その5.
「なんで私に気がついた?」
「待ってたから」
「待ってた?」ヘンドリックスはわけがわからなかった。「何を待っていたんだ」
「捕まえようと思って」
「何を捕まえるつもりだったのか?」
「食べるもの」
「そういうことか」ヘンドリックスの口元が険しくなった。十三歳の子供がネズミや地リスや腐りかけた缶詰を食べて、生きながらえているのだ。廃墟になった町の地下の穴ぐらで。放射能が残留し、クローの群れがうろうろし、惰行飛行するロシア軍の地雷が空から降ってくる。
「どこ行くの」デイヴィッドが聞いた。
「ロシアの前線だ」
「ロシア?」
「敵だ。戦争を始めたやつらだ。やつらが先に核爆弾を落としたんだ。全部、連中が始めたんだ」
少年はうなずいた。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。
「私はアメリカ人だ」ヘンドリックスは言った。
それにも返事はなかった。ふたりは休まず歩いた。ヘンドリックスが少し前を歩き、デイヴィッドがそれに続いた。汚れたクマをしっかりと胸に抱いている。
四時近くになって、ふたりは食事をするために止まった。ヘンドリックスはコンクリート板の間のくぼみに火を起こした。雑草を引き抜き、そこへ木ぎれを積み重ねる。ロシアの前線まで、もうどれほどもなかった。
彼がいまいるところは、昔、果樹園やブドウ畑がどこまでも続く渓谷だった。いまやその名残をとどめているのは、いくばくかの枯れた切り株と、はるか彼方、地平線へと伸びていく山脈だけだ。風に煽られて、灰はもうもうとたちこめ、やがて雑草やビルの残骸、壁、そこここに残る昔は道路だったものの上に降り積もってゆく。
ヘンドリックスはコーヒーをわかし、ゆでたマトンとパンを温めた。「食えよ」パンとマトンをデイヴィッドに手渡した。デイヴィッドは火のすぐちかくにしゃがんでいる。飛び出した膝小僧は真っ白い。食べ物をしげしげとと眺め回してから、首を横に振って返した。
「いらない」
「いらないだって? 少しもいらないのか」
「いらない」
ヘンドリックスは肩をすくめた。たぶんこの子はミュータントだ、ふだん特別な物を食べているんだろう。それならそれでいい。腹が減れば、自分で何か見つけて食うさ。この子は妙だ。だが、世界中、いたるところでいろんなことが変わりつつあるんだ。生命だって、もはや前と同じではあるまい。ふたたび前のようになることもないだろう。人類はそのことを悟らなければならなくなるにちがいない。
「好きなようにするがいいさ」ヘンドリックスはそう言った。自分だけパンとマトンを食べ、コーヒーで飲み下した。固くて飲み込みにくかったので、ゆっくりと食べた。食事が終わると立ちあがって、火を踏み消した。
デイヴィッドはのろのろと腰を上げ、子供のくせに老けた目で彼をじっと見ていた。
「行くぞ」ヘンドリックスは言った。
「うん」
ヘンドリックスは銃を両手で抱えて歩いた。敵は近い。どんなことが起こってもいいように気持ちを引き締めた。ロシア軍も、自分たちの送り出した伝達係りの返事を携えて、使者が来ると考えているはずだ。だが一筋縄ではいかない連中だ。判断ミスの可能性はつねにあった。あたりの景色に目を走らせる。金属滓と灰、小高い丘がふたつみっつ、黒こげの木々、そのほかには何もない。それと、コンクリートの壁がいくつか。だが、前方のどこかにロシア前線の一番目の掩蔽壕があるのだ。前線司令部が。地下深くに。展望鏡と銃口がいくつかのぞいているはずだ。もしかしたらアンテナも。
「ここから近いの?」デイヴィッドがたずねた。
「そうだ。疲れたか」
「ううん」
「ならどうしてそんなことを聞く」
デイヴィッドは返事をしない。後ろからおそるおそる足を踏みしめ、灰の上を歩いてくる。脚も靴もほこりで灰色になっていた。やつれた顔にも筋ができている。青白い肌に灰の隈取りだ。その顔には血の気というものがなかった。地下室や下水渠、地下シェルターで大きくなった、最近の子供たちの特徴だ。ヘンドリックスは歩を緩めた。双眼鏡を目に当てて、前方の地面を調べた。やつらはどこかそこらで、おれがくるのを待っているのだろうか。おれを見張っているのだろうか、ちょうど部下たちがロシアの伝達係を見張っていたように。ひやりとしたものが背筋を走った。おそらく自分の部下がそうしていたように、いつでも自分を殺せるように、待ち構えているのだろう。ヘンドリックスは立ち止まり、顔の汗をぬぐった。
「クソッ」不安がこみあげる。だが、向こうも自分のことは予期しているはずだ。
状況はちがう。
両手で銃をきつくにぎって、灰の上を大股で進んだ。後ろからデイヴィッドがやってくる。ヘンドリックスは唇をきつく結んであたりを見回した。いつそいつが来るとも限らない。白い閃光が炸裂して、ズドン、地中深くコンクリートの掩蔽壕から慎重に狙い定めた一発が。
片腕をあげて、大きく円を描いた。動きはない。右手には小山が続き、てっぺんには枯れた木の幹が並んでいた。野生の蔓が木をおおっているのは、あずまやの名残なのだろう。そして行けども行けどもつづく、黒ずんだ雑草。ヘンドリックスは小山を注意深く眺めた。あの上には何かないか? 見張りには願ってもない場所だ。
用心深く小山に近づいていくと、デイヴィッドは黙ったままついてきた。もしこれが自分の部隊なら、この上に歩哨を配置し、管轄区域に侵入を試みる軍隊を監視させるだろう。もちろんここを自分が掌握しているなら、クローを周囲に配置して、完全な警備体制を敷くにちがいない。脚を止めると、腰に手を当てて大股で立った。
「ここなの?」デイヴィッドは聞いた。
「近くまで来た」
「じゃあなんで止まったの?」
「隙を与えたくない」ヘンドリックスはそろそろと前進した。小山はいまや目と鼻の先、右手すぐにまで迫っている。見下ろされているのだ。不安は増した。もしイワンが上にいれば、万事休すだ。彼はもう一度手を振った。連中も、カプセルの書簡の返事を携えた、国連軍の軍服を着た人間を待っているはずだ。すべてが罠でないかぎり。
「ちゃんとついて来い」振り返ってデイヴィッドに言った。「遅れるんじゃないぞ」
「一緒に歩くんだね?」
「真後ろに着くんだ。すぐ近くに連中はいる。どんな隙も見せるんじゃない。さあ、来るんだ」
「ぼくなら大丈夫だよ」デイヴィッドは彼のあとを、数歩離れてついてくる。まだテディ・ベアをしっかりと抱きしめたまま。
「好きにしろ」ヘンドリックスはふたたび双眼鏡をのぞいた。突然、緊張が走った。一瞬、何か動いたのではなかったか? 小山に注意深く目を走らせた。何もかも、静まりかえっていた。死んだように。あの上に、生き物はいない。木の幹と灰があるだけだ。ネズミが数匹、いるかもしれないが。大きな黒いドブネズミが、クローからも逃げ延びて。突然変異のネズミは、唾液と灰を混ぜて、自分たち専用のシェルターを作っているのだ。しっくいのようなものだ。適応ということだ。
ヘンドリックスはふたたび歩き始めた。頭上の小山に、背の高い人影が現れた。マントが風にはためいている。灰緑色。ロシア兵だ。その後ろに、二人目の兵士が現れた。これもロシア兵。ふたりとも銃を抱え、ねらいを定めている。ヘンドリックスは凍りついた。口が開いた。兵士達は片膝をついて、斜面を見下ろし、ねらいを定めている。三番目の兵士がてっぺんに加わった。いくぶん小柄な体を灰緑色の軍服に包んでいる。女だ。ふたりの兵士のうしろに立った。
ヘンドリックスはなんとか声を出すことができた。「やめろ!」気が狂ったように手を振り回した。「私は……」
ふたりのロシア兵が発砲した。
(この項つづく)
(※「鶏的思考的日常vol.24」更新しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html)
「なんで私に気がついた?」
「待ってたから」
「待ってた?」ヘンドリックスはわけがわからなかった。「何を待っていたんだ」
「捕まえようと思って」
「何を捕まえるつもりだったのか?」
「食べるもの」
「そういうことか」ヘンドリックスの口元が険しくなった。十三歳の子供がネズミや地リスや腐りかけた缶詰を食べて、生きながらえているのだ。廃墟になった町の地下の穴ぐらで。放射能が残留し、クローの群れがうろうろし、惰行飛行するロシア軍の地雷が空から降ってくる。
「どこ行くの」デイヴィッドが聞いた。
「ロシアの前線だ」
「ロシア?」
「敵だ。戦争を始めたやつらだ。やつらが先に核爆弾を落としたんだ。全部、連中が始めたんだ」
少年はうなずいた。その顔にはどんな表情も浮かんでいない。
「私はアメリカ人だ」ヘンドリックスは言った。
それにも返事はなかった。ふたりは休まず歩いた。ヘンドリックスが少し前を歩き、デイヴィッドがそれに続いた。汚れたクマをしっかりと胸に抱いている。
四時近くになって、ふたりは食事をするために止まった。ヘンドリックスはコンクリート板の間のくぼみに火を起こした。雑草を引き抜き、そこへ木ぎれを積み重ねる。ロシアの前線まで、もうどれほどもなかった。
彼がいまいるところは、昔、果樹園やブドウ畑がどこまでも続く渓谷だった。いまやその名残をとどめているのは、いくばくかの枯れた切り株と、はるか彼方、地平線へと伸びていく山脈だけだ。風に煽られて、灰はもうもうとたちこめ、やがて雑草やビルの残骸、壁、そこここに残る昔は道路だったものの上に降り積もってゆく。
ヘンドリックスはコーヒーをわかし、ゆでたマトンとパンを温めた。「食えよ」パンとマトンをデイヴィッドに手渡した。デイヴィッドは火のすぐちかくにしゃがんでいる。飛び出した膝小僧は真っ白い。食べ物をしげしげとと眺め回してから、首を横に振って返した。
「いらない」
「いらないだって? 少しもいらないのか」
「いらない」
ヘンドリックスは肩をすくめた。たぶんこの子はミュータントだ、ふだん特別な物を食べているんだろう。それならそれでいい。腹が減れば、自分で何か見つけて食うさ。この子は妙だ。だが、世界中、いたるところでいろんなことが変わりつつあるんだ。生命だって、もはや前と同じではあるまい。ふたたび前のようになることもないだろう。人類はそのことを悟らなければならなくなるにちがいない。
「好きなようにするがいいさ」ヘンドリックスはそう言った。自分だけパンとマトンを食べ、コーヒーで飲み下した。固くて飲み込みにくかったので、ゆっくりと食べた。食事が終わると立ちあがって、火を踏み消した。
デイヴィッドはのろのろと腰を上げ、子供のくせに老けた目で彼をじっと見ていた。
「行くぞ」ヘンドリックスは言った。
「うん」
ヘンドリックスは銃を両手で抱えて歩いた。敵は近い。どんなことが起こってもいいように気持ちを引き締めた。ロシア軍も、自分たちの送り出した伝達係りの返事を携えて、使者が来ると考えているはずだ。だが一筋縄ではいかない連中だ。判断ミスの可能性はつねにあった。あたりの景色に目を走らせる。金属滓と灰、小高い丘がふたつみっつ、黒こげの木々、そのほかには何もない。それと、コンクリートの壁がいくつか。だが、前方のどこかにロシア前線の一番目の掩蔽壕があるのだ。前線司令部が。地下深くに。展望鏡と銃口がいくつかのぞいているはずだ。もしかしたらアンテナも。
「ここから近いの?」デイヴィッドがたずねた。
「そうだ。疲れたか」
「ううん」
「ならどうしてそんなことを聞く」
デイヴィッドは返事をしない。後ろからおそるおそる足を踏みしめ、灰の上を歩いてくる。脚も靴もほこりで灰色になっていた。やつれた顔にも筋ができている。青白い肌に灰の隈取りだ。その顔には血の気というものがなかった。地下室や下水渠、地下シェルターで大きくなった、最近の子供たちの特徴だ。ヘンドリックスは歩を緩めた。双眼鏡を目に当てて、前方の地面を調べた。やつらはどこかそこらで、おれがくるのを待っているのだろうか。おれを見張っているのだろうか、ちょうど部下たちがロシアの伝達係を見張っていたように。ひやりとしたものが背筋を走った。おそらく自分の部下がそうしていたように、いつでも自分を殺せるように、待ち構えているのだろう。ヘンドリックスは立ち止まり、顔の汗をぬぐった。
「クソッ」不安がこみあげる。だが、向こうも自分のことは予期しているはずだ。
状況はちがう。
両手で銃をきつくにぎって、灰の上を大股で進んだ。後ろからデイヴィッドがやってくる。ヘンドリックスは唇をきつく結んであたりを見回した。いつそいつが来るとも限らない。白い閃光が炸裂して、ズドン、地中深くコンクリートの掩蔽壕から慎重に狙い定めた一発が。
片腕をあげて、大きく円を描いた。動きはない。右手には小山が続き、てっぺんには枯れた木の幹が並んでいた。野生の蔓が木をおおっているのは、あずまやの名残なのだろう。そして行けども行けどもつづく、黒ずんだ雑草。ヘンドリックスは小山を注意深く眺めた。あの上には何かないか? 見張りには願ってもない場所だ。
用心深く小山に近づいていくと、デイヴィッドは黙ったままついてきた。もしこれが自分の部隊なら、この上に歩哨を配置し、管轄区域に侵入を試みる軍隊を監視させるだろう。もちろんここを自分が掌握しているなら、クローを周囲に配置して、完全な警備体制を敷くにちがいない。脚を止めると、腰に手を当てて大股で立った。
「ここなの?」デイヴィッドは聞いた。
「近くまで来た」
「じゃあなんで止まったの?」
「隙を与えたくない」ヘンドリックスはそろそろと前進した。小山はいまや目と鼻の先、右手すぐにまで迫っている。見下ろされているのだ。不安は増した。もしイワンが上にいれば、万事休すだ。彼はもう一度手を振った。連中も、カプセルの書簡の返事を携えた、国連軍の軍服を着た人間を待っているはずだ。すべてが罠でないかぎり。
「ちゃんとついて来い」振り返ってデイヴィッドに言った。「遅れるんじゃないぞ」
「一緒に歩くんだね?」
「真後ろに着くんだ。すぐ近くに連中はいる。どんな隙も見せるんじゃない。さあ、来るんだ」
「ぼくなら大丈夫だよ」デイヴィッドは彼のあとを、数歩離れてついてくる。まだテディ・ベアをしっかりと抱きしめたまま。
「好きにしろ」ヘンドリックスはふたたび双眼鏡をのぞいた。突然、緊張が走った。一瞬、何か動いたのではなかったか? 小山に注意深く目を走らせた。何もかも、静まりかえっていた。死んだように。あの上に、生き物はいない。木の幹と灰があるだけだ。ネズミが数匹、いるかもしれないが。大きな黒いドブネズミが、クローからも逃げ延びて。突然変異のネズミは、唾液と灰を混ぜて、自分たち専用のシェルターを作っているのだ。しっくいのようなものだ。適応ということだ。
ヘンドリックスはふたたび歩き始めた。頭上の小山に、背の高い人影が現れた。マントが風にはためいている。灰緑色。ロシア兵だ。その後ろに、二人目の兵士が現れた。これもロシア兵。ふたりとも銃を抱え、ねらいを定めている。ヘンドリックスは凍りついた。口が開いた。兵士達は片膝をついて、斜面を見下ろし、ねらいを定めている。三番目の兵士がてっぺんに加わった。いくぶん小柄な体を灰緑色の軍服に包んでいる。女だ。ふたりの兵士のうしろに立った。
ヘンドリックスはなんとか声を出すことができた。「やめろ!」気が狂ったように手を振り回した。「私は……」
ふたりのロシア兵が発砲した。
(この項つづく)
(※「鶏的思考的日常vol.24」更新しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html)