5.濡れ衣を晴らすより大切なこと
アメリカの作家ジェーン・スマイリーの『大農場』という作品は、シェイクスピアの『リア王』を、1970年代のアメリカのアイオワ州の大農場に舞台を置き換えたものである。単に舞台と時代を移し替えただけでなく、長女のゴネリルに当たるヴァージニアの視点で物語が語られていく。
ここでのコーディリアに当たるキャロラインは、理詰めで論理的で、長女と次女と父親のあいだの確執をまったく理解しようとしない、冷たい女性として描かれている(彼女の職業は弁護士である)。
確かに戯曲の『リア王』を読んでいても、コーディリアの態度はあまりに理詰め、という印象がなくもない。父親が、愛の言葉をそんなにもほしがっているのなら、少しぐらい聞かせてやっても、という印象を受ける。
だが、コーディリアはほんとうに理詰めで冷たい娘なのだろうか。
もし冷たくはないのであれば、彼女が「冷たい娘」という濡れ衣を晴らそうとしなかったのはなぜなのだろうか。
ここではそのことを見てみたい。
まずリア王は、老いた自分が国王の座から降りることを一同に向かって宣言する。国土を三つに分けた。その領土のひとつを姉の婿であるアルバニー公爵、次女の婿のコーンウォール公爵、そうして末娘の夫となるはずのフランス王とバーガンディ公爵のいずれかに譲ることを明らかにする。それにつづくのがこのせりふである。
それに対して長女のゴネリルはこのように答える。
このゴネリルの言葉につづいて、コーディーリアはこう独白する。
ふたりの姉から自分を愛しているとの言葉をふんだんに受けとって気をよくした父王は、最愛の娘コーディーリアがいったい何と言ってくれるか、楽しみに待ち受ける。
そこで王は腹を立てて、「貴様の真実を貴様の持参金にするがよい」と、娘を捨てるのである。
さて、ここでは「言葉」という観点からコーディリアの言葉を見てみることにしたい。
わたしたちはある種の言葉は、相手に向かって言った瞬間に、ちがうものに変質してしまったように感じた経験はないだろうか。
たとえば「信頼」という言葉。
ほんとうに相手を信頼しているのなら、そんなことは言う必要がない。ただ黙って信頼していればいい。それを「あなたを信頼してますからね」というのは、逆に信頼していないから、何か自分の希望に反することをするのではあるまいか、と危惧していて、釘を指すために言うのではないか。
あるいは森鴎外の「最後の一句」で、主人公のいちが言った「お上の事には間違いはございますまいから」という言葉が、なぜ周囲の役人たちの胸に「ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響している」ように感じられたのか。ほんとうにいちがそう思っていたのなら、そんな言葉を言う必要はない。そうではなくて、「献身のうちに潜む反抗の鋒(ほこさき)」がその言葉をとって現れたのである。
同じように「愛している」という言葉、「大切に思う」という言葉も、本来なら、相手に告げる必要などない。黙ってその思いを胸に抱いていればいい。ところが、それを口にするというのは、それによって、「あなたを愛している自分」をアピールするためだったり、恩を着せたり、自分のもとにつなぎとめようとしたりしているからこそ、相手にそう告げるのではあるまいか。
コーディーリアの「ただ心に思うだけ、後は黙っていればよい。」というのは、おそらくそういう意味なのだろう。自分の胸の内にある思いに誠実であろうとしたからこそ、コーディーリアはあえて自分の思いを言葉にして明らかにすることを拒んだのである。
「言葉でなら何とでも言える」という言い方がある。ゴネリルやリーガンの言葉も、まさにそれを体現しているような言葉である。
彼女たちは、権力と領土とを得るために、「愛」という言葉を引き替えにしようとする。ちょうど自動販売機に硬貨を入れるように、最大級の賛辞を父親に送って、望むものを得ようとしている。ここでの言葉は、何ら「実」を伴わないものだ。
おそらくわたしたちはそのことを知っている。だから、「口先三寸」とか、「言葉でなら何でも言える」とか「所詮、言葉は言葉だ」という言い方で、自らを戒めているのだ。
だが、一方でわたしたちのコミュニケーションは、言葉のやりとりを基本に置くしかないから、ある場面においては、できるだけ自分の気持ちに近い言葉を選び、言い回しを考える。気持ちと言葉のあいだのどうしようもないずれに、ときに苛立ちながら、それでもなんとか気持ちと言葉の両方に誠実であろうとしている。
ここでもしコーディーリアが、父親の望む言葉を望み通りに告げるとすると、どうなるのだろう。それは単に自分の言葉を権力や領土と引き替えにすることによって、自分の気持ちを「ほかのもの」に変質させるだけではない。同時に自分がそれを言う父親をも貶めることになる。自分の愛に誠実であるために、そうして、父親に対する敬意から、コーディーリアはあえて「冷たい娘」という濡れ衣を進んで着たのである。
同様の行為は、芥川龍之介の「奉教人の死」にも見て取れる。傘張の娘が孕ったという濡れ衣を「ろおれんぞ」はかけられるのだが、それを晴らそうともせずに、「」に落とされる。それを晴らすことは、「ろおれんぞ」にとって、『でうす』の教えに背くことなのである。
彼、彼女たちは、簡単に濡れ衣を晴らすことができる。だが、彼らは晴らすことより自分の誠実な思いを貫く。そのことによって、その思いはより誠実なものとなり、強くその人物を支えることになる。だからこそ、彼らはまた濡れ衣を引き受けていくことができるのだろう。
では明日は濡れ衣をかけてしまう側を見てみよう。
(この項つづく)
アメリカの作家ジェーン・スマイリーの『大農場』という作品は、シェイクスピアの『リア王』を、1970年代のアメリカのアイオワ州の大農場に舞台を置き換えたものである。単に舞台と時代を移し替えただけでなく、長女のゴネリルに当たるヴァージニアの視点で物語が語られていく。
ここでのコーディリアに当たるキャロラインは、理詰めで論理的で、長女と次女と父親のあいだの確執をまったく理解しようとしない、冷たい女性として描かれている(彼女の職業は弁護士である)。
確かに戯曲の『リア王』を読んでいても、コーディリアの態度はあまりに理詰め、という印象がなくもない。父親が、愛の言葉をそんなにもほしがっているのなら、少しぐらい聞かせてやっても、という印象を受ける。
だが、コーディリアはほんとうに理詰めで冷たい娘なのだろうか。
もし冷たくはないのであれば、彼女が「冷たい娘」という濡れ衣を晴らそうとしなかったのはなぜなのだろうか。
ここではそのことを見てみたい。
まずリア王は、老いた自分が国王の座から降りることを一同に向かって宣言する。国土を三つに分けた。その領土のひとつを姉の婿であるアルバニー公爵、次女の婿のコーンウォール公爵、そうして末娘の夫となるはずのフランス王とバーガンディ公爵のいずれかに譲ることを明らかにする。それにつづくのがこのせりふである。
さあ、銘々言ってみるがよい。娘達、今や権力、領土、煩わしき政(まつりごと)の一切を、みずからかなぐり捨てようとしている私だが、お前達のうち、誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい。最大の贈物はその者に与えられよう。情においても義においても、それこそ当然の権利と言うべきだ。ゴネリル、長女のお前から先に答えて貰おう。(シェイクスピア『リア王』福田恆存訳 新潮文庫)
それに対して長女のゴネリルはこのように答える。
お父様、私がお父様をお慕いする気持は、とても言葉では尽せませぬ、物を見る喜び、無限の空間、その中を動き廻る自由、それもお父上には代えられない、どのような高貴な宝物も高が知れている、祝福、健康、美、そして名誉に溢れた生命そのものにも等しいお方、かつて子が捧げ、世の父が受けた限りの深い情愛を懐(いだ)き続けて参りました、貧しい息に託して言い表せるものではございませぬ。何に譬えて「これ程に」と申しましたところで、すべて私にはもどかしゅう覚えます。
このゴネリルの言葉につづいて、コーディーリアはこう独白する。
(傍白)コーディーリアは何と言ったらよいのか? ただ心に思うだけ、後は黙っていればよい。
ふたりの姉から自分を愛しているとの言葉をふんだんに受けとって気をよくした父王は、最愛の娘コーディーリアがいったい何と言ってくれるか、楽しみに待ち受ける。
コーディーリア 申し上げる事は何も。
リア 何も無い?
コーディーリア はい、何も。
リア 無から生ずる物は無だけだぞ、もう一度言ってみろ。
コーディーリア 不仕合わせな生まれつきなのでございましょう。私には心の内を口に出す事が出来ませぬ。確かに父君をお慕い申し上げております、それこそ、子としての私の務め、それだけの事にございます。
リア 何と、コーディーリア? もう少し言葉の端を繕うて言え、吾が身の仕合わせを毀したくないならばな。
コーディーリア お父様、お父様は私を生み、私を育て、私を慈しんで下さいました。その御恩返しは当然の事、私はお父様のお言附けを守り、お父様をお慕いし、お父様を心から敬っております。でも、お姉様方はなぜ夫をお持ちになったのでしょう、もしおっしゃる通りお父様お一人に心を捧げておいでなら? 私でしたら恐らく、一旦嫁ぎましたからには、誓いをその手に受けて下さる夫に、私の愛情はもとより心遣いや務めの半ばを割き与えずにはおられませぬ。ええ。私ならお姉様方のように結婚などしないでしょう、お父上一人にすべてを捧げたいと思うなら。
そこで王は腹を立てて、「貴様の真実を貴様の持参金にするがよい」と、娘を捨てるのである。
さて、ここでは「言葉」という観点からコーディリアの言葉を見てみることにしたい。
わたしたちはある種の言葉は、相手に向かって言った瞬間に、ちがうものに変質してしまったように感じた経験はないだろうか。
たとえば「信頼」という言葉。
ほんとうに相手を信頼しているのなら、そんなことは言う必要がない。ただ黙って信頼していればいい。それを「あなたを信頼してますからね」というのは、逆に信頼していないから、何か自分の希望に反することをするのではあるまいか、と危惧していて、釘を指すために言うのではないか。
あるいは森鴎外の「最後の一句」で、主人公のいちが言った「お上の事には間違いはございますまいから」という言葉が、なぜ周囲の役人たちの胸に「ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響している」ように感じられたのか。ほんとうにいちがそう思っていたのなら、そんな言葉を言う必要はない。そうではなくて、「献身のうちに潜む反抗の鋒(ほこさき)」がその言葉をとって現れたのである。
同じように「愛している」という言葉、「大切に思う」という言葉も、本来なら、相手に告げる必要などない。黙ってその思いを胸に抱いていればいい。ところが、それを口にするというのは、それによって、「あなたを愛している自分」をアピールするためだったり、恩を着せたり、自分のもとにつなぎとめようとしたりしているからこそ、相手にそう告げるのではあるまいか。
コーディーリアの「ただ心に思うだけ、後は黙っていればよい。」というのは、おそらくそういう意味なのだろう。自分の胸の内にある思いに誠実であろうとしたからこそ、コーディーリアはあえて自分の思いを言葉にして明らかにすることを拒んだのである。
「言葉でなら何とでも言える」という言い方がある。ゴネリルやリーガンの言葉も、まさにそれを体現しているような言葉である。
彼女たちは、権力と領土とを得るために、「愛」という言葉を引き替えにしようとする。ちょうど自動販売機に硬貨を入れるように、最大級の賛辞を父親に送って、望むものを得ようとしている。ここでの言葉は、何ら「実」を伴わないものだ。
おそらくわたしたちはそのことを知っている。だから、「口先三寸」とか、「言葉でなら何でも言える」とか「所詮、言葉は言葉だ」という言い方で、自らを戒めているのだ。
だが、一方でわたしたちのコミュニケーションは、言葉のやりとりを基本に置くしかないから、ある場面においては、できるだけ自分の気持ちに近い言葉を選び、言い回しを考える。気持ちと言葉のあいだのどうしようもないずれに、ときに苛立ちながら、それでもなんとか気持ちと言葉の両方に誠実であろうとしている。
ここでもしコーディーリアが、父親の望む言葉を望み通りに告げるとすると、どうなるのだろう。それは単に自分の言葉を権力や領土と引き替えにすることによって、自分の気持ちを「ほかのもの」に変質させるだけではない。同時に自分がそれを言う父親をも貶めることになる。自分の愛に誠実であるために、そうして、父親に対する敬意から、コーディーリアはあえて「冷たい娘」という濡れ衣を進んで着たのである。
同様の行為は、芥川龍之介の「奉教人の死」にも見て取れる。傘張の娘が孕ったという濡れ衣を「ろおれんぞ」はかけられるのだが、それを晴らそうともせずに、「」に落とされる。それを晴らすことは、「ろおれんぞ」にとって、『でうす』の教えに背くことなのである。
彼、彼女たちは、簡単に濡れ衣を晴らすことができる。だが、彼らは晴らすことより自分の誠実な思いを貫く。そのことによって、その思いはより誠実なものとなり、強くその人物を支えることになる。だからこそ、彼らはまた濡れ衣を引き受けていくことができるのだろう。
では明日は濡れ衣をかけてしまう側を見てみよう。
(この項つづく)