最終回
第五章
何日もの間、ハットン事件はあらゆる新聞の第一面を飾った。ジョージ・スミスが七人目の花嫁を風呂で溺死させて、一時的に第一次大戦のニュースをさらってからこちら、これほど衆目を集めた殺人事件の公判はたえてなかった。世間の想像力は、この殺人が、犯行から数ヶ月もたって明るみに出たことで、いやがうえにもかきたてられた。人々は、神が人に対してなさることに、決して誤りはないということが、この事件ほど明らかになったのもめずらしい、と感じたのである。邪な男が自分の妻を殺すという、邪悪な感情に突き動かされた。何ヶ月も罪を犯したまま生き長らえ、安全と思いこんでいた――そうして結局、自ら堀った墓穴に落ちていったのだ。悪事はかならず露見する、このことわざどおりの事件である。新聞の読者は、神の御手のことごとくを追うことができる席を与えられた。近隣一帯には漠然とした、だが執拗な噂が広まっていく。警察はついに動き出した。姿態発掘命令、死後解剖調査、検屍、専門医の証言、検屍陪審の答申、公判、宣告。神の御業は瞭然と、あますところなく、教訓をこめてなされたのである。あたかもメロドラマの一場面のように。新聞各紙がこの事件を一貫して知的な糧として扱っていたのも無理はなかった。
審問で証言するためにイタリアから呼び戻されたミスター・ハットンが初めのうち抱いていたのは、憤懣やるかたない思いだった。警察がこんな愚かしい、悪意に充ちたゴシップを取り上げるなどとは、あきれ果てた、恥ずべきことではないか。審問が終わったら警察本部長に対する悪意訴追を起こしてやろう。スペンスは名誉毀損で訴える。
審問が開かれた。驚愕すべき証拠がつぎつぎと現れていった。検屍官が死体を調べた結果、砒素の痕跡が発見された。かつてミセス・ハットンであった人物は、砒素中毒によって死亡したとの意見が提出された。
砒素中毒……エミリーが砒素の中毒で死んだんだって? 続いて、ミスター・ハットンは、自宅の温室に大量毒殺が可能なほどの砒素を含有した殺虫剤があったと聞かされて、愕然とした。
ことここにいたって突然に彼は事態を把握したのである。事件が極めて自分に不利であることを。事件がある種の化け物じみた熱帯植物のように伸びに伸びていくのを、ただ魅入られたように見つめるだけだった。その木は彼を取りこみ、すっぽりと覆ってしまった。こんがらがった森の中で、道を失ったのである。
毒が混入されたのはいつなのか? 専門家による見解は死亡前、八ないし九時間に嚥下されたことで一致した。それは昼食時と考えてよろしいか? はい。昼食時と考えてかまわないと思います。メイドのクララが呼ばれた。奥様はわたしにお薬を取ってくるよう、お申しつけになりました。でも、旦那様が代わりに行ってやろう、とおっしゃって、お一人で行かれました。ミス・スペンス――ああ、嵐の記憶、食い入るような白い顔! ありとあらゆるおぞましいことども――ミス・スペンスはクララの供述を追認し、さらに、ミスター・ハットンはお薬の瓶ではなく、あらかじめワイングラスについであるのを持ってきました、とつけ加えた。
ミスター・ハットンの憤怒は霧散してしまっていた。動転し、怯えた。真剣に受けとるにはあまりに夢のようだが、しかし、この悪夢は現実だった――実際に、起こりつつあるのだ。
マクナブは、ふたりがキスをするのを何度となく目撃していた。奥様がお亡くなりになった日も、おふたりをお乗せいたしました。フロントガラスに映るのがどうしてもときどきは眼の隅に入ってきますので。
審問は散会した。その夜、ドリスは頭痛がひどく横になっていた。食後部屋に入っていったミスター・ハットンは、ドリスが泣いているのに気がついた。
「どうした?」ベッドの端に腰を下ろして、ドリスの髪をなでてやった。長い間、返事はなかったが、彼は髪を機械的に、半ば無意識のまま、なで続けた。そうしながらときどき、身を屈めて彼女の剥きだしの肩にキスをした。だが、考えなければならない自分の問題を抱えていた。いったい何が起こったのか? 馬鹿げたゴシップが、どうして本当になったのだろう? エミリーが砒素中毒で死んだ。そんな馬鹿な。あり得ない。ものごとが秩序を失い、彼はある無責任なもののなすがままになっていた。いったい何が起きたのか、そうして何が起ころうとしているのか。考えていたところに邪魔が入った。
「あたしがいけないのね――あたしがいけなかったんだわ」ドリスは急に嗚咽をもらした。「あなたを愛しちゃいけなかった。あなたに愛してもらっちゃいけなかったんだわ。どうしてあたしなんかが生まれてきたのかしら」
ミスター・ハットンは返事をせず、ベッドに横になっている、目も当てられないほど惨めな姿を黙って見おろしていた。
「あなたにもしものことがあったら、あたしも生きていないから」
彼女は半身を起こして、手を一杯にのばして、しばらく彼にふれていた。一種、荒々しいまなざし、もう二度と会えないとでもいうようなまなざしで彼を見た。
「愛してる。愛してる。愛してる」彼女は力のこもらない、なすがままの彼の体を引き寄せ、抱きしめ、自分の体を押しつけた。「あなたがそんなにあたしのこと、愛してくれてるだなんて知らなかった、クマちゃん。だけど、なんでそんなことしたの? そんなこと、しちゃったの?」
ミスター・ハットンは腕をふりほどいて立ちあがった。彼の顔はまっ赤になっていた。
「きみはぼくが妻を殺したと思っているようだが」彼は言った。「まったくとんでもなくおぞましいよ。ぼくをいったい何だと思ってるんだ。映画のヒーローか?」徐々に歯止めがきかなくなっていく。その日一日の激しい苛立ちも、恐怖も、とまどいも、彼女に向けられた激しい怒りに変わっていった。「どれもこれもうんざりするほど馬鹿げたことばかりだ。教養のある男のものの考え方なぞ、まるで理解できないんだろう? おれが人を殺して歩くような人間に見えるか? おれが気でもちがったほどにきみに惚れている、どんな馬鹿げたことでもしでかせるほど、惚れてる、とでも思ってるのか。女どもときたら、男は常軌を逸するほどにだれかを愛したりはしないんだと、いったいいつになったら気がつくんだ? 男が望むのは静かな生活で、それをおまえたちは決して認めようとしないんだ。いったいどの悪魔にそそのかされて、きみなんかと結婚なんかする羽目になったんだろう。実にくだらない、馬鹿げた、手のこんだ悪ふざけだ。そのうえ、おまえまでおれが人殺しだと言い出す。もう我慢できない」
ミスター・ハットンは足音も荒くドアへ向かった。ひどいことを言ったことは気がついていた。急いで取り消さなくてはならないほどひどいことだ。だが、その気にはなれない。ドアを後ろ手に閉めた。
「クマちゃん!」取っ手を回す。掛けがねがかちりという音がした。「クマちゃん!」閉じたドアの向こうから聞こえてくる声は悲痛だった。戻った方がいいだろうか。戻らなければならない。取っ手にふれたが、そのまま手を引っこめると、足早にそこを離れた。階段を半分ほど下りたところで立ち止まった。何か馬鹿なまねをするかもしれない――窓から身を投げるとか、見当もつかないようなことを。聞き耳を立てた。何の物音もしない。だが彼には、つま先立ちで横切り、窓枠を一番上まで上げて、冷たい夜気のなかに身を乗り出す彼女の姿を、ありありと思い描くことができた。小雨が降っている。窓の下には小石を敷き詰めたテラスがある。どれほどの高さだろう。8メートルか9メートルというところだろうか。以前、ピカデリーを歩いていたとき、リッツホテルの三階の窓から犬が飛び出したことがあった。犬が落ちていくのを見たし、舗道にぶつかる音を聞いた。戻るべきだろうか。そんなことができるもんか。あんなやつ、うんざりだ。
彼は長い間、書斎に腰を下ろしていた。何が起こったのか。何が起こっているのか。頭の中で繰りかえしそう問うてみたが、答えが見つからない。この悪夢が怖ろしい結果へと結びついていったとしたら。死が待ち受けている。彼の目に涙があふれた。どうしようもなく生きたい、と思った。「生きているだけでいいの」かわいそうなエミリーもそう願っていたではないか。彼は思いだしていた。「生きてさえいられればいいのよ」この驚嘆するような世界には、未だ行ったことのない場所があまりにも多く、未だ知らない不思議で愉快な人々は大勢おり、まだ会ったこともない美しい女もいくらでもいるのに。トスカナの道では大きな白い牡牛たちが荷馬車を引いているだろう。糸杉は柱のように青い空に向かって垂直に伸びていることだろう。だが、おれはもうそこで見ることはかなわないのだ。南部の甘いワイン――キリストの涙とユダの血――あるいはほかの酒を飲むのも、他の人々であって、彼ではない。ロンドン図書館の本棚の間の薄暗く狭い通路を、文学の名作につもった埃のにおいを嗅ぎ、奇妙なタイトルをのぞきこみ、未だ知らない名前を見つけ、知の圧倒的な領域の端くれを探索しながら歩きまわるのも他の人々だ。そのとき彼は、地中の穴の底に横たわる。だが、なぜ、なぜなんだ? 混乱した彼は、なにか途方もない裁きが下されているように感じた。これまで、彼は気まぐれで、愚かで、無責任だった。今度は運命が彼に対して気まぐれで、無責任の振る舞いを見せている。因果応報、神は結局のところ存在する。
彼は祈ることができれば、と思った。四十年前なら、毎晩ベッドの脇にひざまずいていたのだ。子供時代の祈りの言葉が、閉ざされた記憶の小部屋から、何の苦労もなくすらすらと出てきた。「神さまどうかお父さんとお母さんに祝福を。トムとシシーと赤ん坊にも。家庭教師の先生と、乳母にも。それに、ぼくが愛するすべての人に祝福を。どうかぼくを良い子にしてください。アーメン」みんな死んでしまった――シシーを除けば。
彼の気持ちが柔らかくなり溶けていく。大いなるやすらぎが、彼の心に流れこんだ。階段を上がっていって、ドリスの許しを乞うのだ。彼はドリスがベッドの足側にあるソファに倒れているのを見つけた。傍らの床には「内服すべからず」と書いてある塗布薬の青い瓶が置いてある。それを半分近く飲んでしまっているようだった。
「あなたはあたしのことなんて愛してなかった」目を開け、かがみこんでいる彼を見た彼女が言ったのは、それだけだった。
ドクター・リバードは容態が深刻なものになるまえにやってくることができた。「もうこんなことをしちゃいけませんよ」ミスター・ハットンが部屋の外に出ているあいだにそう言った。
「なんでそうしちゃいけないの」逆らうように彼女は聞いた。
ドクター・リバードは大きな、悲しそうな目でじっと見た。「そうしちゃいけない理由はないかもしれない」医者は言った。「ただ、あなたとあなたの赤ちゃん以外にはね。赤ちゃんにとってはずいぶん運が悪い話じゃありませんか。あなたが生きていたくないからといって、この世に生まれてこさせないなんて」
ドリスはしばらく黙っていたが「わかったわ」とささやくように言った。「あたし、もうしない」
ミスター・ハットンはその夜、ずっと彼女のベッドの傍らに腰を下ろしていた。いまでは自分がほんとうに人殺しであるように思えていた。しばらくは、自分がこのかわいそうな子供を愛しているのだと思いこもうとしていた。椅子でまどろんだために、目覚めたときには体がこわばり、冷え切って、あらゆる感情が枯渇したように感じた。もはや疲れ果て苦しむ一個の死骸以外の何ものでもなかった。六時に着換え、ベッドに入って数時間まどろんだ。その日の午後、検屍陪審は「謀殺」という答申を下し、ミスター・ハットンは公判に付せられることが決まった。
第六章
ミス・スペンスはひどく具合が悪かった。公の場、証人席に、大変な思いをして出たあとは、すっかり衰弱したように感じられた。夜は眠れず、神経性の消化不良に苦しんだ。ドクター・リバードが一日おきに往診した。彼女は医者にしゃべりづめにしゃべった。ハットン事件のことばかりだった。……いつも彼女は道徳的な怒りに燃えていた。この家に人殺しがいたなんて、考えただけでぞっとしませんこと? 人間の性質をそんなに長いこと誤解していたなんて、ずいぶん不思議じゃありません?(でも、わたし、ほんとうは最初から薄々感づいていたんですのよ)おまけにあの人が駆け落ちした女、下層の出の、売春婦とどれだけもちがわない女。あの二番目のミセス・ハットンにもうじき赤ん坊――有罪宣告を受けて、死刑を執行されたあとになって、赤ん坊が生まれるなんて、むかむかするほど汚らわしい。とんでもない、醜悪なことじゃございません? ドクター・リバードは穏やかに、曖昧に返事をし、鎮静剤を処方した。
ある朝のこと、医者は彼女がいつもの長広舌を振るっている最中に、口を挟んだ。「ところで」という彼の声は柔らかく、もの悲しそうだった。「ミセス・ハットンに毒を盛ったのは、ほんとうはあなたですね」
ミス・スペンスは二、三秒間、大きな目で医者の顔をじっと見つめてから、静かに答えた。「ええ」それから泣き始めた。
「コーヒーに入れたんですね?」
彼女はうなずいたように見えた。ドクター・リバードは万年筆を取りだすと、端正で几帳面な書体で、睡眠薬の処方箋を書いた。
(後日手を入れてサイトにアップしますのでお楽しみに)
第五章
何日もの間、ハットン事件はあらゆる新聞の第一面を飾った。ジョージ・スミスが七人目の花嫁を風呂で溺死させて、一時的に第一次大戦のニュースをさらってからこちら、これほど衆目を集めた殺人事件の公判はたえてなかった。世間の想像力は、この殺人が、犯行から数ヶ月もたって明るみに出たことで、いやがうえにもかきたてられた。人々は、神が人に対してなさることに、決して誤りはないということが、この事件ほど明らかになったのもめずらしい、と感じたのである。邪な男が自分の妻を殺すという、邪悪な感情に突き動かされた。何ヶ月も罪を犯したまま生き長らえ、安全と思いこんでいた――そうして結局、自ら堀った墓穴に落ちていったのだ。悪事はかならず露見する、このことわざどおりの事件である。新聞の読者は、神の御手のことごとくを追うことができる席を与えられた。近隣一帯には漠然とした、だが執拗な噂が広まっていく。警察はついに動き出した。姿態発掘命令、死後解剖調査、検屍、専門医の証言、検屍陪審の答申、公判、宣告。神の御業は瞭然と、あますところなく、教訓をこめてなされたのである。あたかもメロドラマの一場面のように。新聞各紙がこの事件を一貫して知的な糧として扱っていたのも無理はなかった。
審問で証言するためにイタリアから呼び戻されたミスター・ハットンが初めのうち抱いていたのは、憤懣やるかたない思いだった。警察がこんな愚かしい、悪意に充ちたゴシップを取り上げるなどとは、あきれ果てた、恥ずべきことではないか。審問が終わったら警察本部長に対する悪意訴追を起こしてやろう。スペンスは名誉毀損で訴える。
審問が開かれた。驚愕すべき証拠がつぎつぎと現れていった。検屍官が死体を調べた結果、砒素の痕跡が発見された。かつてミセス・ハットンであった人物は、砒素中毒によって死亡したとの意見が提出された。
砒素中毒……エミリーが砒素の中毒で死んだんだって? 続いて、ミスター・ハットンは、自宅の温室に大量毒殺が可能なほどの砒素を含有した殺虫剤があったと聞かされて、愕然とした。
ことここにいたって突然に彼は事態を把握したのである。事件が極めて自分に不利であることを。事件がある種の化け物じみた熱帯植物のように伸びに伸びていくのを、ただ魅入られたように見つめるだけだった。その木は彼を取りこみ、すっぽりと覆ってしまった。こんがらがった森の中で、道を失ったのである。
毒が混入されたのはいつなのか? 専門家による見解は死亡前、八ないし九時間に嚥下されたことで一致した。それは昼食時と考えてよろしいか? はい。昼食時と考えてかまわないと思います。メイドのクララが呼ばれた。奥様はわたしにお薬を取ってくるよう、お申しつけになりました。でも、旦那様が代わりに行ってやろう、とおっしゃって、お一人で行かれました。ミス・スペンス――ああ、嵐の記憶、食い入るような白い顔! ありとあらゆるおぞましいことども――ミス・スペンスはクララの供述を追認し、さらに、ミスター・ハットンはお薬の瓶ではなく、あらかじめワイングラスについであるのを持ってきました、とつけ加えた。
ミスター・ハットンの憤怒は霧散してしまっていた。動転し、怯えた。真剣に受けとるにはあまりに夢のようだが、しかし、この悪夢は現実だった――実際に、起こりつつあるのだ。
マクナブは、ふたりがキスをするのを何度となく目撃していた。奥様がお亡くなりになった日も、おふたりをお乗せいたしました。フロントガラスに映るのがどうしてもときどきは眼の隅に入ってきますので。
審問は散会した。その夜、ドリスは頭痛がひどく横になっていた。食後部屋に入っていったミスター・ハットンは、ドリスが泣いているのに気がついた。
「どうした?」ベッドの端に腰を下ろして、ドリスの髪をなでてやった。長い間、返事はなかったが、彼は髪を機械的に、半ば無意識のまま、なで続けた。そうしながらときどき、身を屈めて彼女の剥きだしの肩にキスをした。だが、考えなければならない自分の問題を抱えていた。いったい何が起こったのか? 馬鹿げたゴシップが、どうして本当になったのだろう? エミリーが砒素中毒で死んだ。そんな馬鹿な。あり得ない。ものごとが秩序を失い、彼はある無責任なもののなすがままになっていた。いったい何が起きたのか、そうして何が起ころうとしているのか。考えていたところに邪魔が入った。
「あたしがいけないのね――あたしがいけなかったんだわ」ドリスは急に嗚咽をもらした。「あなたを愛しちゃいけなかった。あなたに愛してもらっちゃいけなかったんだわ。どうしてあたしなんかが生まれてきたのかしら」
ミスター・ハットンは返事をせず、ベッドに横になっている、目も当てられないほど惨めな姿を黙って見おろしていた。
「あなたにもしものことがあったら、あたしも生きていないから」
彼女は半身を起こして、手を一杯にのばして、しばらく彼にふれていた。一種、荒々しいまなざし、もう二度と会えないとでもいうようなまなざしで彼を見た。
「愛してる。愛してる。愛してる」彼女は力のこもらない、なすがままの彼の体を引き寄せ、抱きしめ、自分の体を押しつけた。「あなたがそんなにあたしのこと、愛してくれてるだなんて知らなかった、クマちゃん。だけど、なんでそんなことしたの? そんなこと、しちゃったの?」
ミスター・ハットンは腕をふりほどいて立ちあがった。彼の顔はまっ赤になっていた。
「きみはぼくが妻を殺したと思っているようだが」彼は言った。「まったくとんでもなくおぞましいよ。ぼくをいったい何だと思ってるんだ。映画のヒーローか?」徐々に歯止めがきかなくなっていく。その日一日の激しい苛立ちも、恐怖も、とまどいも、彼女に向けられた激しい怒りに変わっていった。「どれもこれもうんざりするほど馬鹿げたことばかりだ。教養のある男のものの考え方なぞ、まるで理解できないんだろう? おれが人を殺して歩くような人間に見えるか? おれが気でもちがったほどにきみに惚れている、どんな馬鹿げたことでもしでかせるほど、惚れてる、とでも思ってるのか。女どもときたら、男は常軌を逸するほどにだれかを愛したりはしないんだと、いったいいつになったら気がつくんだ? 男が望むのは静かな生活で、それをおまえたちは決して認めようとしないんだ。いったいどの悪魔にそそのかされて、きみなんかと結婚なんかする羽目になったんだろう。実にくだらない、馬鹿げた、手のこんだ悪ふざけだ。そのうえ、おまえまでおれが人殺しだと言い出す。もう我慢できない」
ミスター・ハットンは足音も荒くドアへ向かった。ひどいことを言ったことは気がついていた。急いで取り消さなくてはならないほどひどいことだ。だが、その気にはなれない。ドアを後ろ手に閉めた。
「クマちゃん!」取っ手を回す。掛けがねがかちりという音がした。「クマちゃん!」閉じたドアの向こうから聞こえてくる声は悲痛だった。戻った方がいいだろうか。戻らなければならない。取っ手にふれたが、そのまま手を引っこめると、足早にそこを離れた。階段を半分ほど下りたところで立ち止まった。何か馬鹿なまねをするかもしれない――窓から身を投げるとか、見当もつかないようなことを。聞き耳を立てた。何の物音もしない。だが彼には、つま先立ちで横切り、窓枠を一番上まで上げて、冷たい夜気のなかに身を乗り出す彼女の姿を、ありありと思い描くことができた。小雨が降っている。窓の下には小石を敷き詰めたテラスがある。どれほどの高さだろう。8メートルか9メートルというところだろうか。以前、ピカデリーを歩いていたとき、リッツホテルの三階の窓から犬が飛び出したことがあった。犬が落ちていくのを見たし、舗道にぶつかる音を聞いた。戻るべきだろうか。そんなことができるもんか。あんなやつ、うんざりだ。
彼は長い間、書斎に腰を下ろしていた。何が起こったのか。何が起こっているのか。頭の中で繰りかえしそう問うてみたが、答えが見つからない。この悪夢が怖ろしい結果へと結びついていったとしたら。死が待ち受けている。彼の目に涙があふれた。どうしようもなく生きたい、と思った。「生きているだけでいいの」かわいそうなエミリーもそう願っていたではないか。彼は思いだしていた。「生きてさえいられればいいのよ」この驚嘆するような世界には、未だ行ったことのない場所があまりにも多く、未だ知らない不思議で愉快な人々は大勢おり、まだ会ったこともない美しい女もいくらでもいるのに。トスカナの道では大きな白い牡牛たちが荷馬車を引いているだろう。糸杉は柱のように青い空に向かって垂直に伸びていることだろう。だが、おれはもうそこで見ることはかなわないのだ。南部の甘いワイン――キリストの涙とユダの血――あるいはほかの酒を飲むのも、他の人々であって、彼ではない。ロンドン図書館の本棚の間の薄暗く狭い通路を、文学の名作につもった埃のにおいを嗅ぎ、奇妙なタイトルをのぞきこみ、未だ知らない名前を見つけ、知の圧倒的な領域の端くれを探索しながら歩きまわるのも他の人々だ。そのとき彼は、地中の穴の底に横たわる。だが、なぜ、なぜなんだ? 混乱した彼は、なにか途方もない裁きが下されているように感じた。これまで、彼は気まぐれで、愚かで、無責任だった。今度は運命が彼に対して気まぐれで、無責任の振る舞いを見せている。因果応報、神は結局のところ存在する。
彼は祈ることができれば、と思った。四十年前なら、毎晩ベッドの脇にひざまずいていたのだ。子供時代の祈りの言葉が、閉ざされた記憶の小部屋から、何の苦労もなくすらすらと出てきた。「神さまどうかお父さんとお母さんに祝福を。トムとシシーと赤ん坊にも。家庭教師の先生と、乳母にも。それに、ぼくが愛するすべての人に祝福を。どうかぼくを良い子にしてください。アーメン」みんな死んでしまった――シシーを除けば。
彼の気持ちが柔らかくなり溶けていく。大いなるやすらぎが、彼の心に流れこんだ。階段を上がっていって、ドリスの許しを乞うのだ。彼はドリスがベッドの足側にあるソファに倒れているのを見つけた。傍らの床には「内服すべからず」と書いてある塗布薬の青い瓶が置いてある。それを半分近く飲んでしまっているようだった。
「あなたはあたしのことなんて愛してなかった」目を開け、かがみこんでいる彼を見た彼女が言ったのは、それだけだった。
ドクター・リバードは容態が深刻なものになるまえにやってくることができた。「もうこんなことをしちゃいけませんよ」ミスター・ハットンが部屋の外に出ているあいだにそう言った。
「なんでそうしちゃいけないの」逆らうように彼女は聞いた。
ドクター・リバードは大きな、悲しそうな目でじっと見た。「そうしちゃいけない理由はないかもしれない」医者は言った。「ただ、あなたとあなたの赤ちゃん以外にはね。赤ちゃんにとってはずいぶん運が悪い話じゃありませんか。あなたが生きていたくないからといって、この世に生まれてこさせないなんて」
ドリスはしばらく黙っていたが「わかったわ」とささやくように言った。「あたし、もうしない」
ミスター・ハットンはその夜、ずっと彼女のベッドの傍らに腰を下ろしていた。いまでは自分がほんとうに人殺しであるように思えていた。しばらくは、自分がこのかわいそうな子供を愛しているのだと思いこもうとしていた。椅子でまどろんだために、目覚めたときには体がこわばり、冷え切って、あらゆる感情が枯渇したように感じた。もはや疲れ果て苦しむ一個の死骸以外の何ものでもなかった。六時に着換え、ベッドに入って数時間まどろんだ。その日の午後、検屍陪審は「謀殺」という答申を下し、ミスター・ハットンは公判に付せられることが決まった。
第六章
ミス・スペンスはひどく具合が悪かった。公の場、証人席に、大変な思いをして出たあとは、すっかり衰弱したように感じられた。夜は眠れず、神経性の消化不良に苦しんだ。ドクター・リバードが一日おきに往診した。彼女は医者にしゃべりづめにしゃべった。ハットン事件のことばかりだった。……いつも彼女は道徳的な怒りに燃えていた。この家に人殺しがいたなんて、考えただけでぞっとしませんこと? 人間の性質をそんなに長いこと誤解していたなんて、ずいぶん不思議じゃありません?(でも、わたし、ほんとうは最初から薄々感づいていたんですのよ)おまけにあの人が駆け落ちした女、下層の出の、売春婦とどれだけもちがわない女。あの二番目のミセス・ハットンにもうじき赤ん坊――有罪宣告を受けて、死刑を執行されたあとになって、赤ん坊が生まれるなんて、むかむかするほど汚らわしい。とんでもない、醜悪なことじゃございません? ドクター・リバードは穏やかに、曖昧に返事をし、鎮静剤を処方した。
ある朝のこと、医者は彼女がいつもの長広舌を振るっている最中に、口を挟んだ。「ところで」という彼の声は柔らかく、もの悲しそうだった。「ミセス・ハットンに毒を盛ったのは、ほんとうはあなたですね」
ミス・スペンスは二、三秒間、大きな目で医者の顔をじっと見つめてから、静かに答えた。「ええ」それから泣き始めた。
「コーヒーに入れたんですね?」
彼女はうなずいたように見えた。ドクター・リバードは万年筆を取りだすと、端正で几帳面な書体で、睡眠薬の処方箋を書いた。
The End
(後日手を入れてサイトにアップしますのでお楽しみに)