陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

不幸は災難か

2009-04-29 22:44:54 | weblog
昨日「不幸な人」の話を書いた。

いかにも他人事のような書きぶりをしているが、わたしのなかにも「自分ばかりこんなことをさせられている」と不平不満の声を上げる面がある。苦労しているのだから、それをねぎらってほしいと思ったり、感謝の言葉を期待したり。望む評価が得られなければ、愚痴をこぼすし、不平不満を誰かに聞かせたくもなる。こうしてみたら、というアドヴァイスに耳を傾けることもなく、言下に「無理」といって、うまくいかないにもかかわらず、自分の状況を変えようともしないこともある。自分に引き比べて他人をうらやましく思い、恨みがましい思いを抱くこともある。

だからこそ、自分の不幸で頭がいっぱいになっている人の気持ちも理解できるのだ。自分のなかにも同じ面があるからこそ、相手のことがわかるのであり、単に程度の差でしかないのだ。自分だってうまくいかなければ世の中を恨みたくもなる。それでも、それを自分の内に留めている。せいぜいのところ、甘えられる人間に愚痴をこぼす程度でなんとか踏みとどまっている。それをやすやすと踏み越え、自分の不幸の腹いせを平然と実行に移してしまう人、不幸な自分に較べて幸福そうな他人がねたましいがゆえに、簡単に人を傷つけ、自分と同じ不幸に引きずり落とそうと、実際に犯罪行為にまで出る人を見ると、何とも言えない不快感を覚えてしまうのだろう。理解できなければ、ただただ不思議なだけなのではなかろうか。

ただ、不幸な人というのは、「もし自分に~があれば」とか「××さえなければ」とか、「あの人のせいで」とかと自分が不幸になった原因を、簡単に外部に求める。不平不満の対象、腹を立てる対象は、つねに自分とは無関係だ。

自分にも悪いところがあった、と省みることができれば、そこから対策も立てられる。やるべき方策が見つかることによって、その人は不幸なばかりではなくなってくる。ところが悪いのはすべて自分以外だとすると、自分に出来ることはなくなってしまう。不幸はいつも外から襲ってくる。不平不満を並べること以外、自分には何もできない。

だが、もしその人に、欠けているもの(たとえばお金とか美貌とか身長とか才能とか)があり、過剰なもの(たとえば体重)がなく、邪魔者(たとえばいやな上司や恋敵)がいなければ、その人は幸福になれるのだろうか。

どうもそうではないような気がする。

幸福というのは、たとえば試験に合格したり、好きな人から好きと言ってもらったり、道で一千万円拾ったり、昇進したりするようなものなのだろうか。

確かに合格した瞬間はうれしい。だが、いったん合格してしまえば、そこからまたつぎの関門が待っている。好きという感情を確かめ合ったところで、その感情をどうこれから先へとつなげていくかはまた別の問題だ。「生活といううすのろ」をどうしていくか、厄介な問題が待っている。一千万円拾って、お礼に一割もらったとしても、使ってしまえばなくなるし、昇進は責任を連れてくる。

幸福というのはそういうものなのだろうか。
だとしたら、スモーキー・マウンテンに生まれた子供は、一生幸福とは無縁なんだろうか。

幸福というのは、どうもそういうものではないような気がするのだ。幸福というのは、欠如がない状態でもなければ、邪魔者のいない状態でもない。その意味で、不幸の対義語ではないのではあるまいか。

そのことはまた明日。