陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フィリップ・K・ディック『変種第二号』その12.

2009-04-11 23:13:23 | 翻訳
その12.

朝の空気は澄んでいて、身が引き締まるようだった。ヘンドリックス少佐は双眼鏡であたりを調べた。

「何かいるか?」

「いた」

「おれたちの掩蔽壕がわかるか?」

「どっちの方角だ?」

「貸してみろ」クラウスは双眼鏡を取ると調節した。「どこを見たらいいか、おれは知ってるからな」長い間、黙ってのぞいていた。タッソーが地下道の入り口から上がってきた。「何か見える?」

「何も」クラウスは双眼鏡をヘンドリックスに返した。「見る限り、あれの姿はないな。行こうや。長居は無用だ」

三人は柔らかい灰に足を取られながら、小山の斜面を降りた。平たい岩の上を、一匹のトカゲが走り抜ける。三人はその瞬間、はっとして立ちすくんだ。

「何だ」クラウスがそっとつぶやいた。

「トカゲだよ」

トカゲは止まることなく、灰の上をすごい速さで駆けていった。灰とそっくり同じ色だ。

「完全なる適応だな」クラウスが言った。「ロシア側が正しかったことの証明だな。ルイセンコ論争のことだが」

小山のふもとまで降りてくると、三人はそこで止まり、身を寄せ合ってあたりを見回した。「さて、行くとするか」ヘンドリックスが動き出した。「結構な距離を歩くことになるぞ」

クラウスが横に並んだ。タッソーは後ろにつき、ピストルを油断なく構えている。「少佐、ずっと聞こうと思ってたんだがな」クラウスは言った。「あんた、どうやってディヴィッドに会ったんだ。あんたのあとをずっとついてきたデイヴィッドだが」

「途中で会ったんだ。どこかの廃墟だった」

「あれはどんなことを言った?」

「たいして何も言わなかったな。ひとりだと言っていた。ひとりぼっちだって」

「あんたは機械だとは思わなかったんだろう? 生きてる人間みたいにしゃべったんだろ? 変だと思わなかったのか?」

「ほとんどしゃべらなかったんだ。だからとくに不自然だとも思わなかった」

「そりゃおかしいな。人間みたいにしゃべる機械に、あんた、だまされたのか。まるで生きてるみたいだな。しまいにはどうなることやら」

「あれはどれもあんたたちヤンキーが設計した通りに動いてる」タッソーが言った。「あんたたちは生命体を追いつめ、殺すように設計した。どこで何をしてようと人間を見つけしだいに」

ヘンドリックスはクラウスをきつい目で見た。「なんでそんなことを聞く? 何を考えているんだ?」

「別に何も」クラウスは答えた。

「クラウスはあんたを変種第二号だと思ってるのよ」タッソーはふたりの背後からこともなげにそう言った。「いまはあんたに目をつけてるの」

クラウスはぱっと赤くなった。「悪いか? 我が軍がヤンキーに伝達係りを送って、そこであんたが来た。もしかしたらここで願ってもない獲物を見つけようと思ったのかもしれないじゃないか」

ヘンドリックスは尖った声で笑った。「私は国連軍の掩蔽壕から来たんだぞ。人間なら周囲にたくさんいたんだ」

「ソ連の前線に入り込む願ってもないチャンスだと思ったのかもしれないじゃないか。あんたは機会をうかがった。そしてあんたは……」

「そのころソ連の前線はもう乗っ取られていたんじゃないのか。私が司令部の掩蔽壕を出る前に、君たちの前線は、やつらに入り込まれてしまっていたんだ。そのことを忘れちゃこまるよ」

タッソーが隣りに並んだ。「少佐、それは何の裏付けにもならないわよ」

「なぜだ」

「あの変種たちは相互にほとんど意思疎通がないみたいなの。それぞれ別の工場で作られてるから。共同行動は取ってない。ほかのタイプたちが何をしてるか知らずに、ソヴィエトの前線に向かったのかもしれない。もしかしたら、ほかのタイプがどんなものかも知らないのかも」

「なんでそんなにクローのことに詳しいんだ」ヘンドリックスは言った。

「だって見てたんだもの。やつらのことは観察してたの。やつらがソヴィエトの掩蔽壕を占拠するのをずっと」

「おまえ、ずいぶん詳しいな」クラウスも言った。「実際のところ、ほとんど見てなかったじゃないか。そんなに鋭い観察をしてたなんて、おかしいんじゃないか」

タッソーは声を上げて笑った。「今度はあたしを疑うわけね?」

「忘れてくれ」ヘンドリックスは言った。一同は黙ったまま歩き続けた。

「ずっと歩くの?」しばらくしてタッソーが言った。「あたし、あんまり歩くのは慣れてないのよ」見渡す限り、灰の降り積もった平原が広がるのを眺め回した。「もう、うんざり」

「どこまで行っても似たようなもんさ」クラウスが言った。

「やつらの襲撃があったとき、あんたも掩蔽壕にいればよかったのに」

「で、おれじゃなきゃ別の誰かがおまえと一緒にいたってわけか」クラウスがぼそっと言った。

タッソーは両手をポケットにつっこんだまま笑った。「きっとね」


太陽が沈もうとしている。ヘンドリックスは慎重に歩を進めながら、手を振ってタッソーとクラウスを下がらせた。クラウスはしゃがんだまま、銃の台尻を地面に立てている。タッソーはコンクリート板を探してそこに腰を下ろし、ため息をひとつついた。

「休めて良かった」

「静かに」クラウスが鋭く言った。

ヘンドリックスは前方の丘を上った。前の日にロシア軍の伝達係りが上ってきたあの丘である。ヘンドリックスは手足を伸ばして身を伏せると、双眼鏡で向こうの様子をのぞいた。何も見えない。そこにあるのは灰と見なれた木々だけだ。だが、50メートルほどのところには司令部の掩蔽壕の入り口がある。彼が出てきた掩蔽壕だ。ヘンドリックスは物音を立てないように監視を続けた。動くものはない。生命の徴候もない。身じろぎする気配もない。

クラウスが這ってやってくると、隣りに並んだ。「どこだ?」

「降りたところだ」ヘンドリックスは双眼鏡を渡した。夕焼け空を背景に、灰が雲のようにたちこめている。暗くなりかけていた。明るさが残っているのも、せいぜいあと二、三時間ほどだろう。そんなにもないだろうか。

「わからないな」クラウスが言った。

「あそこに木があるだろう。切り株だ。レンガの山の脇だ。入り口はレンガの右手にある」

「あんたの言葉を信じるしかないな」

「君とタッソーはここから私を援護してくれ。掩蔽壕の入り口まで、ずっと視界はさえぎられないはずだ」

「ひとりで行くつもりなのか」

「私は手首にタブをつけてるから安全だ。掩蔽壕のまわりはクローの群れの活動区域だ。灰のなかはやつらだらけだ。カニのようにな。タブなしでは命はない」

「そうなんだろうな」

「ゆっくりと歩いていくつもりだ。何かわかったらすぐ……」

「もしやつらが掩蔽壕のなかに入り込んでたら、あんたは生きて戻ることはできないぞ。なにしろ素早いんだ。あんたはまだわかってないみたいだな」

「じゃ、どうしたらいい」

クラウスは考えていた。「おれにもわからん。とにかく地表に呼び出すんだ。そしたらわかるだろう」

ヘンドリックスはベルトから通信機を取り出すと、アンテナを伸ばした。「やってみよう」

クラウスがタッソーに合図を送った。タッソーは手慣れたようすで丘の斜面をふたりのいるところまで匍匐前進でのぼってきた。

「少佐はひとりで行く」クラウスが言った。「おれたちはここで援護する。少佐が戻ってくるのが見えたら、すぐに少佐の背後を狙って撃つんだ。やつらの動きは早いからな」

「あんたはあんまり楽観的じゃないのね」タッソーが言った。

「おれはちがう」

ヘンドリックスは銃尾を開いて入念に点検した。「もしかしたら万事いつもどおりかもしれない」

「あんたは見てないからな。何百というやつらの姿を。全部が同じの。アリのようにぞろぞろとあふれ出してくるのを」

「向こうに降りていく前に確かめられるといいんだが」ヘンドリックスは銃をロックし、片手で握りしめ、もう一方の手には通信機を持った。「さて、幸運を祈っていてくれ」

クラウスは手を差し出した。「確かなことがわかるまで、降りていくんじゃない。地上から話しかけるんだ。相手が姿を見せるように」

ヘンドリックスは立ちあがった。丘の斜面に脚をふみだした。ほどなく、枯れた木の切り株を過ぎ、レンガや瓦礫の山に向かってゆっくりと歩いていく。司令部の掩蔽壕の入り口に向かって。動く気配はない。彼は通信機を持ち上げ、スイッチを入れた。

(この項つづく)