その10.
「我々は月から物資補給を受けている。政府もそこに、つまり、月の地下にある。アメリカ国民と全産業もだ。だから軍も戦闘を続けることができているんだ。もしやつらが地球から離陸して、月に行く方法を見つけたとしたらどうなるか」
「一体で十分なんだよ。ひとたび最初の一体が入り込めば、そいつが残りを引き込むんだから。そっくり同じのが何百体。あんたも見ておくべきだったな。まったく同じなんだから。アリみたいなもんだ」
「完全な社会主義ね」タッソーが言った。「共産主義国家の理想じゃない? 人民がそっくり相互互換性があるなんて」
クラウスは腹を立てたように言った。「もういい。で? つぎは何をしたらいい」
ヘンドリックスは狭い部屋のなかを行ったり来たりしている。空気には食物と汗の臭いが充満していた。残った三人は、ヘンドリックスをじっと見つめていた。やがてタッソーがカーテンを開けて、もうひとつの部屋に入った。「ちょっと休ませて」タッソーの背後でカーテンが閉じた。ルディとクラウスは食卓のいすにすわって、まだヘンドリックスから目を離さずにいた。「あんた次第だよ」クラウスが言った。「おれたちにはそっちの状況はわからんからな」
ヘンドリックスはうなずいた。
「問題がある」ルディはさびたポットからコーヒーを注いで飲んだ。「しばらくのあいだはここも大丈夫だろうが、いつまでもいるわけにはいかない。食料やなにやかや、十分にあるわけじゃないからな」
「だが、もし外に出たら」
「もし外に出たら、やつらは襲ってくるさ。ま、すくなくともそうすると思ってた方がいい。なんにせよ、あまり遠くには行けない。あんたの司令部がある掩蔽壕までどれぐらいある、少佐?」
「5~6キロといったところだな」
「向こうまで行けるかもしれない。おれたちは四人。四人なら、死角はできない。やつらだって後ろからそっとつけてくる、なんてこともできんだろう。ライフルは三挺、アサルトライフルも三挺ある。タッソーはおれの拳銃を使えばいいだろう」ルディはベルトを軽く叩いた。「ロシア軍ってとこはな、靴はないことはあっても、銃なら豊富にあるんだ。四人が武器を持っていれば、そのうちのひとりでもあんたたちの司令部がある壕に行けるかもしれない。少佐、もちろんあんたがいいに決まっているが」
「もしやつらがあっちに行ったあとだったら?」クラウスがたずねた。
ルディは肩をすくめる。「そのときはここに戻ってくるまでさ」
ヘンドリックスは脚を止めた。「やつらがすでにアメリカ軍の前線にまで入り込んでいる可能性は、どれくらいだろうか」
「そりゃわからんさ。その可能性はかなり高いだろうが。なにしろあれは組織されている。自分たちが何をしているのか、がっちりと把握してるんだ。いったん動き出したら、イナゴの大群が移動するようなもんだ。休むことを知らないし、しかも速い。機密性とスピードこそが連中の命なんだ。奇襲だ。だれもまったく知らないうちに押し寄せてくるんだ」
「なるほど」ヘンドリックスはつぶやいた。
隣の部屋から、タッソーが体を動かす気配がした。「少佐」
ヘンドリックスはカーテンを開けた。「何だ?」
タッソーは折り畳み式のベッドから、物憂げに見上げていた。「アメリカ製のタバコはもう残ってない?」
ヘンドリックスは部屋に入り、女の向かいにある木のスツールに腰をおろした。ポケットをさぐって言った。「ないな。みんな吸ってしまった」
「あら、残念」
「君はどこから来た?」しばらくしてヘンドリックスはたずねた。
「ロシアよ」
「じゃ、どうしてここにいるんだ?」
「ここ?」
「以前、ここはフランスだったんだ。ノルマンディ地方だよ。ソ連軍と一緒に移動して来たのか?」
「なんでそんなことを?」
「ちょっと知りたかっただけさ」ヘンドリックスは女をじっと見つめた。上着を脱いで、ベッドの端に投げ出している。若い。二十歳ぐらいか。華奢な体つき。長い髪が枕に広がっている。彼女の方も言葉もなく、ヘンドリックスを見つめていた。黒く大きな目をしている。
「なに考えてるの?」タッソーが聞いた。
「別に何も。いくつだ?」
「十八」彼女は自分の両腕を頭の下にあてがって、瞬きもせず、じっと彼から目を離さなかった。ロシア軍のズボンとシャツを着ている。灰緑色のものだ。放射線カウンターと薬包入れを装備した分厚い革のベルトを巻いている。あと、救急キットも。
「きみはロシア軍の一員なのか?」
「いいえ」
「じゃ、その制服はどこで手に入れた?」
女は肩をすくめた。「もらい物よ」
「いつ……何歳のときにここに来た?」
「十六」
「そんなに若くから?」
女の目が細くなった。「どういう意味よ」
ヘンドリックスはあごをなでた。「きみの人生も、もし戦争がなかったら、ずいぶんちがうものになっていただろうな。十六か。きみは十六でここに来た。こんな生活をするために」
「あのね、あたしだって生きていかなきゃならなかったの」
「説教してるわけじゃない」
「あなたの人生だってちがうものになってたはずよ」タッソーは小さな声で言った。手を伸ばしてブーツのひもを解いた。蹴ってそれを脱ぐと、そのまま床に落とした。「少佐、あっちの部屋に行ってくれない? あたし、ねむたいの」
「四人でここに生活するとなると、問題が出てくるな。ここにみんなで暮らすのは無理だろう。たったふたつの部屋しかないのか?」
「そういうこと」
「もともとの地下室はどのくらいの大きさだったんだ? これより広かったんじゃないのか? ほかにもあった部屋が、瓦礫で埋まった、ということはないのか? もしそうなら、一部屋空けることもできるんじゃないか」
「かもね。あたしにはよくわからない」タッソーはベルトをゆるめた。シャツのボタンをはずして、ベッドの上で楽な格好になる。「ほんとにもうタバコは残ってないの?」
「もともと一パックしか持ってなかったんだ」
「うーん、残念。だけどあなたの壕に戻れば、もっとあるんでしょ」もう一方のブーツも床に落ちた。タッソーはあかりのひもに手を伸ばした。「おやすみなさい」
「寝るのか?」
「そういうこと」
部屋は闇に閉ざされた。ヘンドリックスは立ちあがるとカーテンを通って台所に入った。そこで脚が止まり、棒立ちになった。。
ルディは壁を背に立っていた。顔は蒼白で目が光っている。口をぱくぱくさせているが、声が出ないらしい。クラウスがルディの前に立ち、ピストルの銃口をルディのみぞおちに当てている。ふたりとも身動きひとつしない。クラウスは銃をきつくにぎりしめ、固い表情をしていた。ルディは青ざめ、無言のまま、壁に張りつけられている。
「これは……」ヘンドリックスがつぶやきかけたが、クラウスはみなまで言わせない。
「少佐、何も言うな。こっちへきてくれ。あんたの銃も出してくれないか」
ヘンドリックスは銃を抜いた。「どうしたんだ」
「やつを抑えてるんだ」クラウスはヘンドリックスに前へ出るように指図した。「おれの横に来てくれ、急いで!」
ルディは身動きすると両腕を下げた。唇を湿しながらヘンドリックスに顔を向けた。白目の部分が凶暴な光を宿している。汗が額から頬へと流れ落ちた。視線がヘンドリックスの上にすえられた。「少佐、やつは狂っちまった。なんとか止めてくれ」細くかすれたルディの声は、かろうじて聞き取れた。
「いったいどうしたんだ?」ヘンドリックスは強い調子で聞いた。
銃を降ろさず、クラウスは答えた。「少佐、おれたちの話を覚えてるだろう? 変種には三つのタイプがあるって。第一号と第三号についてはわかってる。だが二号がわからないんだ。いや、少なくとも、ちょっと前まではわからなかった」クラウスはいっそう強く銃の台尻をにぎりしめた。「これまではわからなかった、だが、もうわかったんだ」引き金を引いた。爆音がとどろき、銃から飛び出した白い煙がルディの体全体をなめまわす。
「少佐、これが変種第二号さ」
タッソーがカーテンを開けた。「クラウス! あんた、何してんの」
クラウスは、ずるずるとかべから落ちて床にくずおれる、真っ黒に焼け焦げた体から目を離して向き直った。「変種第二号だ、タッソー。これでもうわかったぞ。三つの型が全部特定できたんだ。危険はこれでずいぶん軽減されるはずだ。おれは……」
タッソーの視線はクラウスを越えて、ルディの遺体に落ちた。黒焦げになり、煙が立ち上り、服の断片がかろうじて判別できる。「あの人を殺したのね」
「あの人だと? あれさ。おれはずっと見てたんだ。勘が働いたんだが、確信はなかった。少なくとも、これまではな。だが、今夜はもう間違いないことがわかったんだ」クラウスは銃の台尻を神経質そうにこすった。「おれたちは運が良かったよ。それがわからないのか? もう一時間もしたら、きっと……」
「間違いない、ですって?」タッソーはクラウスを押しのけ、床の上でまだくすぶっている遺体の上にかがみこんだ。その顔は厳しくなっていく。「少佐、あんたも見てちょうだい。この骨。この肉」
ヘンドリックスも彼女の横にしゃがんだ。遺体はまぎれもなく人間のそれだ。焦げた肉、焦げた骨片、頭蓋骨の一部。靱帯、内臓、血。壁に沿って血だまりが広がっていく。
「歯車なんてない」タッソーは静かに言うと、立ちあがった。「歯車もなければ、部品もない、継電器もない。クローなんかじゃない。変種第二号じゃなかった」タッソーは腕を組んだ。「あんた、これをどう説明するつもり?」
クラウスはテーブルに腰をおろした。その顔からは急に血の気が引いていく。頭を抱え、前に後ろに体はぐらぐらと揺れた。
「しっかりなさい!」タッソーの指が、クラウスの肩を強くつかんだ。
「なんでこんなことしたのよ。何でこの人を殺したりするの」
(この項つづく)
「我々は月から物資補給を受けている。政府もそこに、つまり、月の地下にある。アメリカ国民と全産業もだ。だから軍も戦闘を続けることができているんだ。もしやつらが地球から離陸して、月に行く方法を見つけたとしたらどうなるか」
「一体で十分なんだよ。ひとたび最初の一体が入り込めば、そいつが残りを引き込むんだから。そっくり同じのが何百体。あんたも見ておくべきだったな。まったく同じなんだから。アリみたいなもんだ」
「完全な社会主義ね」タッソーが言った。「共産主義国家の理想じゃない? 人民がそっくり相互互換性があるなんて」
クラウスは腹を立てたように言った。「もういい。で? つぎは何をしたらいい」
ヘンドリックスは狭い部屋のなかを行ったり来たりしている。空気には食物と汗の臭いが充満していた。残った三人は、ヘンドリックスをじっと見つめていた。やがてタッソーがカーテンを開けて、もうひとつの部屋に入った。「ちょっと休ませて」タッソーの背後でカーテンが閉じた。ルディとクラウスは食卓のいすにすわって、まだヘンドリックスから目を離さずにいた。「あんた次第だよ」クラウスが言った。「おれたちにはそっちの状況はわからんからな」
ヘンドリックスはうなずいた。
「問題がある」ルディはさびたポットからコーヒーを注いで飲んだ。「しばらくのあいだはここも大丈夫だろうが、いつまでもいるわけにはいかない。食料やなにやかや、十分にあるわけじゃないからな」
「だが、もし外に出たら」
「もし外に出たら、やつらは襲ってくるさ。ま、すくなくともそうすると思ってた方がいい。なんにせよ、あまり遠くには行けない。あんたの司令部がある掩蔽壕までどれぐらいある、少佐?」
「5~6キロといったところだな」
「向こうまで行けるかもしれない。おれたちは四人。四人なら、死角はできない。やつらだって後ろからそっとつけてくる、なんてこともできんだろう。ライフルは三挺、アサルトライフルも三挺ある。タッソーはおれの拳銃を使えばいいだろう」ルディはベルトを軽く叩いた。「ロシア軍ってとこはな、靴はないことはあっても、銃なら豊富にあるんだ。四人が武器を持っていれば、そのうちのひとりでもあんたたちの司令部がある壕に行けるかもしれない。少佐、もちろんあんたがいいに決まっているが」
「もしやつらがあっちに行ったあとだったら?」クラウスがたずねた。
ルディは肩をすくめる。「そのときはここに戻ってくるまでさ」
ヘンドリックスは脚を止めた。「やつらがすでにアメリカ軍の前線にまで入り込んでいる可能性は、どれくらいだろうか」
「そりゃわからんさ。その可能性はかなり高いだろうが。なにしろあれは組織されている。自分たちが何をしているのか、がっちりと把握してるんだ。いったん動き出したら、イナゴの大群が移動するようなもんだ。休むことを知らないし、しかも速い。機密性とスピードこそが連中の命なんだ。奇襲だ。だれもまったく知らないうちに押し寄せてくるんだ」
「なるほど」ヘンドリックスはつぶやいた。
隣の部屋から、タッソーが体を動かす気配がした。「少佐」
ヘンドリックスはカーテンを開けた。「何だ?」
タッソーは折り畳み式のベッドから、物憂げに見上げていた。「アメリカ製のタバコはもう残ってない?」
ヘンドリックスは部屋に入り、女の向かいにある木のスツールに腰をおろした。ポケットをさぐって言った。「ないな。みんな吸ってしまった」
「あら、残念」
「君はどこから来た?」しばらくしてヘンドリックスはたずねた。
「ロシアよ」
「じゃ、どうしてここにいるんだ?」
「ここ?」
「以前、ここはフランスだったんだ。ノルマンディ地方だよ。ソ連軍と一緒に移動して来たのか?」
「なんでそんなことを?」
「ちょっと知りたかっただけさ」ヘンドリックスは女をじっと見つめた。上着を脱いで、ベッドの端に投げ出している。若い。二十歳ぐらいか。華奢な体つき。長い髪が枕に広がっている。彼女の方も言葉もなく、ヘンドリックスを見つめていた。黒く大きな目をしている。
「なに考えてるの?」タッソーが聞いた。
「別に何も。いくつだ?」
「十八」彼女は自分の両腕を頭の下にあてがって、瞬きもせず、じっと彼から目を離さなかった。ロシア軍のズボンとシャツを着ている。灰緑色のものだ。放射線カウンターと薬包入れを装備した分厚い革のベルトを巻いている。あと、救急キットも。
「きみはロシア軍の一員なのか?」
「いいえ」
「じゃ、その制服はどこで手に入れた?」
女は肩をすくめた。「もらい物よ」
「いつ……何歳のときにここに来た?」
「十六」
「そんなに若くから?」
女の目が細くなった。「どういう意味よ」
ヘンドリックスはあごをなでた。「きみの人生も、もし戦争がなかったら、ずいぶんちがうものになっていただろうな。十六か。きみは十六でここに来た。こんな生活をするために」
「あのね、あたしだって生きていかなきゃならなかったの」
「説教してるわけじゃない」
「あなたの人生だってちがうものになってたはずよ」タッソーは小さな声で言った。手を伸ばしてブーツのひもを解いた。蹴ってそれを脱ぐと、そのまま床に落とした。「少佐、あっちの部屋に行ってくれない? あたし、ねむたいの」
「四人でここに生活するとなると、問題が出てくるな。ここにみんなで暮らすのは無理だろう。たったふたつの部屋しかないのか?」
「そういうこと」
「もともとの地下室はどのくらいの大きさだったんだ? これより広かったんじゃないのか? ほかにもあった部屋が、瓦礫で埋まった、ということはないのか? もしそうなら、一部屋空けることもできるんじゃないか」
「かもね。あたしにはよくわからない」タッソーはベルトをゆるめた。シャツのボタンをはずして、ベッドの上で楽な格好になる。「ほんとにもうタバコは残ってないの?」
「もともと一パックしか持ってなかったんだ」
「うーん、残念。だけどあなたの壕に戻れば、もっとあるんでしょ」もう一方のブーツも床に落ちた。タッソーはあかりのひもに手を伸ばした。「おやすみなさい」
「寝るのか?」
「そういうこと」
部屋は闇に閉ざされた。ヘンドリックスは立ちあがるとカーテンを通って台所に入った。そこで脚が止まり、棒立ちになった。。
ルディは壁を背に立っていた。顔は蒼白で目が光っている。口をぱくぱくさせているが、声が出ないらしい。クラウスがルディの前に立ち、ピストルの銃口をルディのみぞおちに当てている。ふたりとも身動きひとつしない。クラウスは銃をきつくにぎりしめ、固い表情をしていた。ルディは青ざめ、無言のまま、壁に張りつけられている。
「これは……」ヘンドリックスがつぶやきかけたが、クラウスはみなまで言わせない。
「少佐、何も言うな。こっちへきてくれ。あんたの銃も出してくれないか」
ヘンドリックスは銃を抜いた。「どうしたんだ」
「やつを抑えてるんだ」クラウスはヘンドリックスに前へ出るように指図した。「おれの横に来てくれ、急いで!」
ルディは身動きすると両腕を下げた。唇を湿しながらヘンドリックスに顔を向けた。白目の部分が凶暴な光を宿している。汗が額から頬へと流れ落ちた。視線がヘンドリックスの上にすえられた。「少佐、やつは狂っちまった。なんとか止めてくれ」細くかすれたルディの声は、かろうじて聞き取れた。
「いったいどうしたんだ?」ヘンドリックスは強い調子で聞いた。
銃を降ろさず、クラウスは答えた。「少佐、おれたちの話を覚えてるだろう? 変種には三つのタイプがあるって。第一号と第三号についてはわかってる。だが二号がわからないんだ。いや、少なくとも、ちょっと前まではわからなかった」クラウスはいっそう強く銃の台尻をにぎりしめた。「これまではわからなかった、だが、もうわかったんだ」引き金を引いた。爆音がとどろき、銃から飛び出した白い煙がルディの体全体をなめまわす。
「少佐、これが変種第二号さ」
タッソーがカーテンを開けた。「クラウス! あんた、何してんの」
クラウスは、ずるずるとかべから落ちて床にくずおれる、真っ黒に焼け焦げた体から目を離して向き直った。「変種第二号だ、タッソー。これでもうわかったぞ。三つの型が全部特定できたんだ。危険はこれでずいぶん軽減されるはずだ。おれは……」
タッソーの視線はクラウスを越えて、ルディの遺体に落ちた。黒焦げになり、煙が立ち上り、服の断片がかろうじて判別できる。「あの人を殺したのね」
「あの人だと? あれさ。おれはずっと見てたんだ。勘が働いたんだが、確信はなかった。少なくとも、これまではな。だが、今夜はもう間違いないことがわかったんだ」クラウスは銃の台尻を神経質そうにこすった。「おれたちは運が良かったよ。それがわからないのか? もう一時間もしたら、きっと……」
「間違いない、ですって?」タッソーはクラウスを押しのけ、床の上でまだくすぶっている遺体の上にかがみこんだ。その顔は厳しくなっていく。「少佐、あんたも見てちょうだい。この骨。この肉」
ヘンドリックスも彼女の横にしゃがんだ。遺体はまぎれもなく人間のそれだ。焦げた肉、焦げた骨片、頭蓋骨の一部。靱帯、内臓、血。壁に沿って血だまりが広がっていく。
「歯車なんてない」タッソーは静かに言うと、立ちあがった。「歯車もなければ、部品もない、継電器もない。クローなんかじゃない。変種第二号じゃなかった」タッソーは腕を組んだ。「あんた、これをどう説明するつもり?」
クラウスはテーブルに腰をおろした。その顔からは急に血の気が引いていく。頭を抱え、前に後ろに体はぐらぐらと揺れた。
「しっかりなさい!」タッソーの指が、クラウスの肩を強くつかんだ。
「なんでこんなことしたのよ。何でこの人を殺したりするの」
(この項つづく)