人によって悪夢には特有の傾向があるらしいのだが、わたしの場合、悪夢のひとつのパターンは、地面の中から手が出てきて、足をつかまれ、地中に引きずり込まれる、というもの。多くの人が階段から落ちる、とか、車にひかれるとか、それぞれにあるだろう。
そこまではいかないが、より穏やかな(?)悪夢として、試験の夢であるとか、お芝居で舞台に立ったところが、せりふがわからないといった「これは困った」という状況に陥る種類の夢もある。これまた人によって決まったパターンというのがあるのではないだろうか。
わたしの二進も三進もいかない、いわゆる「キャッチ22」的状況の夢というのは、濡れ衣を着せられて、誰かから責められるのである。まるで身に覚えがないことなので、弁明にこれ努める。ところがだれもそれに耳を傾けてくれないのだ。ああ、困った、どうしたらいいだろう、というところで目が覚める。過去、濡れ衣を着せられたような事態に遭遇したわけではない。だが、どこかで濡れ衣を着せられることを恐れているのだろうか。近ごろはまったくといっていいほど見なくなったが、十代のころは頻繁に、どうしてだれもわかってくれない、と思って、はっと目を覚まし、ああ、夢だった、良かった、と思って気が付くと、握りしめた手にいっぱい汗をかいていた、ということがよくあった。
確かに「濡れ衣」は恐ろしい。『フランダースの犬』や『ごんぎつね』がかわいそうなのも、罪のないネロやごんが濡れ衣を着せられ、晴らすこともなく死んでいくところにあるのだろうし、『オセロ』では、デズデモーナはイアーゴーの悪意によって不実の濡れ衣を着せられ、まるで自分から進んで罠のなかに落ちていくようだ。一方、ミステリでは濡れ衣をかけられた主人公が、なんとかそれを晴らそうとする、という筋立ては定番中の定番だ。映画にもなった「逃亡者」では、妻殺しの濡れ衣を着せられたリチャード・キンブルは、警察から逃れながら、同時に自分の無実を晴らそうと、アメリカ中を移動する。
ここでは読者や視聴者は、濡れ衣を晴らそうとする主人公の側に立ち、最後に満天下に無実が証明されたところで一種のカタルシスを得る。
だが、濡れ衣をかけられても、それを晴らそうとしない人びともいる。『リア王』では、自分を愛しているという表明を聞きたい父の求めに応じないばかりに、冷酷な娘であるという濡れ衣を着せられても、決して自分の節を曲げようとはしないし、芥川龍之介の『奉教人の死』では、ありうるはずのない濡れ衣を、ろおれんぞは自ら進んで着る。
濡れ衣というのはいったいどういうものなんだろう。
濡れ衣をかけられるのが恐ろしいのはいったいどうしてなのだろう。
それでも濡れ衣を晴らそうとしないのは、いったいどういう心理なのだろう。
ここでは法律的な冤罪とはいったん分けたところで、小説に描かれた「濡れ衣」を読みながら、「濡れ衣」について考えてみたい。
良かったらこれから数日間おつきあいください。
そこまではいかないが、より穏やかな(?)悪夢として、試験の夢であるとか、お芝居で舞台に立ったところが、せりふがわからないといった「これは困った」という状況に陥る種類の夢もある。これまた人によって決まったパターンというのがあるのではないだろうか。
わたしの二進も三進もいかない、いわゆる「キャッチ22」的状況の夢というのは、濡れ衣を着せられて、誰かから責められるのである。まるで身に覚えがないことなので、弁明にこれ努める。ところがだれもそれに耳を傾けてくれないのだ。ああ、困った、どうしたらいいだろう、というところで目が覚める。過去、濡れ衣を着せられたような事態に遭遇したわけではない。だが、どこかで濡れ衣を着せられることを恐れているのだろうか。近ごろはまったくといっていいほど見なくなったが、十代のころは頻繁に、どうしてだれもわかってくれない、と思って、はっと目を覚まし、ああ、夢だった、良かった、と思って気が付くと、握りしめた手にいっぱい汗をかいていた、ということがよくあった。
確かに「濡れ衣」は恐ろしい。『フランダースの犬』や『ごんぎつね』がかわいそうなのも、罪のないネロやごんが濡れ衣を着せられ、晴らすこともなく死んでいくところにあるのだろうし、『オセロ』では、デズデモーナはイアーゴーの悪意によって不実の濡れ衣を着せられ、まるで自分から進んで罠のなかに落ちていくようだ。一方、ミステリでは濡れ衣をかけられた主人公が、なんとかそれを晴らそうとする、という筋立ては定番中の定番だ。映画にもなった「逃亡者」では、妻殺しの濡れ衣を着せられたリチャード・キンブルは、警察から逃れながら、同時に自分の無実を晴らそうと、アメリカ中を移動する。
ここでは読者や視聴者は、濡れ衣を晴らそうとする主人公の側に立ち、最後に満天下に無実が証明されたところで一種のカタルシスを得る。
だが、濡れ衣をかけられても、それを晴らそうとしない人びともいる。『リア王』では、自分を愛しているという表明を聞きたい父の求めに応じないばかりに、冷酷な娘であるという濡れ衣を着せられても、決して自分の節を曲げようとはしないし、芥川龍之介の『奉教人の死』では、ありうるはずのない濡れ衣を、ろおれんぞは自ら進んで着る。
濡れ衣というのはいったいどういうものなんだろう。
濡れ衣をかけられるのが恐ろしいのはいったいどうしてなのだろう。
それでも濡れ衣を晴らそうとしないのは、いったいどういう心理なのだろう。
ここでは法律的な冤罪とはいったん分けたところで、小説に描かれた「濡れ衣」を読みながら、「濡れ衣」について考えてみたい。
良かったらこれから数日間おつきあいください。