陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

便利なもの、不便なもの

2008-09-05 23:02:27 | weblog
あれは去年だったろうか、違法駐車の取り締まりが民間に委託されて、ずいぶん話題になったことがある。車に乗らないわたしは、世間でずいぶん話題になって、新聞やインターネットのニュースサイトなどで取り上げられるようなことにでもなれば、なるほど、と読みもするが、実際にはほとんど無関係なので、いまそれがどうなっているのか、ほんとうに違法駐車が減ったのかもわからない。

ただ、歩道に乗り上げるようなかたちで駐車している車は、確かに減ったような気がする。自転車で道路の端や、ときに歩道を走るわたしは、路肩駐車の車には悩まされるし、以前、歩道をふさがれて車道に回ったところ、運転席のドアが勢いよく開いて自転車に当たり、車道に投げ出されたこともある。そのときは運良く車が来ていなかったから良かったものの、かならずしも交通量の少ない車道ではなかったことを考えるに、つくづく運が良かったなあと思う。そのとき痛打した膝は、ずいぶん腫れて、二ヶ月ぐらい痛みが引かなかったが。

さて、違法駐車の取り締まりもまだ厳しくなかった十年ほど前の話である。
用事があって、知人の家に行ったところ、青空駐車で略式起訴されてしまった、としょげていたことがあった。

その人が住むアパート(というか、いわゆる「マンション」)の前は、表通りから一本中に入った細い一方通行で、その先が行き止まりになっているせいで、その界隈の住人以外は利用する人もないような通りだった。集合住宅が建て込んでいる地域で、いきおい駐車場もある程度離れたところにある。その結果、いつもその通りは違法駐車の行列ができていたのだった。知人の話によると、その違法駐車にも暗黙の了解による「自分の場所」意識があるらしく、ちがうところに停めたりすると、吸い殻を前のボンネットの上に捨てられたりするような嫌がらせもあるらしかった。

そこで、青空駐車の一斉取り締まりを喰らったのである。おそらくその通りを埋めていた車の列はみんなやられたのだろう。少なからぬ罰金の総額は、いったい何に使われるのかと思ったものだった。

おそらくその日だったか、別の機会だったか、その知人が「遠くて不便」とつねづねこぼしている駐車場に、一緒に歩いていったことがある。五分も歩いただろうか。交通手段というと、徒歩か自転車に限られていたわたしからすれば、まちがっても「遠い」などと呼べる距離ではなかった。

車のある生活をしていると、五分歩くだけでも「不便」と感じるのだろうか、と思った経験だった。

それからのちも、似たような経験をした。これは別の人だったが、車でショッピングモールに連れて行ってもらったことがある。ショッピングモールの広い駐車場を、その人は入り口に近い場所を探して、ぐるぐるぐるぐる何周もするのだった。入り口から遠いといったところで、敷地のなかにある駐車場である。歩く距離というほどのこともない。それでも、少しでも入り口近い「良い」場所を求めて、何周も回るのだった。

こういうのを見ると、「便利/不便」というのがいったいどういうことなのか、よくわからなくなってくる。車に乗るようになると、たかだか二百メートルの距離さえ歩くのがめんどうになってしまうのだろうか、と考えていて気がついた。ある便利なものがひとつ生まれると、そうでないものが不便になってしまうのだ。

わたしたちはどこかで「必要は発明の母」、不便だったから、ある発明が生まれて便利になった、と考えている。だがほんとうにそうなのだろうか。

移動手段が徒歩しかない時代であれば、歩くことが不便だなどと考える人はいなかった。もっと速く走ることができて、しかも疲れない自転車、さらには自動車が普及して、歩かなければならない状態は「面倒」になったのである。

皿洗いは確かに「面倒」だ。「面倒」だから、自動食器洗い機が普及した。便利になった。だが、こうなると、食器洗い機に入れる前に、軽くすすいだり、皿に残った油をあらかじめ拭き取ったりすることが面倒になってくる。「面倒」は、たとえ便利になっても形を変えて残っていく。

それがないときは「面倒」であっても、「不便」ではない。「面倒」を解消するはずの「便利」なものが登場すると、それがない「不便」という状態が新たに生まれ、「面倒」は形を変える。

もう少し整理をしてみよう。

「面倒」の対義語は「便利」ではない。それが証拠に、宿題をやりなさい、と子供に言うと、「面倒くさい~」という返事が返ってくるが、「不便だ~」とは言わない。子供がゲームをする。おそろしく複雑なコントローラーの操作を「面倒」がりもせず、夢中になってやっている。「面倒」の対義語は、「楽しい」なのである。

では「便利」と「不便」は「楽しい」とどのような関係にあるのだろう。
車の運転が好きな人にとっては、車に乗ることは「楽しい」ことではある。だが、それは「便利」ということとは関係がないように思える。
だが、ちょっと待ってほしい。確かに車は便利だが、「車の運転」ということに限ってみると、決して便利とはいえないのである。その証拠に運転技術を習得しようと思えば、お金と時間をかけなければならないのである。自動食器洗い機のように、ボタンをひとつ押せばすむというわけではない。

車の運転の楽しさは、その技術の習得の困難さにあるのではないか。
逆に、ボタンひとつ押せばすむことでも、立ってボタンのところへ行くまでが面倒ということもある。

いったん新しい発明が生まれてしまえば、わたしたちはもはやそれを捨てて、それがない状態に戻ることはできない。つまり、「便利/不便」という区分が生まれてしまえば、便利を選択するのは不可避なことなのである。

だが、そこに「楽しみ」という観点を導入すれば、わたしたちの選択も変わってくるのではあるまいか。
「楽しい」というのは、簡単にいってしまえば、「できなかったことができるようになる」「なんとかできていたことが、もっとうまくできるようになる」ことだ。車の運転でも料理でも翻訳でもゲームでも、それは一緒だ。

「便利」さを追求していけば、ほんの二百メートル歩くのも面倒なことになる。どれだけ「便利」を追求しても、「面倒」はなくならない。
だが、そこに「楽しさ」という要素を組み込めば、ものごとは「便利さ」とは別の方向に向かっていくのではないかと思うのだ。

H.G.ウェルズ「魔法の店」最終回とおまけ

2008-09-04 22:51:43 | 翻訳
(※ずっと迷っていたのですが子供の名前を発音に即してジップからギップに変更しました。急に変わっちゃって読みにくいと思うんですが、やっぱりどう考えてもギップだと思うんです)

最終回


 包みを開封しながらわたしはとりあえずはほっとした。だが、子供部屋で必要もないのにいつまでもぶらぶらしていたのだった。

 こうした出来事が起こったのは半年前である。いまではわたしもいいかげん大丈夫だろうと思うようになった。子猫の魔法じみたところといえば、あらゆる子猫が備えているような種類の魔力だし、兵隊たちの中隊としての規律正しさときたら、どんな大佐だってうらやましがるようなものだ。そうしてギップは……。

 知性を備えた親であれば、わたしがギップに細心の注意を払っていたのをわかってくれるように思う。

 だが、もうそろそろいいだろうと思ったある日、わたしは言ってみた。「おまえの兵隊たちが命を持つようになって、自分で行進を始めたらおもしろいと思うかい?」

「ぼくのはそうだよ」ギップは言った。「ふたを開ける前に、ひとこと言ってやればいいんだよ」

「そしたら勝手にどんどん歩き出すのかい?」

「そうだよ、パパ。じゃなきゃ、こんなに気に入るわけがないじゃないか」

 ぎょっとしてうろたえたりはせずにすんだが、それからも一、二度、ギップの部屋に兵隊たちが広げられているときを見計らって、前触れもなく立ち寄ったことがあったが、いまのところ、魔術めいた動きを見せるものを見つけられずにいる。

 なかなかうまく言えないのだが。

 それに、金銭上の問題もある。わたしには生来、勘定は支払わずにはすませられないという傾向がある。そこで、リージェント・ストリートには何度となく出向き、あの店を探して行ったり来たりしたのだった。いや、わたしとしてはこう考えたい。この件の面目に関しては十分に果たした、と。というのも、ギップの名前も住所も彼らにはわかっているのだから、彼らがいったい誰であるにせよ、このことは任せておけば、いずれ彼らの都合の良いときに請求書を送ってくるだろう、と。



The End


* * *

さて、いかがでしたか。
ウェルズのなかではSFというより、ファンタジーの色彩の強い短篇です。

前にも書いたんですが、手品、あるいは奇術、古い時代には手妻という言い方もありましたが、日本ではあくまでもこれは手先の芸というとらえ方をされてきたのではないかと思います。

一方、magician, あるいは conjurer という言い方もありますが、ともに魔術師であったり、呪術師であったり、奇術師であったりします。
サマセット・モームの長編に『魔術師』というのがあるのですが、この作品では彼がほんとうの魔術師なのかどうかが重要な鍵になる。
魔術師と言われるオリヴァ・ハドゥは
「魔法とか神秘説とかの話をなさるのでしたら、とてもこれはぼくの理解のほかです」という主人公に、こんなことを言います。
「しかし魔術とは、意識的に目にみえぬ手段を用いて、目にみえる結果を生み出す術にほかなりません。意志、愛、想像力などは、万人がもっている魔術的な力ではありませんか。それらの力を最高度に発揮する方法を知る者が、すなわち魔術師です。魔術にはただ一つの理論(ドグマ)しかありません――すなわちそれは、可見のものは、不可見のものの尺度である。ということです」
サマセット・モーム『魔術師』田中西二郎訳 ちくま文庫)

このような魔術のとらえかたは、ウェルズのこの短篇にも通じるでしょう。

もちろんモームの作品でも、ウェルズの作品でも、魔術師たちは、わたしたちの合理的な思考からは納得できないような、不思議なことをやってみせます。
しかもウェルズの作品では、魔術師の意図というのもよくわからない。よくわからないために、よけいに話の続きを考えてしまいます。請求書は来るんでしょうか。お代はいただく、と言っていた店主ですから、このままでは終わるはずがないような気がするんですが。

後日全体に手直ししてサイトにアップしますので、そのときはまたよろしく。

H.G.ウェルズ「魔法の店」その6.

2008-09-03 22:43:39 | 翻訳
その6.

 そこにはギップが夢中になりそうなものがたくさんあった。

 ギップは信頼と尊敬の入り交じった目で、この驚くべき店の主人を振り返った。「これは魔法の剣ですか?」

「魔法のおもちゃの剣だよ。曲がることもなければ、折れることもない、そのくせ指を切ることもない。これを持っている子を、十八歳以下の相手ならだれにも負けないように助けてくれるんだ。大きさによって半クラウン(※1クラウンは5シリング)から7シリング6ペンスまでいろいろあるよ。これにそろいの武器や防具は、武者修行中の少年騎士が身につけていたもので、どれもすばらしく役に立つんだ――傷つく恐れのない盾、すばやさのサンダル、姿を消すかぶと」

「うわぁ、パパ……」ギップはため息をついた。

 なんとかしてその値段をのぞいてみようとしたのだが、店主はわたしの方には目もくれない。いまやギップをわがものとしているのだった。にぎっていたわたしの指からも、手を離させてしまっていた。驚くような品揃えの数々を、残らず披露することにしたらしく、それをやめさせることも無理なようだった。やがてわたしは、ギップがいつもわたしにするように、相手の指をしっかり握っているのに気がついて、一抹の不安と、一種、嫉妬に近い気分を味わうようになった。確かにやつはおもしろい、とわたしは考えた。おもしろいインチキ、実によくできたインチキだ。だが……。

 わたしはほとんど口を開くこともなく、ふたりのあとをぶらぶらとついていったが、店主からは片時も目を離さないようにしていた。ギップにしてみれば大喜びなのである。それに、その時がくればわたしたちだって簡単に帰ることができるにちがいない。

 ショー・ルームはむやみにだだっぴろい場所を、ついたてや間仕切り、柱などで区切っていて、通路のアーチをくぐってつぎの展示場に入るようになっている。それぞれの展示場にはひどく奇妙な出で立ちの助手が、ぶらぶらしながら人をじろじろと見ていたし、なぞめいた鏡やカーテンがそこここにあった。事実わたしはわけがわからなくなってしまって、自分がどのドアを通って入ってきたのかすら判然としないありさまだった。

 店主はギップに魔法の汽車を見せていたが、それは蒸気でもなくぜんまいじかけでもなく、信号をセットするだけで走り出すのである。かと思えば、たいそう値の張りそうな箱には兵隊の人形が入っていて、ふたを取るとすぐに生き返ったように動き出し、何かをしゃべっているのだった――わたしの耳はそれほど良くなかったので、早口言葉のような音しか聞こえなかったのだが、ギップは母親譲りの耳を持っており、すぐに理解できたようだ。「ブラボー!」店主は歓声をあげると、兵隊たちをさっさと箱に戻して、ギップに手渡した。「さあ」店主はそう言うと、今度はギップが兵隊たちを動かしたのだった。

「この箱がほしいかい?」店主はたずねた。

「ほしいところなんだが」わたしは口を挟んだ。「定価となると苦しいな。独占企業の重役というわけではないんだからね」

「お客様、もちろんでございますよ」店主は小さな兵隊たちをさっと集めて箱に戻すと、ふたを閉め宙でゆすった。すると箱には茶色い包装紙にひもがかかり、おまけにギップのフル・ネームと住所までが表面に書いてあったのである。

 肝をつぶしているわたしを見て、店主は声を上げて笑った。

「これぞ本物のマジックですよ」彼は言った。「タネも仕掛けもない」

「わたしの好みから言えば、少々本物過ぎるね」

 それからまた店主はギップにいくつもの手品を見せ始めたが、奇妙な手品、これまで見せられたものよりさらに奇妙なものだった。いちいち説明してくれるし、内側もひっくり返して見せてくれる。息子はしきりにうなずいて、かしこそうな頭を小刻みに上下させているのだった。

 わたしは仲間になりたい気分ではなかった。「ほうら不思議!」不思議な店主がかけ声をかけると、少年のよく透る、小さな声が「ほうら不思議!」とかえってくる。だがわたしはほかのことが気になってしょうがなかった。ここは何とも形容しがたいほど、怪しげな場所であるという気分が、徐々に強まってきたのである。言ってみれば「怪しさ」の気配があたりを、天井と言わず、床と言わず、無造作に置かれた椅子の数々にいたるまで、おおっていたのである。そうしたものから目をそらしたとたん、わたしの背後でかしいだり、うごきまわったり、音のしないように陣取り鬼をやっているような奇妙な気持ちがした。壁の最上部にはマスクをつけた蛇を図案化した模様がかたどられていたが、その仮面は漆喰にしてはあまりに精緻だった。

 そのとき不意に、わたしは例の奇妙な風体の助手たちのうちのひとりに目を奪われた。彼は離れたところにいて、わたしがそこにいることにはどうやら気がついていないらしく――わたしに見えたのは、山と積まれたおもちゃの向こう、アーチの向こうにいる彼のからだの四分の三ほどだった――、そうして彼は柱に寄りかかって、たいくつそうなようすで、自分の顔を相手にものすごいことをしていたのである! なによりも恐ろしかったのは、彼が自分の鼻にしたことだった。まるでたいくつをまぎらわせるかのように。最初、鼻は小さな団子鼻だった。急に鼻を引っ張ると、望遠鏡のようになったのである。それからさらに伸びて、どんどん細くなっていき、赤くて長い、しなやかな鞭のようになったのである。まるで悪夢のなかの出来事のようだった。ふりまわしたり、フライ・フィッシングをやっている釣り人のように前へ放ったりしている。

 とっさに思ったのは、ギップに見せてはならないということだった。振り返ると、ギップは店主に心酔しており、何の悪感情も抱いてないようだ。ふたりは何ごとかささやきながらわたしの方を見ている。ギップは小さなスツールの上に立ち上がり、店主は大きな筒のようなものを手に持っていた。

「鬼ごっこしようよ、パパ!」ギップは叫んだ。「パパが鬼だよ」

 わたしがやめさせようとする前に、店主は大きな円筒をギップの頭上高く掲げた。わたしはすぐに何が起ころうとしているか理解した。「そんなもの、どこかへやってしまえ」わたしは怒鳴った。「いますぐに、だ。子供が怖がるじゃないか。そんなものは捨てろ!」

 片方の耳の大きな店主は黙ったまま、大きな円筒をわたしの方に向け、中が空洞であることを示したのである。だが、小さなスツールもまた、空洞になっていた! その瞬間、息子は跡形もなく消え失せてしまった……。

 おそらく、見えないところから手がのびてきて、心臓をわしづかみにされるようなまがまがしい経験は誰にでもあるだろう。そんなとき、いつもの自分がどこかにいってしまい、緩慢になるでもなくかといって焦るわけでもない、怒ったり恐れたりもしない、張りつめていながらどこか悠然とした状態になるのだ。

 わたしはにやにやしている店主のところへ歩いていくと、スツールを蹴り飛ばした。

「馬鹿なまねはやめろ!」わたしは言った。「うちの子はどこだ?」

「おやおや」まだ円筒の内側をこちらに示したままだ。「ペテンなんてどこにもありませんよ」

 手を伸ばして店主につかみかかったが、相手は巧妙に身をかわす。もういちど捕まえようとしたが、今度は向きを変えて、逃げだそうとドアのひとつを開けた。「待て!」というわたしの言葉を笑い飛ばすと、どんどん遠ざかっていこうとする。わたしは後ろから飛びついた――暗闇のなかへ。

 ドシン!

「わぁっ! びっくりした! いきなりどこからきたんです?」

 そこはリージェント・ストリートで、わたしは身なりの良い勤め人とぶつかったのだった。一メートルほど向こうに、狐につままれたような顔をしたギップがいた。わたしが謝っているところへ、ギップがやってきて、明るい笑顔を見せた。まるで、ほんの一瞬、父親を見失った、とでもいうように。

 だが、彼は腕に四つの包みを抱えていたのだった!

 気持ちを落ち着かせるために、ギップはすぐにわたしの指を握った。

 わたしはしばらくどうしたらいいかわからなくなってしまっていた。手品屋の入り口はどこだったろう、とあたりを見回したが、どこにもなかった。ドアもなければ店もない、ただ画廊と雛がショーウインドウにいる店の間には、どこでも見かけるようなありふれた壁柱があるだけだった……。

 ひどく動揺したわたしにできることはほとんどなかった。縁石まで歩いていくと、傘をあげて馬車を停めた。

「馬車だ」ギップがうれしそうな声をだした。

 わたしはギップが乗るのを助けてやってから、自分の住所をなんとか思い出して、自分も乗り込んだ。コートのポケットに奇妙な感触があったので手で探ると、ガラス玉が出てきた。カッとしたわたしは、通りへ投げ捨てた。

 ギップは黙っていた。しばらくわたしたちは口をきかなかった。

「パパ」やがてギップが口を開いた。「すごいお店だったね!」

 ああいったことすべてが、ギップの目にはどのように映ったのだろうか。どこにも傷を負ったようには見えなかった――少なくともそれはよいことだった。怯えても、動揺してもおらず、ただ、午後の楽しかった出来事にすっかり満足しているようすで、腕にはよっつの包みを抱えている。

 くそっ! あの中にはいったい何が入っているんだ?

「あのな」わたしは言った。「小さい子はあんな店に毎日行くことはできないんだ」

 ギップはいつもの冷静さを見せて、黙って聞いていた。一瞬、わたしはギップの父親が、母親のようには急にそんな場所で、人前で、キスできないことを残念に思った。だが結局、それもそんなに悪いことではないのかもしれない。

 だが包みを開けたときに、わたしは初めてほんとうの安堵を覚えた。箱の三つはふつうのなまりの兵隊が入っていた。とはいえ非常に立派なものだったので、ギップはそれが手品に使う物であることをわすれてしまったようだった。そうして四番目の箱には、生きた白い子猫が入っていた。とても元気で、食欲旺盛で、性質の良い猫だった。

(もうちょっとだけ残ってます。残りは明日)

業務連絡と無駄話

2008-09-02 22:40:31 | weblog
昨日は「明日最終回」と書いたんですが、仕事が片づかなかったのでできませんでした。
楽しみにしてくださった方、ごめんなさい。

いま訳している「魔法の店」というのは、原題は"Magic Shop" というのです。このマジックというのは、「魔法」と「手品」の両方をかけている。日本語にするときはどうしようかと悩んだのですが、箇所によって訳し分けています。
まあブログではそこまで詰めてないので、全部終わったら、もう一度、それぞれを見直してみようかと思います。

それにしても、手品というのは不思議なものですね。
ある種の手品はタネがわかっていたら、まるでおもしろくない。
ところが、タネがわかっていても、やっぱりびっくりするのもあるんです。手品師自身がタネを明かしながら続けていく。ほらこうなる、ほら、つぎはこうなるんです、といって、最後にあっと驚かせる。そこにもやっぱり物語の文法は働いているように思います。
うまい手品師とへたくそな手品師の差というのは、技術力もさることながら、そういう物語構成のうまいへたではないか、と思います。

このウェルズの物語はどうなっていくのでしょうか。
ほんとは『タイムマシン』がやりたいんですけどね(ほんと、おもしろいです)、ここでやるにはちょっと長いので、二の足を踏んでます。
それにくらべると佳品という感じですが。
明日はちゃんと最後までアップします。

H.G.ウェルズ「魔法の店」その5.

2008-09-01 22:54:29 | 翻訳
その5.

「わたしの帽子はもう用がすんだかね?」しばらくしてわたしは聞いてみた。

 返事がない。

 ギップに目をやると、ギップもわたしの方を見ている。マジック・ミラーにはゆがんだわたしたちの姿が映っていた。ひどく奇妙で深刻そうな、静かな姿が……。

「そろそろ帰るとしよう」わたしは言った。「全部でいくらになる?」

「失敬」わたしは大きな声を出した。「勘定を頼む。それと帽子を」

 紙玉の山の向こうで、鼻を鳴らすような音が聞こえたような気がした。

「カウンターの向こう側をさがしてみよう、ギップ」わたしは言った。「どうやらからかわれているようだ」

 わたしはギップを誘って張り子の虎の裏側へ回ったのだが、わたしたちがカウンターの向こうに回ったときにいったい何を目にしたとお思いか? 誰ひとり、そこにはいなかったのである。ただ床にわたしの帽子が置いてあり、よく手品に使う垂れ耳の白ウサギがくつろいで瞑想にふけっていたのである。いかにも手品師の使ううさぎらしく、ぼうっとした様子で丸まっている。わたしが帽子をとりあげると、ウサギはぴょんぴょんと跳ねてあっちへ行ってしまった。

「パパ!」ギップはどことなくばつが悪そうにささやいた。

「どうしたんだ、ギップ」

「この店、すっごくいいね、パパ」

「そうかもな」わたしは胸の内でつぶやいた。「カウンターがこんなふうに急に伸びて、ドアをふさぐようなことにならなかったらな」だがそんなことを言って、ギップにいらぬ心配をさせたくはない。

「ウサちゃん!」ギップはわたしたちのわきを通って向こうへ行こうとするウサギに手を伸ばした。「ウサちゃん、ぼくに手品をしておくれ!」と言いながら、目で追いかける。ウサギはそのときまでまったく気がつかなかったドアの隙間から身をよじって出ていった。すると、ドアが大きく開き、あの片耳の大きな店主がまた姿を現したのである。顔にはまだ笑みが浮かんでいたが、わたしに向けた目は、何かしら楽しんでいるようにも挑発しているようにも見えた。「この店のショー・ルームをごらんになりませんか」一点の曇りもない笑顔でそう言った。ギップはわたしの指を引っ張った。わたしはドアをふさぐカウンターに目をやってから、店主と目を合わせた。徐々に、手品ではなく本物の魔法ではないかとおもうようになっていたのだ。「時間がそんなにあるわけじゃないんだよ」わたしはそう言ったのだが、言い終わらないうちにわたしたちはショー・ルームのなかにいたのだった。

「品物はどれも品質の維持につとめております」店主はしなやかな手をこすりながらそう言った。「それに越したことはございませんからね。当店には本物ではないマジックはございません。すべての品に十全の保証をいたしております。あ、お客様、ちょっと失礼しますよ」

 店主がわたしのコートの袖にくっついているものをぐいっと引っ張った。そのとき、彼が小さなくねくねと動いている赤い悪魔のしっぽをぶらさげているのを見てしまったのだ――その小さな生き物はかみついたりもがいたり、なんとか彼の手を逃れようとしている――。すぐに店主は無造作にカウンターの後ろに放り投げた。それがゴムをよりあわせて作った人形だったのはまちがいあるまい。だが、一瞬……。しかも彼の手つきはちょうどネズミか何かを扱うようなものだったのである。わたしはギップに目をやったが、ギップは手品用の木馬に見入っていた。何も目にしていなくてよかった。「まさか」わたしは声を低めて話しかけ、ギップと赤い悪魔の両方に目を注ぎながら言った。「この店にあのようなものがたくさんいるんじゃないだろうな?」

「うちにはございませんよ! おそらくお客様が持ち込んだのでしょう」店主は同じようにひそひそ声でそう言った。顔はいっそうにこやかな表情になっている。「おどろくほどに大勢の人が気がつかないままあの手合いを引き連れてるんですよ!」それからギップに言った。「何かおもしろいものは見つかったかい?」

(明日最終回)