陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』最終回

2007-08-17 23:41:58 | 翻訳
最終回

第五章

 何日もの間、ハットン事件はあらゆる新聞の第一面を飾った。ジョージ・スミスが七人目の花嫁を風呂で溺死させて、一時的に第一次大戦のニュースをさらってからこちら、これほど衆目を集めた殺人事件の公判はたえてなかった。世間の想像力は、この殺人が、犯行から数ヶ月もたって明るみに出たことで、いやがうえにもかきたてられた。人々は、神が人に対してなさることに、決して誤りはないということが、この事件ほど明らかになったのもめずらしい、と感じたのである。邪な男が自分の妻を殺すという、邪悪な感情に突き動かされた。何ヶ月も罪を犯したまま生き長らえ、安全と思いこんでいた――そうして結局、自ら堀った墓穴に落ちていったのだ。悪事はかならず露見する、このことわざどおりの事件である。新聞の読者は、神の御手のことごとくを追うことができる席を与えられた。近隣一帯には漠然とした、だが執拗な噂が広まっていく。警察はついに動き出した。姿態発掘命令、死後解剖調査、検屍、専門医の証言、検屍陪審の答申、公判、宣告。神の御業は瞭然と、あますところなく、教訓をこめてなされたのである。あたかもメロドラマの一場面のように。新聞各紙がこの事件を一貫して知的な糧として扱っていたのも無理はなかった。

 審問で証言するためにイタリアから呼び戻されたミスター・ハットンが初めのうち抱いていたのは、憤懣やるかたない思いだった。警察がこんな愚かしい、悪意に充ちたゴシップを取り上げるなどとは、あきれ果てた、恥ずべきことではないか。審問が終わったら警察本部長に対する悪意訴追を起こしてやろう。スペンスは名誉毀損で訴える。

 審問が開かれた。驚愕すべき証拠がつぎつぎと現れていった。検屍官が死体を調べた結果、砒素の痕跡が発見された。かつてミセス・ハットンであった人物は、砒素中毒によって死亡したとの意見が提出された。

 砒素中毒……エミリーが砒素の中毒で死んだんだって? 続いて、ミスター・ハットンは、自宅の温室に大量毒殺が可能なほどの砒素を含有した殺虫剤があったと聞かされて、愕然とした。

 ことここにいたって突然に彼は事態を把握したのである。事件が極めて自分に不利であることを。事件がある種の化け物じみた熱帯植物のように伸びに伸びていくのを、ただ魅入られたように見つめるだけだった。その木は彼を取りこみ、すっぽりと覆ってしまった。こんがらがった森の中で、道を失ったのである。

 毒が混入されたのはいつなのか? 専門家による見解は死亡前、八ないし九時間に嚥下されたことで一致した。それは昼食時と考えてよろしいか? はい。昼食時と考えてかまわないと思います。メイドのクララが呼ばれた。奥様はわたしにお薬を取ってくるよう、お申しつけになりました。でも、旦那様が代わりに行ってやろう、とおっしゃって、お一人で行かれました。ミス・スペンス――ああ、嵐の記憶、食い入るような白い顔! ありとあらゆるおぞましいことども――ミス・スペンスはクララの供述を追認し、さらに、ミスター・ハットンはお薬の瓶ではなく、あらかじめワイングラスについであるのを持ってきました、とつけ加えた。

 ミスター・ハットンの憤怒は霧散してしまっていた。動転し、怯えた。真剣に受けとるにはあまりに夢のようだが、しかし、この悪夢は現実だった――実際に、起こりつつあるのだ。

 マクナブは、ふたりがキスをするのを何度となく目撃していた。奥様がお亡くなりになった日も、おふたりをお乗せいたしました。フロントガラスに映るのがどうしてもときどきは眼の隅に入ってきますので。

 審問は散会した。その夜、ドリスは頭痛がひどく横になっていた。食後部屋に入っていったミスター・ハットンは、ドリスが泣いているのに気がついた。

「どうした?」ベッドの端に腰を下ろして、ドリスの髪をなでてやった。長い間、返事はなかったが、彼は髪を機械的に、半ば無意識のまま、なで続けた。そうしながらときどき、身を屈めて彼女の剥きだしの肩にキスをした。だが、考えなければならない自分の問題を抱えていた。いったい何が起こったのか? 馬鹿げたゴシップが、どうして本当になったのだろう? エミリーが砒素中毒で死んだ。そんな馬鹿な。あり得ない。ものごとが秩序を失い、彼はある無責任なもののなすがままになっていた。いったい何が起きたのか、そうして何が起ころうとしているのか。考えていたところに邪魔が入った。

「あたしがいけないのね――あたしがいけなかったんだわ」ドリスは急に嗚咽をもらした。「あなたを愛しちゃいけなかった。あなたに愛してもらっちゃいけなかったんだわ。どうしてあたしなんかが生まれてきたのかしら」

 ミスター・ハットンは返事をせず、ベッドに横になっている、目も当てられないほど惨めな姿を黙って見おろしていた。

「あなたにもしものことがあったら、あたしも生きていないから」

 彼女は半身を起こして、手を一杯にのばして、しばらく彼にふれていた。一種、荒々しいまなざし、もう二度と会えないとでもいうようなまなざしで彼を見た。

「愛してる。愛してる。愛してる」彼女は力のこもらない、なすがままの彼の体を引き寄せ、抱きしめ、自分の体を押しつけた。「あなたがそんなにあたしのこと、愛してくれてるだなんて知らなかった、クマちゃん。だけど、なんでそんなことしたの? そんなこと、しちゃったの?」

 ミスター・ハットンは腕をふりほどいて立ちあがった。彼の顔はまっ赤になっていた。
「きみはぼくが妻を殺したと思っているようだが」彼は言った。「まったくとんでもなくおぞましいよ。ぼくをいったい何だと思ってるんだ。映画のヒーローか?」徐々に歯止めがきかなくなっていく。その日一日の激しい苛立ちも、恐怖も、とまどいも、彼女に向けられた激しい怒りに変わっていった。「どれもこれもうんざりするほど馬鹿げたことばかりだ。教養のある男のものの考え方なぞ、まるで理解できないんだろう? おれが人を殺して歩くような人間に見えるか? おれが気でもちがったほどにきみに惚れている、どんな馬鹿げたことでもしでかせるほど、惚れてる、とでも思ってるのか。女どもときたら、男は常軌を逸するほどにだれかを愛したりはしないんだと、いったいいつになったら気がつくんだ? 男が望むのは静かな生活で、それをおまえたちは決して認めようとしないんだ。いったいどの悪魔にそそのかされて、きみなんかと結婚なんかする羽目になったんだろう。実にくだらない、馬鹿げた、手のこんだ悪ふざけだ。そのうえ、おまえまでおれが人殺しだと言い出す。もう我慢できない」

 ミスター・ハットンは足音も荒くドアへ向かった。ひどいことを言ったことは気がついていた。急いで取り消さなくてはならないほどひどいことだ。だが、その気にはなれない。ドアを後ろ手に閉めた。

「クマちゃん!」取っ手を回す。掛けがねがかちりという音がした。「クマちゃん!」閉じたドアの向こうから聞こえてくる声は悲痛だった。戻った方がいいだろうか。戻らなければならない。取っ手にふれたが、そのまま手を引っこめると、足早にそこを離れた。階段を半分ほど下りたところで立ち止まった。何か馬鹿なまねをするかもしれない――窓から身を投げるとか、見当もつかないようなことを。聞き耳を立てた。何の物音もしない。だが彼には、つま先立ちで横切り、窓枠を一番上まで上げて、冷たい夜気のなかに身を乗り出す彼女の姿を、ありありと思い描くことができた。小雨が降っている。窓の下には小石を敷き詰めたテラスがある。どれほどの高さだろう。8メートルか9メートルというところだろうか。以前、ピカデリーを歩いていたとき、リッツホテルの三階の窓から犬が飛び出したことがあった。犬が落ちていくのを見たし、舗道にぶつかる音を聞いた。戻るべきだろうか。そんなことができるもんか。あんなやつ、うんざりだ。

 彼は長い間、書斎に腰を下ろしていた。何が起こったのか。何が起こっているのか。頭の中で繰りかえしそう問うてみたが、答えが見つからない。この悪夢が怖ろしい結果へと結びついていったとしたら。死が待ち受けている。彼の目に涙があふれた。どうしようもなく生きたい、と思った。「生きているだけでいいの」かわいそうなエミリーもそう願っていたではないか。彼は思いだしていた。「生きてさえいられればいいのよ」この驚嘆するような世界には、未だ行ったことのない場所があまりにも多く、未だ知らない不思議で愉快な人々は大勢おり、まだ会ったこともない美しい女もいくらでもいるのに。トスカナの道では大きな白い牡牛たちが荷馬車を引いているだろう。糸杉は柱のように青い空に向かって垂直に伸びていることだろう。だが、おれはもうそこで見ることはかなわないのだ。南部の甘いワイン――キリストの涙とユダの血――あるいはほかの酒を飲むのも、他の人々であって、彼ではない。ロンドン図書館の本棚の間の薄暗く狭い通路を、文学の名作につもった埃のにおいを嗅ぎ、奇妙なタイトルをのぞきこみ、未だ知らない名前を見つけ、知の圧倒的な領域の端くれを探索しながら歩きまわるのも他の人々だ。そのとき彼は、地中の穴の底に横たわる。だが、なぜ、なぜなんだ? 混乱した彼は、なにか途方もない裁きが下されているように感じた。これまで、彼は気まぐれで、愚かで、無責任だった。今度は運命が彼に対して気まぐれで、無責任の振る舞いを見せている。因果応報、神は結局のところ存在する。

 彼は祈ることができれば、と思った。四十年前なら、毎晩ベッドの脇にひざまずいていたのだ。子供時代の祈りの言葉が、閉ざされた記憶の小部屋から、何の苦労もなくすらすらと出てきた。「神さまどうかお父さんとお母さんに祝福を。トムとシシーと赤ん坊にも。家庭教師の先生と、乳母にも。それに、ぼくが愛するすべての人に祝福を。どうかぼくを良い子にしてください。アーメン」みんな死んでしまった――シシーを除けば。

 彼の気持ちが柔らかくなり溶けていく。大いなるやすらぎが、彼の心に流れこんだ。階段を上がっていって、ドリスの許しを乞うのだ。彼はドリスがベッドの足側にあるソファに倒れているのを見つけた。傍らの床には「内服すべからず」と書いてある塗布薬の青い瓶が置いてある。それを半分近く飲んでしまっているようだった。

「あなたはあたしのことなんて愛してなかった」目を開け、かがみこんでいる彼を見た彼女が言ったのは、それだけだった。

 ドクター・リバードは容態が深刻なものになるまえにやってくることができた。「もうこんなことをしちゃいけませんよ」ミスター・ハットンが部屋の外に出ているあいだにそう言った。

「なんでそうしちゃいけないの」逆らうように彼女は聞いた。

ドクター・リバードは大きな、悲しそうな目でじっと見た。「そうしちゃいけない理由はないかもしれない」医者は言った。「ただ、あなたとあなたの赤ちゃん以外にはね。赤ちゃんにとってはずいぶん運が悪い話じゃありませんか。あなたが生きていたくないからといって、この世に生まれてこさせないなんて」

 ドリスはしばらく黙っていたが「わかったわ」とささやくように言った。「あたし、もうしない」

 ミスター・ハットンはその夜、ずっと彼女のベッドの傍らに腰を下ろしていた。いまでは自分がほんとうに人殺しであるように思えていた。しばらくは、自分がこのかわいそうな子供を愛しているのだと思いこもうとしていた。椅子でまどろんだために、目覚めたときには体がこわばり、冷え切って、あらゆる感情が枯渇したように感じた。もはや疲れ果て苦しむ一個の死骸以外の何ものでもなかった。六時に着換え、ベッドに入って数時間まどろんだ。その日の午後、検屍陪審は「謀殺」という答申を下し、ミスター・ハットンは公判に付せられることが決まった。


第六章

 ミス・スペンスはひどく具合が悪かった。公の場、証人席に、大変な思いをして出たあとは、すっかり衰弱したように感じられた。夜は眠れず、神経性の消化不良に苦しんだ。ドクター・リバードが一日おきに往診した。彼女は医者にしゃべりづめにしゃべった。ハットン事件のことばかりだった。……いつも彼女は道徳的な怒りに燃えていた。この家に人殺しがいたなんて、考えただけでぞっとしませんこと? 人間の性質をそんなに長いこと誤解していたなんて、ずいぶん不思議じゃありません?(でも、わたし、ほんとうは最初から薄々感づいていたんですのよ)おまけにあの人が駆け落ちした女、下層の出の、売春婦とどれだけもちがわない女。あの二番目のミセス・ハットンにもうじき赤ん坊――有罪宣告を受けて、死刑を執行されたあとになって、赤ん坊が生まれるなんて、むかむかするほど汚らわしい。とんでもない、醜悪なことじゃございません? ドクター・リバードは穏やかに、曖昧に返事をし、鎮静剤を処方した。

 ある朝のこと、医者は彼女がいつもの長広舌を振るっている最中に、口を挟んだ。「ところで」という彼の声は柔らかく、もの悲しそうだった。「ミセス・ハットンに毒を盛ったのは、ほんとうはあなたですね」

 ミス・スペンスは二、三秒間、大きな目で医者の顔をじっと見つめてから、静かに答えた。「ええ」それから泣き始めた。

「コーヒーに入れたんですね?」

 彼女はうなずいたように見えた。ドクター・リバードは万年筆を取りだすと、端正で几帳面な書体で、睡眠薬の処方箋を書いた。



The End




(後日手を入れてサイトにアップしますのでお楽しみに)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その10.

2007-08-16 23:14:51 | 翻訳
第十回

 ポケットから封筒を取りだして、しぶしぶ、といえなくもない仕草で開いた。手紙なんてまったくぞっとする。再婚してからというもの、手紙というと、決まって何か不快なことが書いてあった。これは姉からのものだ。ざっと目を通したが、叱責と耳の痛むことしか書いてない。「恥ずかしいまでのあわてよう」「社会的な自殺」「墓の中でまだ冷たくもならないのに」「下流階級の人間」ありとあらゆる言葉が書いてある。いまや立派でまっとうな考えの親戚たちは、どの手紙でもかならずこうしたことを言ってくるのだった。苛立ちのあまり、馬鹿げた手紙を破ってしまおうとしたとき、不意に三枚目の最後の一行が目に入った。それを読むと、気持ちが悪くなるほど激しい動悸がしてきた。あきれるにもほどがある! ジャネット・スペンスがことあるごとに、自分がドリスと結婚するために、妻を毒殺したと言いふらしているのだという。これほどまでの悪意があろうか。いつもはものやわらかな気性のミスター・ハットンだったが、このときばかりは怒りで震えた。悪態をついて――あの女をさんざん罵ってから、子供のようだったが、なんとか自分をなだめたのである。

 やがてふと、この状況のバカバカしい側面に気がついた。この自分がドリスと結婚するために、誰かを殺すなんて! 自分が眼もあてられないほど退屈していることを知りさえすれば。哀れなジャネット! 人を陥れようとして、結局、馬鹿げた振る舞いをすることしかできなかったのだ。

 足音に気がついてはっとした。あたりをみまわす。テラスの下の庭で、召使いの娘が果物をつんでいた。ナポリ人で、北部のフィレンツェまでふらふらとやってきたのだ。古典的な顔立ちの見本のようだ――多少、気品に欠けるが。彼女の横顔は、シチリアコイン、少し落ちる時期のものであるが、コインに刻まれた顔を引き写したようだった。顔立ちはすばらしい伝統そのままの華やかなカーヴ、内面のほぼ完全なうつろさが表情に浮かんでいる。なかでも美しいのは口元だった。自然が描いたカリグラフィの手跡のような豊かな曲線は、強情で短気な性質を示していた。ミスター・ハットンは、みっともない黒い服の下に、力強い肉体、引き締まり量感のある体が息づいていることを見抜いたのだった。以前から漠然とした興味と好奇心を感じながら見てはいた。今日になって、その好奇心は、欲望と定義されるものに焦点化されたのである。ギリシャ詩人テオクリトスが歌った牧歌。ここに女がいる。だが彼は、ああ残念ながら火山のふもとの丘の山羊飼いとはいかない。彼は女を呼んだ。

「アルミダ!」

 それに応えた女の笑みが、あまりに挑発的で、あまりにたやすく貞節を譲り渡すことを示していたために、逆にミスター・ハットンはひるんだ。彼はふたたび崖っぷちにたっていた――崖っぷちに。引き返さなくては。早く、早く、手遅れになる前に。娘はずっと彼を見上げたままでいた。

“Ha chiamato?(お呼びになりました?)” とうとう彼女が聞いた。

 愚挙か理性か? もはや選択の余地はない。つねに愚行が選択されてきた。

“Scendo(降りていくよ),”彼は答えた。十二段の階段が庭からテラスまである。ミスター・ハットンは数えた。一段、一段、一段、一段……。自分がひとつの地獄の輪から、次の地獄へと降りてゆく姿を見た――風が吹きすさび、霰が降る闇から、悪臭ただよう汚泥の淵へと。

(次回最終回)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その9.

2007-08-15 23:21:17 | 翻訳
第九回

 雷鳴が轟き、ごろごろといいながら消えていき、雨音だけが残った。雷は強調され、外に現れた彼の哄笑だった。ふたたび、ふたりの頭上で稲妻が閃き、雷鳴が轟く。

「あなたはご自分のなかになにか嵐とよく似たものがあるのをお感じではありません?」そう言いながら、ミス・スペンスが身を乗り出してくるのがわかった。「情熱は人間を自然の作用と等しいものにするのです」

 ここでどういう手を打ったらいいのだろう。ああそうだ、おそらく「そうです」と言って、そのものずばりの行動に打って出るのだ。だが、ミスター・ハットンは急にひるんだ。体の内のジンジャー・エールは、気が抜けてしまった。女の側は真剣だった――おそろしいまでに真剣なのだ。彼はただもう呆然としていた。

 情熱だって?「いいえ」彼は思いあまってそう言った。「私にはそんな元気はありませんよ」だが、その言葉は聞こえなかったか、あるいは気にも留めなかったのか、ミス・スペンスはいよいよ興奮して、早口でまくしたてる。だが、思いつめ、熱をこめたささやきは、ミスター・ハットンには何を言っているか、ほとんど理解不能だった。それでも彼がかろうじて理解した範囲では、どうやら自分の来し方を打ちあけているらしい。稲妻はしだいに間遠になり、闇の間隔が長くなっていく。それでも、閃光のたびに彼女が身を乗り出したまま、恐るべき情熱をこめて、彼を求めて身を乗り出しているのが見えるのだった。暗闇、雨、それから稲妻! 彼女の顔はそこに、間近にある。青白い面、緑がかった白の。大きな目、口の真ん中の小さな銃口。濃い眉。アグリッピナか、というより、喜劇役者のジョージ・ロービィ(※参考画像)だろうか。

 彼はここから逃げ出すために、突拍子もない計画を練り始めた。急に飛び上がって、強盗を見つけたふりをして、「盗人め、待て! 待つんだ!」とでも言いながら、追いかけるまま、闇のなかに走っていこうか。それとも、眩暈がした、心臓発作だ、と言ってみようか。あるいは幽霊――エミリーの幽霊――が庭にいる、と言ったほうがいいだろうか。子供じみた計画に気を取られて、ミス・スペンスの言葉はおろそかになっていた。突然腕を捕まれて、はっと我に返った。

「ヘンリー、わたしはそのことで、あなたを尊敬していたんです」

尊敬した、っていったい何だ?

「結婚というのは神聖な絆ですものね、だからあなたはそれを尊重していらっしゃいました。たとえその結婚が、あなたの場合のように不幸なものであっても、あなたがそれを尊重していらっしゃるのを拝見して、わたしはあなたを尊敬し、あこがれもし、それに、それに、ああ、わたし、思い切って言ってしまってもいいかしら」

 ああ、泥棒が、庭の幽霊が! だが、遅きに失した。

「……ええ、わたし、あなたを愛しています、ヘンリー。でも、いまのわたしたちは自由ですわね、ヘンリー」

 自由だって? 闇のなかで何かが動いた。彼女が彼の椅子の足下の床にひざまずいている。

「ああ、ヘンリー、ヘンリー。わたしもずっと不幸だったんです」

 その腕が彼にまわされる。震える体は、すすり泣きのためだろう。まるで慈悲を求めてすがりつくように。

「そういうことをしちゃいけません、ジャネット」彼はやめさせようとした。こんな涙などおぞましい。おぞましいにもほどがある。「いま、そんなことを言っちゃいけない。いいから、もうおよしなさい。落ちついて。もう休んだ方がいい」彼女の肩を軽く叩いて、その腕をふりほどくと立ちあがった。自分が座っていた椅子の傍らで、床にうずくまったままの彼女をそこに残して、彼はそこを離れた。

 手探りで玄関ホールまで行き、帽子を探す手間も惜しんで、屋敷の外に出て、大変な苦労をしながら表の扉を音がしないように閉じた。雲は切れ、澄んだ空に月が輝いている。道のあちこちに水溜まりができ、溝や水路を流れる水音が聞こえた。ミスター・ハットンは濡れるのもかまわず、水をはねかして進んだ。

 胸も張り裂けんばかりのむせび泣きだった。それを考えると、哀れみと後悔の念が湧いてきたが、それ以上に、彼は怒りを覚えていた。どうしておれのゲームに乗ってこないんだ? 残酷で楽しいゲームなのに。確かに、彼女はそんなゲームはするつもりがない、いや、できないことは最初からわかっていた。おれは知っていながら、それでも続けたのだ。

 あの女は情熱と自然現象について何と言っていただろう? むやみとばからしい、陳腐なことを言っていたような気がするが、一面の真実はある。あの女が、雲となって黒い胸に雷を孕んでいるところに、このおれが、あの滑稽なベンジャミン・フランクリンよろしく、危険のまっただなかに凧を上げたのだ。そうしておれはいまになって、自分のおもちゃが稲妻を引き寄せた、と文句を言っている。

 おそらく彼女はまだ、柱廊にひざまずいたまま、泣いているだろう。

 だが、このおれはどうしてゲームを続けることができなくなったのか? どうしておれの無責任は、おれを見捨ててしまったのか。この冷酷な世界で急にしらふになってしまったおれを残したまま。 何を問うても答えはなかった。ただひとつ、彼の胸の内で明るく燃えているのは――逃げろ、という思いだった。いますぐ、ここから離れるのだ。

第四章

「クマちゃんったら何を考えてるの」

「何も」

 あたりはしんとしていた。ミスター・ハットンはテラスの手すりに肘をのせて両手で頬杖をついたまま、フィレンツェの街を見おろしながらじっとしていた。市街地の南、丘の上の別荘を買った。庭の端の少し高くなったテラスからは、肥沃な盆地が街までくだっていき、その向こうにはモンテ・モレロの殺風景な山塊が広がっていた。東に目をやると、人の多く住むフィエゾレの丘があり、白い家が点在していた。九月の太陽の光に照らされて、あらゆるものがはっきりと、色鮮やかだった。

「何か気がかりなことでもあるの?」

「いや、そんなことはないよ」

「クマちゃん、お話して」

「だけどね、きみ、話すことなんて何にもないんだよ」ミスター・ハットンは振り向いて笑顔を向けると、若い女の手を軽く叩いた。「きみはもう中に入って昼寝をした方がいい。ここはちょっときみには暑すぎるから」

「いいわね。だけどクマちゃん、あなたもいらっしゃるわね?」

「葉巻を吸い終わったらね」

「わかったわ。でも早くおしまいにして、クマちゃん」後ろ髪を引かれるようにゆっくりと、ドリスは階段を下り、家の方へ歩いた。

ミスター・ハットンはフィレンツェに関する思索を続けた。ひとりになりたかった。ときにはドリスから逃れること、片時も離れず情熱を込めて焼いてくれる世話から離れることもいいことだった。彼は、望みのない思いに胸を焦がした痛みは知らなかったが、いまや愛される苦しみを味わっていたのだ。ここ数週間というもの、苦痛は増していくばかりだった。ドリスは脅迫観念のように、罪の意識のように、片時も離れない。そのとおり、一人になるのはいいことだ。

(この項つづく)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その8.

2007-08-14 23:15:58 | 翻訳
第八回


 五日後、ドリスとミスター・ハットンはサウスエンドの埠頭に一緒に座っていた。ドリスはピンクの縁飾りのついた白いモスリンの服を着て、幸せに顔を輝かせていた。ミスター・ハットンは脚を伸ばして椅子を後ろに傾げ、パナマ帽をあみだにかぶって、旅行者にでもなったような気分に浸ろうとしていた。その夜、ドリスが眠っているあいだ――寝息が聞こえ、ぬくもりが伝わってくる――暗闇のなか疲れた体を横たえて、あの夜の、いわば宇宙的と一体となったような思いをよみがえらせようとしていた。あれからまだ二週間も経っていない、自分が偉大な志を立てた夜のことを。厳粛な誓いも、いまや他の多くの決心と同じ道をたどった。ほんのちょっと、浮気の虫が動き出しただけで、断念してしまったのである。まったく弁明の余地もない。どうしようもないじゃないか。

 長い間、目を閉じたまま、屈辱感に身を苛まれていた。娘が眠ったまま身じろぎした。ミスター・ハットンは寝返りをうって、そちらに向き直る。半分ほど引いたカーテンの間から洩れる微かな光が、むきだしの腕や肩や首筋、枕にかかるもつれた髪の毛を照らしていた。彼女は美しい、彼女がほしい。だったらなぜ自分はここに横になって、おのが罪を悔いているのだ。それがいったいどうしたというのだ。もし自分が救いようがない人間であるならば、それはそれで良いではないか。この、おのれの救いがたさのもとで最善を尽くせばいいだけの話だ。急に、どうとでもなれ、というすばらしい感覚が体を満たした。自分は自由だ。おそろしいくらい、自由なのだ。ある種の熱情に襲われて、娘の体を引き寄せた。目を覚ました彼女はとまどき、荒々しいキスに、ほとんど怯えているようだった。

 欲望の嵐がおさまると、澄み切った、愉快な気持ちがこみあげてきた。あたり一面が、音のない笑い声にさざめいているようだった。

「あたしが愛してるくらい、あなたのことを愛せる人がいると思う、クマちゃん」遙か彼方の愛の世界から微かにそう尋ねる声が聞こえてきた。

「そういう人間がいるのは知っている」ミスター・ハットンは答えた。水底の笑いがふくれ上がって浮かびあがり、いまにもしずかな水面を破って響き渡りそうになる。

「だれ? 教えて。どういうこと?」その声はひどく近い。疑い、怒り、苛立ちがこもっる現実の声だ。

「まあいいじゃないか」

「だれなのよ」

「君には想像もつかないよ」ミスター・ハットンはずっとふざけたままで、いい加減それにも飽きてから、やっとその名前を口にした。「ジャネット・スペンス」

 ドリスは信じられない、といった顔になった。「スペンス館のミス・スペンス? あのおばさんが?」あまりに馬鹿げている。ミスター・ハットンも一緒になって笑い出した。

「だけど正真正銘そうなのさ。彼女はぼくを崇めてるのさ」まったく冗談にもほどがある。帰ったらすぐに彼女のところへ行ってやらなくては――会って、ものにしてやろう。「彼女、おれと結婚するつもりでいるのさ」彼はつけくわえた。

「でも、あなた、そんなことしないわよね……そんなこと……」

 上機嫌のあまり、空気がパチパチと音をたてているようだ。ミスター・ハットンは声をあげて笑い出した。「君と結婚するんだよ、ぼくは」生まれてこのかた、最高におかしいジョークを言ったような気がした。


 ミスター・ハットンがサウスエンドを出発したときは、ふたたび妻帯者となっていた。さしあたりそのことは伏せておこくことでふたりは一致した。秋になったら一緒に外国に行こう。そうして世間にそのことを知らせてやるのだ。それまでは、彼は自分の家へ、ドリスは彼女の家へ帰ることにしよう。

 家に戻ったつぎの日の午後、彼は歩いてミス・スペンスに会いに行った。彼女はあの懐かしいジョコンダの微笑で迎えた。

「いらっしゃると思っていました」

「離れてはいられませんでした」ミスター・ハットンは調子を合わせた。

 ふたりはあずまやに腰を下ろした。気持の良い場所だ――よく繁った常緑樹に囲まれた、小さな古い漆喰塗りの殿堂。ミス・スペンスは椅子に青と白のデラ・ロッビアの額をかけて、自分の痕跡を残していた。

「この秋、イタリアに行こうかと思っているんです」ミスター・ハットンはそう言った。自分がジンジャー・エールのボトルに、愉快でわくわくして、いまにもぽんと吹き出しそうなボトルになったような気がした。

「イタリア……」ミス・スペンスはうっとりとした表情で目を閉じた。「わたしもそこに引き寄せられますわ」

「引き寄せられるまま、行かれたらいいじゃありませんか」

「わかりません。でも、人は一人ぼっちでは、出立する気持ちをかきたてるエネルギーもないのかもしれませんね」

「一人ぼっちですか……」ああ、ギターと喉の奥からしぼりだすような声が聞こえてきそうだ。「そうですね。一人旅というのは、あまり楽しいものではないかもしれませんね」

 ミス・スペンスは黙ったまま、椅子の背にもたれた。まだ目は閉じたままだ。ミスター・ハットンは口ひげをなでた。沈黙はいつまでも続き、ずいぶん時間が過ぎたような気がした。

 夕食をしていらして、とせがまれて、ミスター・ハットンも断り切れなかった。おもしろい話もほとんどない。外に面した廊下にテーブルがしつらえられた。アーチの向こうになだらかなスロープを描く庭、そこから谷へと下っていき、さらにその向こうに丘がひろがっていく。光は徐々に衰えていき、沈黙がたれこめた。厚い雲が空を覆い、遠雷が息づくように聞こえてきた。雷鳴はしだいにちかづいてきて、風が吹き始めたかと思うと、最初の雨が落ちてきた。テーブルは片づけられ、ミス・スペンスとミスター・ハットンは濃くなっていく闇の中に座ったままでいた。

 ミス・スペンスは長い沈黙を破って、考え深げに話を始めた。

「人はだれでもあるていどは幸福になる権利があると思うのです。そうではなくて?」

「確かにそのとおりです」いったい何を言おうとしているのだろう? 自分自身の話をするつもりもなしに、人生一般を語る人間はいない。幸福。彼は自分の来し方を振り返る。楽しく、屈託のない、深い悲しみや苦しみ、心配などにかき乱されたこともないものだった。金に困ったこともなければ、自由を制限されたこともない。やりたいことをやってきた。そう、自分はずっと幸せだったのだ――たいていの人間よりはずっと幸福だった。さらにいまは単に幸せというのではなかった。彼は無責任のなかに陽気でいられる秘訣を発見したのだ。自分の幸福について、何か言おうとしたときに、ミス・スペンスは話を続けた。

「ハットン様やわたしのような人間は、一生のうち、いつかは幸せになる権利があるはずです」

「私が、ですか?」ミスター・ハットンは驚いた。

「お気の毒なヘンリー。運命はわたしたちにあまり優しくはありませんでしたわね」

「そりゃそうかもしれませんけど、もっとひどいことだって起こり得ましたから」

「あなたは明るく振る舞っていらっしゃる。お強いのね。でも、わたしにその仮面の下が見通せないとはお考えにならないで」

 ミス・スペンスの声は、徐々に強くなっていく雨に抗して、大きくなっていた。時折、雷が話を遮る。彼女は話を続け、雷鳴のあいだは叫んでいた。

「わたしはあなたのことをはっきりと理解していますし、もうずいぶん前からそうだったのです」

 稲妻が彼女を照らした。狙いを定め、一心不乱に、彼の方に身を乗り出している。その目は体の底から湧いてくるような、怖ろしい二丁の銃身だった。闇がふたたび彼女を包んだ。

「あなたの孤独な魂は、よりそう魂を求めているのです。わたしはあなたの孤独をずっと気の毒に思ってきました。あなたの結婚のこと……」

 雷鳴で言葉が途切れた。ミス・スペンスの声がふたたび言葉となって聞こえてきた。

「……あなたのような性質の方に、良い伴侶を引き合わせたとは言えませんわ。あなたには魂の伴侶が必要だったのです」

 魂の伴侶だって? この自分に? 魂の伴侶と。こんなおとぎ話があるだろうか。“ジョージェッテ・ルブラン、モーリス・メーテルリンクのいまは亡き魂の伴侶”。数日前、そんな言葉を新聞で見たばかりだ。だからジャネット・スペンスはそんな途方もない絵柄を頭の中に描いてみたのか――魂の伴侶などと。だがドリスにしてみれば、おれは絵に描いたような善良で、世界一頭のいい男だ。だがほんとうのところ、実際は、おれというのは何ものなのだろう――そんなこと、知るものか。

「わたしの心はあなたに向かっていきました。わたしにはわかったのです。わたしもまた、寂しかったから」ミス・スペンスは彼の膝に手を置いた。「あなたはずいぶん我慢していらっしゃったわね」また稲妻が光った。彼女はまだ狙いを定めたままだ。危険この上ない。「あなたはいちども不平をおっしゃいませんでした。それでも、わたしには察することができたのです。わかったのです」

「なんてすばらしい方!」ということは、“理解されざる魂”というのはおれのことか。「女の直観だけが……」

(この項つづく)

(※サイトの翻訳の目次を整理し、著者と作品紹介もつけました。どうでもいいですが、ものすごい時間がかかって大変だったので、ここで言わせてください(笑)。新しい翻訳があるわけではありませんが、ページを作ったという報告です)。

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その7.

2007-08-13 23:28:16 | 翻訳
第七回

 その夜、ミスター・ハットンは夜遅くまで書斎でミルトンの生涯を読んでいた。ミルトンを選んだことにとりたてて理由はない。最初に手がふれたのがその本だった、というだけの話だ。読み終えたときには真夜中を過ぎていた。肘掛け椅子から立ちあがり、フランス窓を開けて、小石を敷き詰めた小さなテラスへ出た。星を眺め、星と星のあいだの暗闇を眺め、目を落として、ほの暗い芝生と庭の色を失った花に目をやる。さらに視線は、月明かりの下、黒と灰色に染まった遠い風景をさまよっていった。

 はっきりしない、どこか荒れた気分のまま、思いがかけめぐり始めた。星があり、ミルトンがいる。人間はともかくも星や夜と同等のところまでいくことができるのだ。偉大であることにおいて、崇高であることにおいて。だが、崇高さと卑劣さのあいだにどうしようもないほどの隔たりがあるのだろうか。ミルトン、星、死、自分自身――このおれ自身。魂、肉体。高貴な資質と低劣な本性。おそらく、結局のところそこには何かがある。ミルトンは神を味方にし、道徳観念を備えていた。では自分には何があったのか。何もない。まったく、何もない。ドリスの小さな胸だけだ。そうしたことにいったいどんな意味があるのか。ミルトン、星、死、墓のなかのエミリー。ドリス、そうしてこの自分――いつだって自分、自分だ……。

 ああ、自分など無益な、唾棄すべき存在だ。何を見てもそうとしか思えない。厳かな瞬間だった。彼は声に出して言った。「自分はやる。やってみせる」闇の中で聞こえる自分の声に愕然とした。自分が神々さえも拘束するほどの、地獄の誓いを立てたように聞こえたのである。「自分はやる。自分はやってみせる」これまでにも新年や重大な記念日に、同じように悔い改め、同じように固めた決意を書き留めたこともあった。だがこうした志はいつも痩せていき、煙のように無に帰してしまっていた。だがこんどばかりは重大な瞬間であり、恐怖を覚えるほどの誓いを唱えたのである。未来はちがうはずだ。そう、自分は理性による生き方をする。自分は勤勉になり、欲望に歯止めをかけ、人生をなにか正しい目的に捧げるのだ。決意は固まったし、あとは実行あるのみだ。

 具体的には、午前中は農業に充てることにする。管財人とともに馬に乗って見回りをし、土地が最新・最高の方法で耕作されているかどうか、サイロ、人工肥料、連作、そうしたことを確かめるのである。残った時間は真剣に勉強しよう。ずっと書こうと温めていたテーマもあるのだ。――『文明における病の効用』

 ミスター・ハットンは謙虚な、悔い改めた心持ちでベッドに入ったが、神の恩寵を我が身に受けたようにも感じたのである。七時間半眠り、目覚めたときには太陽が照り輝いていた。昨夜呼び覚まされた感情は、夜のあいだしっかり休養をとったために、ふだんの快活さがとって変わっていた。しばらくたってからでないと、昨夜、志をたてたこと、地獄の誓いをたてたことを思いだせなかったのである。ミルトンも死も、陽の光の下ではどこかちがっているようだ。星だって、もはや天にはない。だが、決意というのはよいものにはちがいない。日中でもそれははっきりわかった。朝食後、馬に鞍をつけさせ、管財人と一緒に農場の見回りをした。昼食後はトゥキュディデスの手によるアテネにおける疫病の記述を読んだ。夜には南部イタリアのマラリアについて、ノートを少々作った。服を脱いでいる途中でスケルトンの笑話集のなかに、「粟粒熱」についてのおもしろいエピソードがあったのを思いだし、鉛筆が見つかれば書き留めておいたのに、と残念だった。

 新しい人生が始まって六日目の朝、ミスター・ハットンは郵便物の中に、一通の封筒、独特の拙い手跡からドリスのものにちがいないと思われるものを見つけた。彼は封を切り、読み始めた。ドリスは何を言うべきなのかもわからないようだった。言葉遣いがひどくおかしい。奥様があんなふうに亡くなるなんて――あんなに突然――、とても怖ろしい。ミスター・ハットンはため息をついたが、読んでいるうちに興味がわいてきた。
死っていうのはすごくこわいです。あたしはそうしないでいられるときは、考えないようにしてるんです。だけど何かが起こったり、あと、あたしが病気だったり、落ちこんじゃったりしてるときは、やっぱり死ぬことってすごく身近なことなんだって思いだすんです。そうして、あたしがこれまでにやった悪いことを全部考えるし、あなたとあたしがやったことや、これからさきどうなるか、みたいなことを思って、とっても怖くなるんです。あたしはとてもさびしい。それに、クマちゃん、すごく不幸です。どうしたらいいかわからないんです。死んでしまうことを考えずにはいられない。一緒にいてくださらないと、すごく惨めな気持ちです。手紙なんて書くつもりじゃなかったの。喪が明けて、あたしのところへまた会いに来てくださるまで、待ってるつもりだったんです。だけど、あんまり寂しくて惨めだったから、クマちゃん、あたしね、書かずにはいられなかった。ごめんなさい。あなたにすごくいてほしいの。あたしには、だれもいない。あなた以外には。あなたはすごくいい人で、優しくて、いろんなことをわかってくださる。あなたみたいな人はほかにはいないわ。あたし、あなたがどんなに優しく、親切にしてくれたか、絶対に忘れない。あなたはそんなに頭が良くて、いろんなことをいっぱい知ってて、なのにどうしてあたしなんかを気にかけてくだすったんだろう、って、あたしにはよくわからない。だって、あたしったらこんなに鈍くてバカなんだもの。なおさら、好きになったり、愛してくださったりするなんて。それはほんとにあたしのこと、ちょっとは愛してくださってるからなのかしら。クマちゃん、ほんとに?

 ミスター・ハットンは恥ずかしく、良心の呵責を覚えた。こんなふうに感謝されるなんて。女の子を誘惑しただけなのに、崇拝されるなんて――あんまりだ。ほんの、ちょっとした迂闊な浮気心に過ぎなかったのに。間抜けで、愚かしい。そうとしか言いようがない。どう言いつくろおうとしたところで、そこから楽しみを味わったとさえ言えないのだから。あらゆることを考えあわせたとしても、おそらくは楽しんだというより退屈していた。かつて自分のことを快楽主義者だと考えたこともある。だが、快楽主義者であることは、周到な計算の下に、自分の知っている快楽を選択し、自分の知っている苦痛を排除することにほかならない。だが、これは理性とは関係なく、いやそれに逆らってなされたのである。自分はあらかじめわかっていたのだから――十分に、十分すぎるほど――こうしたくだらない情事からはおもしろみも、快楽さえ引き出せないことなど。にもかかわらず、曖昧な欲望が内に生じると、またもや馴染みの愚かしさにかかずらわってしまう。マギー、妻のメイド、イーディス、農場の娘、ミセス・プリングル、それにロンドンのウェイトレス、ほかにも――二十人もいたような気がする。みながみな、さしたることもない、退屈な女たちだった。そんなことは知っていた、いつだって知っていたのだ。にもかかわらず、にもかかわらず……。経験は何も教えることはない。

 かわいそうなドリス! 優しい、慰めるような手紙を書いてやろう。だが、もう会わないようにしよう。召使いがやってきて、鞍の用意ができ、馬の準備が整ったことを告げた。彼は馬に乗って出かけた。その朝の年取った管財人は、いつになくいらいらしていた。

(この項つづく)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その6.

2007-08-12 23:03:11 | 翻訳
第六回

「奥様はずいぶんお悪いご様子ですわ」ミス・スペンスは彼に向かって言葉の砲撃を浴びせた。

「あなたが来てくださったおかげでずいぶん元気が出たようです」

「純粋に神経のせい、神経が高ぶっていただけですわ。わたし、近くで観察していました。心臓があんな状態で、消化器官がぼろぼろだったら――そう、ぼろぼろと言っていいでしょうね――もう何が起こっても不思議はないでしょう」

「リバートはあわれなエミリーの容態のことを、そこまで悲観的には見ていないように思いますが」ミスター・ハットンは庭から車寄せへと通じていく門を開けて、手で押さえた。ミス・スペンスの車は前扉の脇に停めてあった。

「リバード先生だなんて、ただの田舎医者じゃありませんか。専門医にお見せにならなくては」

 彼は笑いをこらえられなかった。「あなたの専門医に対するご執心にはただならぬものが感じられますよ」

 ミス・スペンスは抗議の意をこめて片手をあげた。「わたし、真剣なんですのよ。かわいそうなエミリーはたいそう悪いのですわ。いつなんどき何が起こるかわからないほど」

 彼女の手を取って車に乗せてやると、ドアを閉めた。運転手はエンジンをかけてから運転席に腰を下ろし、いつでも動き出せる態勢になった。

「車を出すようにぼくから言ってあげましょうか?」これ以上会話を続けるのはごめんだ。

 ミス・スペンスは身を乗り出して、彼に向かってジョコンダの微笑を投げかけた。「忘れないですぐにまたいらっしゃってね」

 事務的に笑顔を返して、丁重に挨拶の言葉を口にし、車が動き出したときには手を振った。ひとりになれたのがうれしかった。

 数分後には、ミスター・ハットン自身が車上の人となっていた。ドリスが十字路で待っている。ふたりは家から30キロも離れたところにある沿道のホテルで食事を取った。まずいくせに高い、車を乗り回す連中が立ち寄る田舎のホテルでよくあるような食事である。ミスター・ハットンはうんざりしたが、ドリスはおもしろがっていた。彼女にとっては何でもおもしろいのである。ミスター・ハットンはあまり良いとはいいがたいブランドのシャンパンを注文した。今夜は自宅の書斎で過ごせば良かった、と思っていた。

 帰路についたときのドリスは、ほろ酔い加減でひどく甘えんぼうになっていた。車の中は真っ暗だったが、微動だにしないマクナブの背中の向こうに、ヘッドライトの光が闇から切りとった世界が、明るく細長い形と色合いとなって浮かびあがった。

 十一時過ぎ、ミスター・ハットンは家に着いた。リバード医師は玄関ホールにいた。小柄で繊細な手をし、女性的といっていいほど整った顔立ちの人物である。大きな茶色い目は憂いの色を浮かべていた。いつも患者のベッドの傍らに長いあいだ腰をおろして、目に悲しそうな色を浮かべ、悲しげな低い声で、とりとめのない話をしているのだった。彼からは心地よい香りがする。まぎれもない消毒剤の匂いだが、同時にそれは上品でひかえめな芳香だった。

「リバード先生」ミスター・ハットンは驚いた。「どうしてここにあなたが? 妻の具合が良くないのでしょうか」

「あなたをもっと早くつかまえようとしていたのです」柔らかでもの憂い声が答えた。「ミスター・ジョンソンのお宅だとうかがっていたのですが、あちらではあなたのことは何も聞いてないとのことでした」

「身動きができなかったんです。車が故障してね」ハットンは苛立っていた。嘘がばれたときの気分はたまらないものだ。

「奥様はあなたにたいそうお会いしたがっておられました」

「じゃあすぐに行ってやります」ミスター・ハットンは階段に向かおうとした。

 リバード医師は片手を彼の腕にかけた。「もう手遅れです」

「手遅れだって?」腕時計をさぐりにかかったが、ポケットから出てこない。

「ミセス・ハットンは三十分前にお亡くなりになりました」

 その声は、柔らかさを保ったまま、目も憂鬱なままで、その色が濃くなるというようなこともなかった。リバード医師は死の様子を、地元のクリケットの試合の話をするように語った。あらゆることどもはみな等しく虚しく、また等しく嘆かわしい。

 ミスター・ハットンは、自分がジャネット・スペンスが言ったことを考えているのに気がついた。いつなんどき――いつなんどき。これ以上はありえないほどに、彼女は正しかったのである。

「なんでそうなったんです?」彼はたずねた。「何がいけなかったんですか?」

 リバード医師は説明した。激しい嘔吐の発作に襲われたために、心臓が衰弱したということ、その嘔吐は何か刺激物を食べたことによって引き起こされたのだ、と。スグリではありませんか? ミスター・ハットンは言ってみた。おおいにありうることです。心臓には負担がかかる。慢性的な弁膜症がありましたからね。何かがもう緊張に耐えられなくなってしまったのです。もう手の施しようもありませんでした。ほとんど苦しむこともなかったでしょう。


第三章


「葬式にイートンとハーローの試合の日を選ぶとは生憎でしたな」グレゴ将軍が立ったままそう言うのが聞こえた。シルクハットを片手に、墓地の門の影の下、ハンカチで顔の汗をふいている。

 ミスター・ハットンはその言葉を耳に留めて、将軍をとことん痛めつけてやりたい、という気持ちをかろうじて抑えた。あの老いぼれのけだものの大きな赤ら顔のど真ん中を殴りつけてやることができたら。化け物のように大きい桑の実に、食べこぼしがついているではないか! 死者に対する敬意を持つ気もないのか。誰も気にしてもいないのか? 理屈の上では、彼もたいして気にかけていたわけではなかった。死者をして死者を葬らしむべし、である。だがここ、墓地では、自分が実際にむせび泣いていたのだった。かわいそうなエミリー。かつてはほんとうに幸せだったのに。いまや地下二メートルの穴の底に横たわる。そうしてここではグレゴがイートンとハーローの試合を見に行けないといって文句をたれている。

 ミスター・ハットンは喪服の群れを眺め渡した。人びとは教会墓地からゆっくりと押し出され、外の道路に停めてあるタクシーや自家用車の方へ散っていく。七月の咲き誇る草や花のかがやかしい背景と、人びとの姿はあまりにも不釣り合いで不自然だった。連中もそのうち死んでいくのだ。そう思うと彼の気分も良くなった。

(この項つづく)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その5.

2007-08-11 23:19:24 | 翻訳
第五回


 15ページの最後の方で、聞き間違いようもない音が彼の耳をとらえた。顔をあげると、ミセス・ハットンは眠りこけていた。しばらくそこに座ったまま、冷ややかな好奇心でもって、その寝顔を眺める。かつては美しかったのに。昔、もうずいぶんと前のこと、ひと目見るだけで、思い起こすだけで、心の奥底が震えたものだ。そんな思いはおそらくそれ以前には、そうしてそれからあとも、味わったことがなかった。いまやその顔は皺が深く、やせ衰えていた。頬骨に皮膚が張りつき、両の頬に橋を架けているのは鋭い、鳥の嘴のような鼻だ。閉じた目は骨に囲まれた深い穴の底。ランプの灯りが横顔を照らし、光と影で顔の凹凸をいやがうえにも強調していた。ルイ・ド・モラレスが描いた死せるキリストの顔のようだ。
髑髏は見ることがない
異教徒たちが芸術に酔いしれ、幸せな時を過ごしているうちは
(※テオフィル・ゴーティエの詩「賭けと墓」の冒頭)

 彼は軽くおののくと、静かに部屋を出た。

 つぎの日、ミセス・ハットンは昼食におりてきた。夜半、気持ちの悪い動悸がしたが、いまはずいぶん調子がいい。それにお客様に対して失礼のないようにしなくては、と思うところもあった。ミス・スペンスは、ランドリンドット・ウェルズについてこぼすミセス・ハットンに耳を傾け、仰々しく同情を並べ立て、アドバイスの雨を降らせている。何を話しているときだろうとミス・スペンスは熱烈な調子でしゃべるのだった。身を乗り出し、狙いを定め、いわば銃でも撃つように、言葉を発射するのである。バン! 胸の内の導火線に火がつくと、言葉が細い銃身をヒュッと押し出されて、彼女の口から発射される。女主人を同情の言葉で蜂の巣にするマシンガンだ。ミスター・ハットンも似たような爆撃を受けた経験が何度かあるが、たいがいは文学者や哲学者に関してだった――メーテルリンク砲、ミセス・アニー・ベサント砲、ベルクソン砲、ウィリアム・ジェイムズ砲。今日のミサイルは医学である。ミス・スペンスは不眠症についてまくしたて、害のない薬物の効能や、専門医がいかに良い結果をもたらすかの高説を開陳しているところだった。爆撃の下、ミセス・ハットンは、太陽の下で花が咲くように、心を開いていたのである。

 ミスター・ハットンは黙ってそれを見ていた。ジャネット・スペンスのようすは、尽きることのない好奇心をかきたてる。さほどロマンティックではないので、どんな顔でもそのマスクの下に、美しい相貌や不思議なものを秘めているのではあるまいか、と想像したり、女がちょっとした話をしていても、それを謎に満ちた深淵の上にかかる靄のように感じたりすることはない。たとえば、彼の妻にしても、ドリスにしても、見たままの人間で、それ以上の何ものでもない。だが、ジャネット・スペンスはどこか、そうではないものをもっていた。ジョコンダの微笑とローマ風の眉の下に、ある種の奇妙な顔が秘められているのはまちがいない。問題はただひとつ。そこにあるのはいったい何なのか。ミスター・ハットンにはそれがわからないでいた。

「だけど、きっとランドリンドット・ウェルズには行かなくてすむのじゃなくて?」ミス・スペンスは言っていた。「早く良くなりさえすれば、リバード先生も好きなようにさせてくださるわよ」

「そうだといいんだけど。ほんとうに、今日はずいぶんいいみたいなのよ」

 ミスター・ハットンは自分を恥じた。自分がもうすこしいたわってやりさえすれば、毎日、妻の気分もどれほど良くなっているだろう。それでも、それは単に気分の問題であって、容態が好転するわけではない、と、自分をなぐさめた。同情で肝臓の病気や弱った心臓が治れば世話はない。

「ぼくだったらそのスグリは食べないがな」突発的な親切心を起こして、彼は声をかけた。リバードも皮と種があるものは一切、手をつけないように、と言っていただろう?」

「だってわたし、大好きなんですもの」ミセス・ハットンは言うことを聞こうとしなかった。「それに今日はとても気分がいいんですから」

「亭主関白はダメよ」ミス・スペンスは、まず彼の方を、つぎに妻の方を見てから言った。「おかわいそうな病気の方なんですから、お食べになりたいものを召し上がればよろしいじゃありませんの。結局それが健康にも良いのではありませんこと?」手をミセス・ハットンの腕にのせて、二、三度、なだめるように軽く叩いた。

「どうもありがとう」ミセス・ハットンは好物の煮たスグリを口に運んだ。

「おやおや、それでまた気分が悪くなっても、ぼくに当たらないでくれよ」

「あら、わたしが一度だってあなたのせいにしたことがありましたかしら?」

「ぼくのせいにしようったってできやしないさ」わざと冗談めかしてそう言った。「ぼくは完璧な夫なんだから」

 昼食が終わると、三人は庭に出て座った。古い糸杉の木陰が作る島から、広がる芝生、そこにある花壇が金属のように輝くのを眺めていた。

 ミスター・ハットンは暖かくかぐわしい空気を胸一杯に吸いこんだ。「生きるというのはすばらしいことだね」

「生きているだけで」妻も言葉を合わせ、青白い、関節の飛び出した手を、日差しの中にさしのべた。

 メイドがコーヒーをもってきた。銀のポットと小さな青いカップが、椅子の傍らの折りたたみテーブルの上に並べられた。

「あら、お薬!」ミセス・ハットンは悲鳴をあげた。「走って取ってきてちょうだい、クララ。サイドボードの上にある白い瓶よ」

「ぼくが取ってこよう」ミスター・ハットンが言った。「何にせよ、タバコを取ってこなきゃならないんだから」

 彼は家に向かって走った。敷居のところで、一瞬、振り返った。妻はデッキ・チェアにすわったまま、なんとか白いパラソルを拡げようとしている。ミス・スペンスはテーブルにおおいかぶさって、コーヒーを注いでいるところだった。彼は涼しく薄暗い家の中に入っていった。

「コーヒーにはお砂糖を入れた方がよくって?」ミス・スペンスが聞いた。

「ええ、お願い。少し多めに入れてくださらない? お薬を飲んだあと、口直しにいただきたいの」

 ミセス・ハットンは椅子にもたれ、日よけを目の上までおろして、燃えるような空が視線の中に入ってこないようにした。

 背後で、ミス・スペンスのコーヒー・カップをかきまぜる微かな音が聞こえる。

「山盛り三杯入れておきましたからね。きっとお薬の苦みも感じなくなるはずだわ。あら、お薬が来たようよ」

 やってきたミスター・ハットンが持っているワイングラスには、半分ほど青い液体が入っていた。

「うまそうな匂いがするぞ」そう言いながら、妻にそれを渡す。

「ただそういう匂いがするだけよ」ひと息に飲み干すと、身震いして、顔をしかめた。「うう、まずい。コーヒーをちょうだい」

 ミス・スペンスがカップを渡した。ミセス・ハットンはそれをすすった。「あら、あなた、シロップみたいにしてしまわれたのね。だけど、それもいいわね、あのひどいお薬のあとなんだから」

 三時半になったところで、ミセス・ハットンは急に気分が悪くなった、と言いだして、中に入って横になることになった。夫はスグリに関して、何ごとか言いたかったが、がまんした。「だから言ったじゃないか」と言ったところで、あまりに貧しい勝利感しか得られない。そのかわりに、いたわってやることにして、家まで腕を貸してやった。

「ひと休みしたら気分も良くなるさ」彼は言った。「それはそうと、今日は夕食がすむまで帰らないよ」

「でも、どうして? どこへいらっしゃるの?」

「今夜、ジョンソンと約束してるんだ。戦没者記念碑についてちょっと話し合おうと思って」

「まあ、いてくださればいいのに」ミセス・ハットンは涙を流さんばかりだった。「いっしょにいてくださらないの? わたし、家にひとりでいるのはたまらないわ」

「でもね、何週間も前に約束してしまったんだよ」こんなふうに嘘をつかなければならないことにうんざりしていた。「それに、いまはあっちへ戻ってミス・スペンスの相手をしてやらなけりゃ」

 彼は妻の額にキスをして、もう一度庭へ降りていった。待っていたミス・スペンスは待ちかまえたようでもあり、緊張しているようでもあった。

(この項つづく)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その4.

2007-08-10 23:04:48 | 翻訳
第四回

第二章

 ミセス・ハットンは、自室のソファに横になって、ソリティアをやっていた。七月の暑い宵というのに、暖炉には薪が燃えている。黒いポメラニアンは、熱気と消化不良でぐったりとして、火の前で眠りこけていた。

「ふう、この部屋は暑くないか?」部屋に入ったミスター・ハットンは聞いてみた。

「わたしがいつも暖かくしてなきゃいけないのはごぞんじでしょ」それだけでもう泣き出さんばかりの声である。「寒気がするのよ」

「今夜は少しでも調子がよければいいんだが」

「そんなによくないの」

 会話ははずまなかった。ミスター・ハットンはマントルピースにもたれて立っていた。足下に寝そべるポメラニアンを見おろすと、ブーツをはいた右足の先で、小さな犬を転がしてやり、白い斑のある胸と腹をさすってやった。犬は気だるげにうっとりとした顔で寝そべっている。ミセス・ハットンはソリティアを続けていた。手詰まりになると、カードの位置を変え、別の一枚を戻すと続けた。彼女のやるソリティアはいつでもあがるのだ。

「リバード先生は、今年の夏はランドリンドッド・ウェルズに保養に出かけた方がいい、っておっしゃったわ」

「じゃあ行けばいいじゃないか。行きなさい」

 ミスター・ハットンはその日の午後のことを思いだしていた。ドリスとふたりでドライブに出かけ、うっそうと繁る森まで行ったのだ。車は木陰に待たせて、そこを出て、風のない、日の降り注ぐ白亜の草原を散歩したのだった。

「温泉地の水を飲むのがわたしの肝臓にはいいんですって。リバード先生は、マッサージをしてもらったり、電気療法も受けた方がいいともおっしゃってらしたわ」

 帽子を手に、ドリスは四頭の蝶がマツムシソウのまわりを飛び回っているところにそっと近寄った。蝶はまるで青い炎がちらちらとゆらめいているようだった。青い炎はぱっと立ち上ったかと思うと、ふわふわした火花となって飛び散った。ドリスはそれを追いかけて、笑い、さざめいていた。まるで子供のように。

「きっとそうしたらきみの調子も良くなるよ」

「あなた、一緒に来ていただけない?」

「ぼくが今月の終わりにはスコットランドに行かなくちゃならないというのはきみも知っているだろうに」

 ミセス・ハットンは懇願するような目で見上げた。「旅行なんですもの」彼女は言った。「そんなこと、思っただけで、悪夢を見てるみたい。旅行なんてとうていできるとは思えないのよ。それに、わたしがホテルだとよく眠れないのもご存じでしょう。ほかにも荷物だのなんだの、心配事はやまのように出てくるし。ひとりではとても行けそうにないんです」

「ひとりなんかじゃないじゃないか。メイドを連れて行くんだろう」彼の言葉は、苛立ちがこもっていた。病気の女が、健康な人間の領分まで侵害しようとしている。彼の意識は光にあふれた丘や、素早い身のこなしの笑っている娘の記憶から、病がたちこめ、暑すぎる部屋と、そのもちぬしに引き戻されていた。

「わたしは行けそうにないわ」

「だけど行かなくちゃ。医者がそういうんだったら。だいいち、気分転換というだけでもいいじゃないか」

「そんなふうには思えないの」

「そんなことを言ったって、リバード先生はそうしたほうがいい、って言ってるんだろう、先生だって理由もないのにそんなことを言うわけがないじゃないか」

「だめなの。わたしにはそんなことできません。わたし、ほんとうに病気が重いの。ひとりきりじゃとても行けそうにはないんです」ミセス・ハットンは、黒い絹の袋からハンカチを引っぱりだして、目を押さえた。

「馬鹿なことを。少しは自分でやってみなくちゃ」

「ここに残って安らかに死んだ方がいいのよ」ここにいたって、彼女はさめざめと涙に暮れた。

「馬鹿な。少しは筋道立てて考えてみろよ。ちゃんと聞いてくれ。頼むから」ミセス・ハットンのむせび泣きははげしくなるばかりである。「いいかげんにしてくれよ。どうしろっていうんだ」肩をすくめると、彼は部屋をでていった。

 ミスター・ハットンには、自分がもっと忍耐心をもって相手をすべきだったことはわかっていた。だが、どうにもならなかったのだ。成人したばかりのころ、彼は自分が貧しい人々や病人、障害のある人や、体に不具合のある人に対して同情を感じるどころか、実際には嫌悪しか感じなかったのである。かつて学生だったころ、イースト・エンドで三日間、役目についたことがある。戻ってきたとき、彼は体の奥底から、耐えがたいほどの嫌悪感でいっぱいになっていたのだった。憐れみのかわりに、不幸な人びとを忌み嫌った。それが好ましい感情ではないことは知っていたので、最初のうちはそういう自分を恥じていた。だが、結局はそれも気性なのだ、だからどうしようもないことなのだ、と割り切ることにして、それ以上は良心の呵責を感じなくなったのだった。エミリーも結婚当初は元気だったし美しかった。そのころには愛もあったのだ。だがいまは――彼女がああだからといって、それが彼のせいなのだろうか。

 ミスター・ハットンはひとりで食事をした。食べたり飲んだりしたせいで、食事の前よりも、いたわりの気持ちが生まれていた。さっき見せてしまった苛立ちの埋め合わせをしようと、妻の部屋へ上がって、本を読んであげよう、と申し出た。彼女が感激し、たいそううれしそうに、そうしてくださいな、と言ったので、ミスター・ハットンはとりわけ発音に自信のある、フランス語の軽い読み物はどうかね、と聞いてみた。

「フランス語? わたし、フランス語って大好きですの」ミセス・ハットンはラシーヌの言語を、まるでグリーンピース料理か何かのように言った。

 ミスター・ハットンは書斎に駆けおり、黄色い本を一冊抱えて戻ってきた。彼は読み始めた。完璧な発音に心を砕くうち、それに夢中になっていた。それにしても、なんと美しい発音であることか。発音のすばらしさが、読んでいる小説の質まで高めるように思えてくるのだった。

(この項つづく)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その3.

2007-08-09 23:10:12 | 翻訳
第三回



「もう、クマちゃんってば、すごく遅いんだもの」生き生きとした子供っぽい声がした。母音の発音に、かすかなロンドンの下町訛りがある。

 ミスター・ハットンは長身を折ると、動物が巣穴へ戻っていくときさながらの敏捷さで、車の中へさっとすべりこんだ。

「そうだったかい?」ドアを閉めながらそう言った。車が動き出す。「ぼくがいなくて寂しかったから、そんなふうに長く感じたのさ」シートに背をあずけ、深々と身を沈めた。心地よいぬくもりが身を包む。

「クマちゃん……」満ち足りたため息をひとつつくと、小さな頭をミスター・ハットンの肩にもたせかけてきた。魂を抜かれたように、斜め上から丸い童顔を見おろした。

「ドリス、きみはルイーズ・ケルアイユの肖像画にそっくりだ」ふさふさとした巻き毛を指で梳いた。

「どのひと、そのルイーズ・ケラ……なんとかって」ドリスの声が彼方から聞こえてくる。

「昔の人さ、もういない。私たちはだれでもいつかそのうち過去形で語られるようになるんだよ、それまでは……」

 ミスター・ハットンは子供っぽい顔になんども口づけた。車は滞ることもなく先を急いでいく。目の前のガラスの向こうにあるマクナブの背は、石のように無表情、まるで彫像の後ろ姿のようだった。

「あなたの手」ドリスがささやいた。「ダメ、わたしにふれないで。電気にさわったみたいにビリッと来るから」

 ミスター・ハットンは処女らしい稚い言葉遣いをことのほか愛おしく思っていた。人間が自分の身体に目覚めるのは、まことに遅いのである。

「電気はぼくの中にあるのではなくて、君の中にあるんだよ」彼はもう一度キスして、何度か名前をささやいた。ドリス、ドリス、ドリス。ウミケムシの学名はなんだったかな。さしだされた喉元、白い、剥きだしにされて、ナイフが当てられるのを待っている生け贄のような喉元にキスをしながら、彼は考えていた。ウミケムシは玉虫色の毛に覆われたソーセージだ。ひどく奇妙な。あるいは、ドリスはナマコ、驚くと、内と外がひっくり返るナマコかもしれない。どうにかしてまたナポリへ行かなくては。水族館だけでも見てくるのだ。海の生物というのはすばらしく、信じられないくらいに不思議なのだから。

「ああ、クマちゃん……」(こんどは動物学か。おれときたら、所詮、陸の動物だ。なんとバカバカしいジョークだ)「クマちゃん、わたし、すごく幸せ」

「ぼくもそうだよ」ミスター・ハットンはそう言う。本当に?

「だけど、これが悪いことじゃない、って思えたらいいのに。ねえ、教えて、クマちゃん、これはいいこと、それともまちがってるの」

「かわいいお嬢さん、ぼくも三十年前からそのことはずっと考えてるのさ」

「ふざけないで、クマちゃん。わたし、ほんとうに悪いことじゃないって知りたいの。わたしがここにあなたとこうしていて、わたしたちが愛し合っていて、そうして、あなたがわたしにふれると電気が流れたみたいになるのが、いいことなのかどうか」

「いいことか、だって? 性的抑圧より電気が流れたみたいになるほうがずっといいに決まってるじゃないか。フロイトを読むんだな。抑圧は悪魔のようなものだ」

「そんなんじゃ全然ダメ。どうして真剣に聞いてくれないの? ときどき、わたしがどうしようもないくらいにみじめな気分になってしまうことを、ちょっとでいいからわかってくれたらいいのに。ねえ、たぶん、地獄とかそういうものがあるんだわ。どうしたらいいのかしら。ときどき、もうあなたを愛するのをやめようと思うのよ」

「それができるのかな?」自分の誘惑の手管と口ひげの魅力に自信満々のミスター・ハットンはそう尋ねてみる。

「ダメなの。クマちゃんだって、わたしにそんなことできないのは知ってるでしょ。だけど、逃げてしまうことはできるかもしれない。あなたから隠れてしまうの。自分を閉じこめて、あなたのところへ行けないようにするの」

「かわいいおバカさん」彼は抱きしめる腕に力をこめた。

「ああ、ほんとにねえ、これが悪いことじゃなかったらいいのに。だけど、ときどき、そんなことどうだってよくなってしまう」

 ミスター・ハットンはひどく心を動かされた。このかわいい生き物を護り、慈しんでやりたいような気がした。自分の頬を彼女の髪に押し当てて、しっかりと抱き合ったまま、黙ってすわっていた。車が加速したために、少し上下左右に揺れ、白い道と埃っぽい生け垣が、すごい勢いでたぐりよせられていた。

「さよなら、さようなら」

 車は動きだし、加速すると、カーヴを回って消え、ドリスは十字路の標識のところに取り残された。キスとやさしい手がふれる電流が生み出した、めまいと力が抜けたような感覚が残っていた。深呼吸をひとつして、おもむろに背筋を伸ばすと、なんとか家へ向かって歩を進める力が湧いてきたように思う。これから1キロ近く歩いて帰らなければならないし、そのあいだにもっともらしい嘘も考えておかなくては。

 ひとりになったミスター・ハットンは、急に耐えがたいほど退屈な気分に襲われているのに気がついた。

(この項つづく)

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その2.

2007-08-08 22:40:13 | 翻訳
第二回



「驚きました」ミスター・ハットンは笑顔をつくろうと、握手するために片手を差し出し、歩み寄った。

 ミス・スペンスも微笑んでいた。例のジョコンダの微笑、以前、いささか皮肉を混じえたお世辞でそう呼んだことがある、その笑みを浮かべていた。ミス・スペンスの方はお世辞を本気にしたようで、いつでも必死でダ・ビンチの絵をまねようとしているのだった。ミスター・ハットンが握手しているあいだも、微笑を浮かべたまま黙っている。それもジョコンダの務めの一部なのである。

「お変わりないようですね」ミスター・ハットンは言った。「お元気そうでなによりです」

 なんと奇妙な顔であるこどか。ジョコンダの表情にならっておちょぼ口にとがらせた小さな口元は、口笛でも吹こうとしているかのように、真ん中に丸い穴が開いている――まるで真正面から眺めたペン軸だ。口の上には形のいい鼻、微妙に鈎型を描いている。目は大きく、驚くほどつややかで漆黒、その大きさ、つややかさ、漆黒なさまは、ものもらいを蒙り、ときに充血もするのだろう。かたちのよい、だが、いつ、いかなるときも深刻ぶった目だ。ペン軸の穴はジョコンダならばちゃめっけかもしれないが、その目はしかつめらしさを失うことがない。その上には眉墨で描かれたくっきりとした弧、そのせいで顔の上部は、ローマの貴婦人さながらの、驚くほどの力強さが感じられる。黒い髪もまたローマ人を思わせる。眉から上はさしずめ皇帝ネロの母堂、アグリッピナか。

「帰る途中にちょっとおうかがいしてみようかと思いました」ミスター・ハットンは続けた。「実際、こちらに戻ってくるのは良いものです」――手を泳がせて、花瓶の花だの、窓の外の陽光や繁る木々を示す――「街で仕事をして息苦しい一日を過ごしたあと、郊外に帰ってくると生き返るようだ」

 ミス・スペンスは、すでに腰をおろしていたが、彼にも傍らの椅子をすすめた。

「残念ですが、座っているような暇はないのです」ミスター・ハットンは断った。「かわいそうなエミリーの具合を見に、急いで戻ってやらなくては。今朝はいささか調子が悪いようだったので」にもかかわらず、腰をおろした。「例のいまいましい肝臓の冷えというやつです。いつも妻はそれにやられていましてね。女というものは……」急に言葉を切って、自分が口にしかけたことをごまかそうと咳払いした。消化機能に難がある女は結婚すべきではない、と言おうとしたのである。だがそれはあまりに残酷な考え方ではあるし、別に、彼自身、ほんとうにそう思っているわけでもない。さらにジャネット・スペンスときたら“健全な肉体に健全な精神宿る”を信奉している女なのだから。「でも、妻は明日の昼食には、あなたとご一緒できるぐらいには体調が良くなっているだろうと思ってますよ。ですからいらっしゃいませんか。ぜひ」笑顔を浮かべて説き伏せようとした。「わたしももちろんお越しいただきたいと思っているのです」

 ジャネットは視線を落とし、ミスター・ハットンの目には、彼女が頬を赤く染めたのさえ見えたような気がした。こいつは感謝のしるし、ということか。彼は口ひげをなでた。

「エミリーの容態が、おじゃましてもかまわないほど良いとお考えでしたら、おうかがいいたします」

「もちろんですよ。あなたがいてくだされば、妻の気も晴れる。結婚生活というのは、ふたりよりは三人の方がうまくいくことも少なくない」

「シニカルな方ね」

 ミスター・ハットンはシニカルという言葉を聞くと、いつも「ワン、ワン」と吠えたくなってしまうのだった(※シニカルのもとになったギリシャ語の語義は「犬のようにがみがみいう」から)。これほど苛立たつ言葉もない。だが、吠えるかわりに、いそいで訂正しておいた。

「とんでもない。私が言いたいのはせつない真実というやつです。現実はかならずしも理想通りにはいかないものです。かといって私が理想の存在をいささかでも疑っていることにはならない。実際、熱烈に信奉しているのですよ。ふたりの人間の完全な調和という結婚生活の理想をね。それは実現しうるものだと考えています。確かにそうだと」

 意味ありげに言葉を切ると、いたずらっぽい表情でジャネットに目を向けた。三十六歳の処女、とはいえ、いまだ枯れてはいない。独特の魅力はあるのだ。おまけに、実際、この女にはよくわからないところがある。ミス・スペンスは何も言わず、相変わらず微笑みを浮かべているだけだった。ミスター・ハットンは、ときどきこのジョコンダにはうんざりさせられる。彼は立ちあがった。

「もうお暇しなくては。ごきげんよう、謎めいたジョコンダ」

 その微笑みはさらに熱烈なものとなり、まるでおちょぼ口の先に集中したかのようだった。ミスター・ハットンは16世紀のイタリア人のような仕草で、彼女が差し出した手にキスをした。こんなことはいままでしたことがなかった。だがそれに対して気分を害したようすはない。「明日、お目にかかるのを楽しみにしています」

「ほんとうかしら」

 返事をする代わりにもう一度、手にキスをして、踵を返した。ミス・スペンスは玄関のところまでついてきた。

「お車はどこですの?」

「車寄せの手前に置いています」

「そこでお見送りしましょう」

「いやいや」ミスター・ハットンは冗談めかした口調で、だがきっぱりと断った。「そういうことをしてはいけません。あなたがそんなことをしちゃいけない」

「だって行きたいんですもの」ミス・スペンスは、一瞬、ジョコンダの微笑を見せて言い張った。

 ミスター・ハットンは片手をあげた。「だめといったらだめです」もういちどそういうと、投げキスと見まごうばかりの仕草をしてから、車寄せの道を駆けおりていった。つま先で駈けていく軽やかな足どり、大股で、はずむような足どりは少年のようだ。走っていく自分が誇らしかった。まったくたいした若さじゃないか。とはいえ車寄せの距離がそこまで長くないことがありがたくもあった。最後の曲がり角で、屋敷が視界から外れる前に、立ち止まって振り向いた。ミス・スペンスはまだ段の上に立ち、例の微笑を浮かべていた。彼は手を振ると、それから今度ははっきりとした、おおげさな身ぶりで、そちらに投げキスを送った。それからもう一度、見事な健脚を見せて、薄暗い木立の端を曲がっていった。屋敷が視界から外れると、ペースをゆるめ、小走りに、やがて通常の歩く速さまで落とした。ハンカチをとりだして、襟の内側の汗をぬぐった。なんという愚か者。おそれいるほどの馬鹿さ加減。あのあわれなジャネット・スペンスほどの愚か者が、これまでこの世にいただろうか。いるわけがない。この自分を除けば。確かに、おれこそ、さらに始末におえない愚か者だ。少なくともおれは、自分の愚かさを十二分に気が付きながら、しかもそれを続けているのだ。なぜやめることができないのだろう? ああ、問題は、おれ自身であり、同時に他の人間でもあるのだ……。

 彼は門のところにやってきた。大型の立派な車が道路の端に停まっていた。

「家へ帰る。マクナブ」運転手は帽子に手をあてた。「それから、十字路のところで停めてくれ、いつものように」ミスター・ハットンはつけ加えると、車のドアを開けた。「さて、と」彼が話しかけたのは、中にいる黒い影だった。

(この項つづく)