陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フランク・オコナー「わたしのエディプス・コンプレックス」

2008-06-27 23:15:07 | 翻訳
今日からアイルランドの作家、フランク・オコナーの「わたしのエディプス・コンプレックス」という短編を訳していきます。フランク・オコナーは日本ではあまり有名ではないのですが、なかなか味わい深い短編を書いています。アメリカの作家のフランシス・オコナーとは別人です。
だいたい六日間くらいの予定です。
五歳の男の子の経験する“エディプス・コンプレックス”。どんなものなんでしょうか。
原文はhttp://www.cyc-net.org/cyc-online/cycol-0201-oconnor.htmlで読むことができます。

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My Oedipus Complex(「わたしのエディプス・コンプレックス」)

by フランク・オコナー


 戦争中(ここでいうのは第一次世界大戦のことだ)、父はずっと軍隊にいたので、五歳になるまでわたしが父を目にする機会はそう多くはなかったし、そんなとき、相手をいやだと思うようなこともなかった。ふと目を覚ますと、カーキ色の軍服に身を包んだ大きな人影が、ろうそくの光のなかで、わたしをじっと見下ろしていることがあった。早朝、表のドアがばたんと閉まって、鋲のついたブーツが小道の砂利を踏んで遠ざかっていくことも。それが父の登場と退場だった。まるでサンタクロースのように、来るときも帰るときも謎に包まれていたのだ。

 父がやってきたときは、うれしかったくらいである。明け方、大きなベッドによじのぼって、母と彼のあいだに体をもぐりこませるのはずいぶん窮屈だったが。彼は煙草を吸ったから、どこか懐かしい、かびくさいにおいがしたし、しかもひげを剃る――これはびっくりするほどおもしろい作業だった。現れるたびに、父は記念品という痕跡を残していった。戦車模型やグルカ・ナイフ、これは柄がたばねた薬莢でできていた、それからドイツ軍のヘルメット、帽章やボタン磨き用の棒などの種類もさまざまな軍装備品、どれも細長い箱に大切にしまい込まれて、洋服ダンスの上に鎮座した。いつか役に立つ日も来るだろうとばかりに。父は多少カササギのようなところがあったのかもしれない。どんなものにも使い道があるはずだと考えるカササギである。父が戻っていくと、わたしはさっそく椅子を出して、その宝物をかきまわして探索したが、ついぞ母にとがめられたことがなかった。どうやら母は、そうしたものを父ほどには高く評価していなかったらしい。

 わたしの人生においては、戦争中こそがもっとも平和な時期だったのである。わたしの屋根裏部屋の窓は南東に面していた。母はカーテンをかけてくれたが、あまり役には立っていなかった。毎朝、日の出とともに目が覚める。昨夜までの心の重荷は氷解し、まるでわたし自身が太陽になったように光り輝き、喜びが内からあふれてくるのだ。そのころほど人生が単純で、可能性に満ち満ちていたことはない。上掛けの先から両足を出し――わたしは自分の足にミセス・レフトとミセス・ライトと名前をつけていた――ミセス・レフトとミセス・ライトにその日の問題を討議させる。というか、少なくともミセス・ライトはそう動いてくれた。彼女はおしゃべりだったが、ミセス・レフトに関しては、同じように動かすことができなかったので、多くの場合はうなずいて賛意を示すだけでがまんすることにした。

 ふたりがおもに議論したのは、今日一日、お母さんとあの子は何をしたらいいんでしょうねえ、とか、クリスマスにはサンタクロースはあの子にいったい何を持ってきてあげたらいいんでしょう、あるいは、家のなかを明るくするためにはどうしたものでしょうか、といったことだった。そのほかにも赤ん坊にまつわる些末な議論もあった。母とわたしのあいだでは、この問題に関して意見の一致を見ることがなかったのである。この界隈で赤ん坊がいないのは我が家だけだったのだが、母は、お父さんが帰るまでとてもそんな余裕はないわ、というのだった。赤ちゃんって十七ポンド六ペンスもするんですもの、と。

 これを聞けば、母がどれほど世間知らずかよくわかった。通りの先にあるジーニー家には赤ん坊がいたが、彼らに十七ポンド六ペンスが払えるはずはないことなど火を見るより明らかだったのだから。安い赤ん坊だっているにちがいないのだが、母ときたらずいぶん上等な赤ん坊をほしがっているのだ。わたしはあまり選り好みするのも考え物だと思っていた。我が家だってジーニー家の赤ん坊で十分ではないか。

 その日の計画が決まったところで、わたしは起き出し、椅子を持っていって屋根裏の窓から頭を出した。裏の長屋の正面の庭が見えた。その先に目をやると、深い谷をはさんだ向こう側の丘の麓には、丈の高い赤レンガの家がひな壇のように並んでいる。渓谷のこちら側は朝日を浴びているのに、そこはまだ影にすっぽりと覆われていた。長い奇妙な影が、景色を見慣れないものに、動きのない、まるで絵に描いたもののように見せていた。

 そのあとは母の部屋に入っていき、大きなベッドにもぐりこむのだ。目を覚ました母に自分の計画を教える。それまで気がつかずにいたのだが、寝間着姿のわたしの体は、すっかりこごえてしまっていた。だが、話をしているあいだに、凍りついた体も最後のひとかけらまで溶けていき、やがて母のかたわらで眠り込む。ふたたび目を覚ましたときには、階下の台所で母が朝食の支度をしている音が聞こえてくるのだった。

 朝食をすませると、わたしたちは町に出かけた。聖オーガスティン教会のミサに参列し、父のために祈りを捧げ、それから買い物に行く。午後、天気が良ければ、郊外へ散歩に出たり、修道院にいる母の親友、マザー・セント・ドミニクを訪問したりした。母は修道院の人たちみんなに、父のための祈りを捧げてもらっていたし、わたしも毎晩、ベッドに入る前に、神様に、どうか父が無事にもどりますように、とお祈りしていた。実際のところ、何のためにそんなお祈りをしていたのか、ちっともその理由を理解していなかったのだが。



(この項つづく)


(※コメントくださったきの。さん、小狸工房さん、どうもありがとうございます。せっかくコメントくださったのに、レスが遅くなってごめんなさい。明日の朝、時間をとって書きますから)