのである。ヨーロッパは消滅した。廃墟の山から伸びる、くすんだ色の雑草の根本は、灰と骨におおわれていた。北米大陸の大部分が、もはや用をなさないものとなりはてていた。植物は育つことなく、いかなる生物も生きてはいられない。数百万人が、カナダと南米大陸へ渡ろうとしていた。

だが二年目になって、ソヴィエト軍のパラシュート部隊が降下を始めた。最初は数名だったが、やがてどんどん増員されていった。彼らが着用していたのは、初めて本当に効力のある放射線防護装備で、それは実はアメリカ製、政府とともに月に輸送された物資の残り物だった。軍隊以外、すべてが月へ移された。残された軍隊は、ここに数千、あそこに一小隊と留まって、視力を尽くして戦った。部隊がどこにいるか、正確に知っている者はなかった。潜むことのできる場所に身を潜め、夜になると活動を始めた。廃墟や下水管、地下壕に、ネズミやヘビと一緒になって隠れた。

戦争は、ソヴィエト連邦がほぼ勝利を収めるかに見えた。毎日、月からわずかな砲撃が発射されたが、地上には敵と戦う武器もほとんど残ってはいなかったのだ。敵は望むところに出没する。戦争は、あらゆる実質的な局面において、終了していた。効果的な反撃など、どこにもなかったのだ。

そのとき、最初のクローたちが登場した。そうして、一夜のうちに戦況は一変したのだった。

最初のうち、クローたちは不器用なものだった。のろかった。イワンたちは、クローが地下のトンネルから顔を出すが早いか、たたきつぶして一掃した。だが、やがて改良され、素早くなり、狡猾になってきた。クローはすべて、地球上の工場で生産された。ソヴィエト戦線の後方、地下深くに、かつて核ロケット弾が製造され、いまはほとんど忘れ去られていた工場だった。

クローたちは、いよいよ素早く動くようになり、次第に大きくなっていった。新型も現れた。触手を持つもの、空を飛ぶものもいた。ジャンプする種類もいくつかあった。月の最高の技術者たちが設計を続け、いよいよ精巧で、柔軟性に富むものになっていった。クローたちは、不気味な存在に転じていったのだ。イワンたちもクローには手を焼いていた。小型のクローのなかには、身を隠すことを覚え、灰のなかに身を潜めて、待ち伏せするものも出てきた。

それからクローたちは、ロシアの掩蔽壕に入り込むようになった。換気や周囲の監視
のたに蓋を開けた瞬間、そっと滑り込む。一体のクローが掩蔽壕に入る、かぎ爪を回転させる金属の球体が、たったひとつ内部に入るだけで、もう十分だった。ひとつが入り込めば、あとがそれに続く。このような兵器さえあれば、戦争はもはや長くは続かない。


おそらく、戦争はもう終わっているのだろう。

ヘンドリックスはそのニュースをこれから聞くことになるのかもしれなかった。ソ連共産党政治局も、リングにタオルを投げ入れることにしたのかもしれない。その決断を下すまで、あまりに長くかかったのだ。六年だった。あのような戦いを遂行してきて、あまりに時間がかかってしまった。何百何千という自動報復円盤が旋回しながらロシア全土を攻撃した。結晶バクテリア。宙を引き裂くソ連製誘導ミサイル。連鎖爆撃。

 そうして、いまやこのロボットたち、クローだった。クローはほかの兵器とはちがっていた。彼らは、どのような観点から見ても、実際に生きているのだ。たとえ政府がそれを認めようが認めまいが関係ない。彼らは機械ではなかった。生き物だった。回転し、這いまわり、体を震わせながら突然灰のなかから現れて、人間の方に突き進み、その体をのぼって喉笛に襲いかかるのだ。彼らはその任務を果たすよう、設計されていた。それが彼らの仕事だった。

彼らは立派にその任務を果たした。新しい型のものが登場して以降は、ことにすばらしいものだった。いまでは修復まで自分でこなす。彼らは自立していた。放射線タブが国連軍を防御してくれるが、もしその彼がタブをなくせば、どの軍服を着ていようが、等しくクローの餌食となった。地下深くでは、自動機械がクローを型抜きしていた。人間ははるか遠くにいた。あまりに危険が大きかったのだ。クローのそばには、だれも寄りたがらなかった。クローたちに任されていたのだ。しかも、その仕事ぶりはますますあがっているようだった。新型のものは一層俊敏で、複雑になっていた。いっそう高性能になっていた。

戦争に勝利したのは、あきらかにクローたちだった。

(この項つづく)



フィリップ・K・ディック『変種第二号』その2

2009-04-01 22:16:01 | 翻訳
その2.

 レオーネはライフルを取り上げ、コンクリートのブロックと飛び出した鉄骨にはさまれたくねくねと折れ曲がる通路を抜けて、慎重に掩蔽壕の出口まで進んでいった。てっぺんの空気は冷たい。兵士の残骸に向かって、柔らかな灰の上を大股で歩いた。風が吹きつけ、灰の粉が巻き上がり、顔を襲った。目を細くすぼめて、なおも進んだ。

 クローの群れは、彼が近づくのに合わせてずるずると後退する。なかには硬直して動けなくなったのもあった。彼はタブにさわってみた。こいつのためなら、イワンも何だってよこしただろう……。タブから放射される、波長の短く高エネルギーの放射線は、クローを無力化し、機能停止に追い込むのである。ふたつの接眼レンズをゆらゆらさせている大きなロボットさえ、近寄った彼の前から、うやうやしく引き下がった。彼は兵士の残骸にかがみこんだ。手袋をはめた手をきつく握っている。なにかあるらしい。レオーネは指を引き離した。アルミ製の密閉容器だった。いまなお光っている。

 それをポケットに入れ、掩蔽壕へ戻った。背後ではクローの群れが息を吹き返し、解体作業に戻っていく。行進が再開し、金属球の群れがそれぞれ荷を担いで灰の上を動いていった。クローたちのねじ山が地面を引っ掻く音が聞こえてくる。彼は慄然とした。


 スコットは、レオーネが光る筒をポケットから取り出すのを、食い入るように見詰めていた。「やつがそれを?」

「手の中にあったんです」レオーネはふたを開けた。「中尉殿、ご覧になりますか」

 スコットは筒を手に取った。手を広げて、中身を落とす。小さなシルクペーパーが一枚、丁寧に折り畳んで入っていた。明かりのそばにすわって、それを広げた。

「中尉、何と書いてあるんです」エリックが聞いた。数人の将校が、地下道を抜けてやってきた。ヘンドリックス少佐が姿を見せた。「少佐」スコットが言った。「これをご覧になってください」

ヘンドリックスは紙片を読んだ。「これだけか」?

「伝達係は一名でした。たったいまのことです」

「どこにいる?」ヘンドリックスは鋭い口調で聞いた。

「クローたちにやられました」

ヘンドリックス少佐は小さくうめいた。「これを」彼は紙片をほかの将校たちに渡した。「おそらくこれが待っていたものだ。あっちも時間をかけて答えを出したのだろう」

「では、向こうは話し合いの意思があると?」スコットが聞いた。「我々もそれに応じるんですか?」

「それは我々が決めることではない」ヘンドリックスは腰をおろした。「通信士官はどこにいる? 月基地と話がしたい」通信士官が細心の注意を払って外部アンテナを高くあげ、掩蔽壕上空で偵察するロシア機のいかなる徴候もないことを走査しているあいだ、レオーネは思いをめぐらしていた。

「少佐」スコットがヘンドリックスに言った。「連中が急にやってくるなんて奇妙な話ではありませんか。クローなら、我々はもう一年も前から使い続けています。いまになって突然白旗を掲げてくるなんて」

「ひょっとしたら、クローたちは敵の掩蔽壕に入り込むようになったのかもしれないな」

「大きい方のやつ、角のあるタイプのやつが、イワンの掩蔽壕のひとつに先週侵入しました」エリックが言った。「蓋を閉じる間もなく、一個小隊が全滅したそうです」

「どうしてそれを知っている?」

「仲間に聞きました。そいつは戻ってきたんです……残骸を抱えて」

「月基地です、少佐」通信士官が言った。スクリーンには月基地で受信している士官が映っている。制服はしわひとつなく、この掩蔽壕の者とは対照的だった。ひげもきちんと剃っている。

「こちらは地球、L-ホイッスル管轄区域だ。トンプソン将軍を頼む」

通信士官は見えなくなった。すぐにトンプソン将軍のいかつい顔に焦点が合う。

「どうした、少佐」

「我々のクローが、メッセージを携えたロシア軍の伝達係を捕獲しました。伝言に応じて良いものかどうか、判断できかねます――過去にも同様の策略はありましたので」

「何と言ってきたのかね」

「ロシア側は、政策決定が可能な階級の司令官を一名、彼らの戦線まで派遣することを望んでいます。会談を開きたいということです。会談の性質についての言及はありません。ここにはただ……」少佐は紙片に目を落とした。「重大かつ緊急事態の出来につき、国連軍およびロシア軍代表者間で、協議を開始することが望ましい、とあります」

少佐はメッセージをスクリーンに向けて掲げ、将軍にも目を通せるようにした。トンプソンの目が動いていく。

「どうすべきでしょうか」ヘンドリックスは尋ねた。

「一名派遣するのだ」

「罠ではないとお考えですね」

「そうかもしれない。だが彼らの提示した前線司令部の位置は、間違いのないものだ。なんにせよ、やってみるだけの価値はあるだろう」

「司令官を一名派遣しましょう。戻り次第、結果はご報告いたします」

「結構だ。少佐」トンプソンは接続を切った。スクリーンは暗くなった。地上のアンテナは、ゆっくりと地下にもぐる。ヘンドリックスは深く物思いに沈みながら、紙片を巻いていた。

「私が行きましょう」レオーネが言った。

「先方が望んでいるのは、政策決定レベルの人間だ」ヘンドリックスはあごをなでた。「政策決定レベルか。もう何ヶ月も外に出てないな。外の空気に当たってみてもいいころだ」

「危険はないのですか」

ヘンドリックスは照準器をあげて、それをのぞき込んだ。ロシア兵の死骸は消え失せていた。視界のなかには一体のクローがいるだけだ。クローはかぎ爪を折りたたんで戻し、灰のなかに姿を消そうとしていた。カニのよう、まるで、醜怪な金属のカニのように……。

「あいつのことだけが気になるんだ」ヘンドリックスは手首をさすった。「これを肌身離さずいる限り、安全であることはわかっている。だが、やつらには何かまだありそうな気がするんだ。まったくいやな代物だ。発明されなきゃ良かったと思うよ。どこか間違ってるような気がするんだ。ちっぽけなくせに、徹底的に非道で……」

「もし我々が開発しなくても、イワンたちが開発していたでしょう」

ヘンドリックスは照準器を戻した。「なんにせよ、この戦争も我々の勝利に向かっているらしい。それはいいことなんだろう」

「少佐もイワンたちのように苛立っておいでのように聞こえますが」

ヘンドリックスは腕時計を見た。「暗くなる前に向こうへ着こうと思ったら、そろそろ出発した方が良さそうだ」




(この項つづく)