陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『アンネの日記』とベルリンの壁

2008-06-04 23:20:17 | weblog
『アンネの日記』を図書館で借りて読んだのは、小学校二年のときだった。たちまち夢中になったが、おそらく当時引かれたのは「隠れ家」とか、日記に名前をつけて呼びかけるとか、そんなところだったのだろう。机の下にもぐって、そこを秘密の隠れ家に見立て、ナチスにつかまらなかった「もうひとつのアンネ・フランクのストーリー」を頭の中で繰りかえし考えていたような記憶がある。

学校では週に一時間だったか二時間か、フランス語の授業があって、その時間は黒い服に身を包んだ外国人のシスターが授業をしてくれた。一年で教わったフランス人のシスターが、背も低く、顔も手も何もかもが丸かったのにくらべ、二年になって教わったドイツ人のシスターは、背が高く、高い鼻は鷲鼻で、顔も体もごつごつと骨張った人だった。フランス人のシスターがほとんど日本語が話せなかったのに対し、この人は日本語が大変上手で、授業の合間にさまざまな話を教えてくれた。

その人は子供のとき東ベルリンから、弟と伯父さんと一緒に、トラックの荷台に隠れてベルリンの壁を越えたという話を聞いたのはそのときのことだ。ベルリンの壁や東ベルリンの街並みを写した白黒の粒子の粗い写真を授業のなかで見せてもらった。その先生にもらったドレスデンの街並みを描いた絵はがきは、四隅はすっかり丸くなり色も変色してしまっているが、いまでもわたしは持っている。

それでもその人がいったい何歳ぐらいだったのか、当時のわたしは考えてみたこともなかったので、亡命したのがいったい何年頃の話かわからない。荷台に隠れたことや、亡命に失敗したら殺される危険があったと聞いて、もしかしたらその人の話をアンネと重ね合わせて聞いていたのかもしれない。ともかく記憶にあるのはそうした断片だけで、どうしてその人と弟だけだったのか、ほかの家族はどうしたのか、西ベルリンに亡命したあと、どう生活していったのか、そのことと修道院に入ったことがどう関係があったのか、そういうことに関しては、話を聞いたのか、聞いていないのかすら記憶にない。

あるときシスターがいつものようにドイツの話をしてくれたあと、ドイツのことで聞きたいことがあれば、なんでも聞くように言ったのだった。だから授業が終わってすぐに教室の前に歩いていき、わたしは一番知りたかったことを聞いたのである。

「ヒトラーは、東ドイツにいたんですか、それとも西ドイツですか」

もちろんベルリンの壁が戦後にできたことも、ドイツが東と西に分断された国であることさえも、当時のわたしはよくわかっていなかったのだ。おそらくアンネの時代から「東ドイツ」という国と「西ドイツ」という国があったぐらいに思っていたのだろう。

それを聞いたシスターは、渋面を作って「ヒトラー」という言葉を発音した。ひどい人間である、という意思表示だったのだろう。そうして、しかめっつらのまま「ヒトラーは東にもいました、西にもいました」と教えてくれたのだった。わたしが覚えているのはそこまでで、ほかにいったい何を聞いたのか、まるで記憶にない。

だが、そのときの自分の質問の愚かさと、シスターのしかめっつらと、わたしの眼をじっと見た鉄縁の奥の灰色の眼は、それからあとも何度も思い出した。
わたしは自分がひどいことを聞いてしまったと、いつぐらいから思うようになったのだろう。

シスターはどんな気持ちでわたしの質問を聞いたのだろう。
日本人の子供であるわたしがそんな質問をしたことを、シスターは何と思ったのだろう。悪いことを聞いてしまったと、何ともいえない恥ずかしさと胸の痛みを思い返すたびに味わったのだった。

 ドイツ人であることは、いまだに愉快なことではない。どころなく、まだ治療法の確立していない遺伝病にかかっているような気がする。ときおり、ニューヨークの威勢のいいタクシー運転手に「お客さん、お国は?」などと訊かれると、つい冷たいぶっきらぼうな口調で「どうして」といってしまうことがある。まるで自分の国籍を明かすことは反逆行為だとでもいうような、あるいはそれがわたしに不利な材料として使われるかもしれないとでもいうような気がするのだ。歴史とは意地悪な仕置き人だ。暗闇に身を潜め、こっそりと忍びより、いきなり鞭をふるう。歴史は人びとにつきまとい、目に見えない傷跡を残してゆく。…
ナチの戦犯がつかまる。強制収容所で命を落とした勇敢なユダヤ人女性の感動的な手記が見つかる。乗馬ズボンに身を固めた卑劣な男たちが子どもを家畜運搬車に追いたてている写真が発表される……そんなとき、わたしは自分が告発されているような思いになる。そしてドイツを憎む。
(ザビーネ・ライヒェル『目に見えない傷跡
―お父さん、戦争のとき何をしたの?』亀井よし子訳 晶文社)

この本が出版されたのは1989年、筆者は1946年生まれの女性である。彼女は1975年、ドイツを捨てアメリカに移住する。移住したところから、逆にいやおうなく「祖国ドイツ」と向き合わざるを得なくなったのである。

 ナチ以前も、最中も、以降も、父は何よりもみずからの本性に従って行動した。彼があの時代に生まれたのは運命だ。それだけで父もまた犯罪人だったと決めつけることはできない。父があの戦争で何をしたのか、しなかったのか、わたしがそれを正確に知ることはけっしてないだろう。だから、わたしにとって父が責任ある行動をとったか否かを判断できる分野はひとつしかない。それは、父があの貴重な体験をかけがえのない教訓としてわが子に伝えることができたかどうかという点だ。父は、たとえばあのユダヤ人大虐殺のようないまわしいできごとを二度と起こしてはならないというメッセージを、わたしたちに伝えることができたのだろうか。わたしたち子どもの世代にはそうしたできごとが二度と起きないように努力する責任があると同時に、父の世代の罪を背負ってゆく義務があるのだということを、父は伝えることができたのだろうか。

ある人がある時代にある国に生まれたのは単なる偶然だ。ナチスが政権を執っていた時代にドイツに生まれたというだけで、その人が犯罪者だと決めつけることはできないのはもちろん、その人が戦争に協力したか、しなかったか、ということさえも、そんなに単純なことではない。その人の道徳的な行為や生き方を裁く資格がある人など、いるはずがない。

だが、偶然だから、免責されるのか。裁く人がいなければ、その人の責任は問われないのか。その国に生まれた「子ども」は、それが偶然でも「父の世代の罪を背負ってゆく義務がある」。

「祖国」というのは、たとえそこに生まれたのが偶然でも、その人について回る。国を離れても、ある日、思いがけないかたちでその「責任」を問われるのである。
まったく無自覚に亡命した過去を持つ人に責任をつきつけてしまったわたしも、自分の「責任」ということを考えてみなければならないのだろう。

 責任は、われわれが自由である、すなわち自己が原因であるとした時にのみ存在します。現実にはそんなことはありえない。私が何らかの意図をもって行動しても、現実にはまるでちがった結果に終わる場合がある。しかし、その時でも、あたかも自分が原因であるかのように考える時に責任が生じるのです。では、どのように責任をとるのか。それは、謝罪や服役、自殺というようなことだけではないと思います。

 ……もう一つの望ましい責任の取り方は、この間の過程を残らず考察することです。いかにしてそうなったのかを、徹底的に検証し認識すること。それは自己弁護とは別のものです。
(柄谷行人『倫理21』平凡社)