ドッペルゲンガーというものがある。
以前、「中島敦と身体のふしぎ」でも引用した南伸坊の『仙人の壺』にも出てくるし、『唐代伝奇集』にもある。エドガー・アラン・ポーにも『ウィリアム・ウィルソン』というのがあるし、怪談でも定番かもしれない。近代日本文学では有名なのが、自分自身がそのドッペルゲンガーを見たことのある芥川龍之介である。
さて、『唐代伝奇集』に出てくるのは「魂の抜け出た話」というタイトルで、わたしの場合、ドリーム・シアターを聴いていくら魂を抜かれても、たいてい曲が終わったら戻ってくるのだが、この場合は五年間も戻ってこない倩娘(せんじょう)という女性の話である。
倩娘は王宙と恋仲である。ところが両親は娘を他の男と婚約させてしまう。宙は怒って旅に出るが、その日の夕方、倩娘がはだしで追いかけてきて、ふたりは駆け落ちすることになる。二人は蜀の国で五年間、一緒に生活し、子供も二人生まれる。そのころ倩娘は故郷にいる両親が恋しくてたまらなくなるので、家族で連れ立って帰ることになる。ところが、一足先に宙が挨拶に向かうと、両親は、娘は病で伏せってからもう五年になるというのに、一体、何ごとを言うか、と怒る。つぎに倩娘が訪ねていくと、それまで伏せっていた娘は起き出して服を着替え迎えに出る。ふたりの娘が会ったら、ぴたりとひとつに重なって、着物までが重なったという。
確か、似たような話が『日本霊異記』にもあったような気がするのだが、これは確かめていないのでなんともいえない。ともかく、この「魂の抜け出た話」は、ドッペルゲンガーと出会って、ふたつの体が融合し、その結果ハッピーエンドになるのだが、たいていのドッペルゲンガーものは、芥川龍之介が『二つの手紙』のなかで「ドッペルゲンゲルの出現は、屡々(しばしば)当事者の死を予告するからでございます」と書いているように、たいてい主人公の「死の前兆」の役割を果たしている。
この『二つの手紙』では、まず語り手が、コンサートに妻と出かける。小用にたって戻ってくると、妻が誰かと一緒にいる。
、その衝撃もうすれたころ、今度は自宅に戻ってみると、なんと妻と自分のドッペルゲンガーが自分がその経験を書いた日記を読んでいるのである。
なんともいえず気味の悪い箇所である。ドッペルゲンガーが、そのことを書いた日記を読んでいる。ここには彼らの禍々しい意志さえ感じられそうだ。
同じ芥川龍之介の『歯車』では、主人公は見ていないが、知人ふたりが彼のドッペルゲンガーを見て、自分の死期が迫ってくるのを知る、という部分がある。『二つの手紙』ではまだ創作という体裁を取っているが、『歯車』となると、創作なのかエッセイなのか、あるいは一種の覚え書きなのか、たえずずれながら、追い立てられるようにして書きつづけている。ともかく芥川はドッペルゲンガーを見たと思い、あるいは、自分のドッペルゲンガーがうろつきまわってそれを見た人間がいると思い、それを怖れ、怯えているのである。
さて、このドッペルゲンガーというのはいったい何なのだろうか。
と、これをまとめれば、見える人には見える、そうしてその理由は定かではない、ということになるのではあるまいか(まとめ過ぎか)。あたりまえのことではあるが、ドッペルゲンガーを見ることが、自分の死期を知ることとは何の関係もないだろう。
フロイトは『無気味なもの』のなかで、老人が入ってきたと思ったら、それが鏡に映った自分自身の姿だったとわかった瞬間、無気味さを感じた、と書いている。本来ならそこにいるはずのない自分がそこにいたから怖かったのか。それとも、自分を外から見る、という体験が怖ろしいのか。あるいは、自分が意識している自分が自分であるという意識が、まったく何の根拠もないもの、幻かもしれないから、恐怖を感じたのか。
そのどれであるにせよ、ドッペルゲンガーの恐怖というのはこのあたりにありそうだ。
『歯車』では、語り手はもはや自分がドッペルゲンガーを見ることはない。その代わり、日常の些細な断片のことごとくに、何ものかの悪意を感じ、死の暗示を見て取っている。そうして右目の瞼の裏に半透明の歯車がいくつも回っているイメージが繰りかえし出てくる。この部分を読んでいると、こちらの頭まで痛くなってくるようだ。死はもはや織り込み済みの未来となった晩年の芥川には、ドッペルゲンガーすらも姿を表さなかったのだろうか。
(強化週間第二弾の今日は「音楽堂」のインデックスを変えて、レビューをふたつ追加しました。ほんとは「歌詞カード」の更新もしたかったのだけれど、そっちまで手が回らなかったんでした)
以前、「中島敦と身体のふしぎ」でも引用した南伸坊の『仙人の壺』にも出てくるし、『唐代伝奇集』にもある。エドガー・アラン・ポーにも『ウィリアム・ウィルソン』というのがあるし、怪談でも定番かもしれない。近代日本文学では有名なのが、自分自身がそのドッペルゲンガーを見たことのある芥川龍之介である。
さて、『唐代伝奇集』に出てくるのは「魂の抜け出た話」というタイトルで、わたしの場合、ドリーム・シアターを聴いていくら魂を抜かれても、たいてい曲が終わったら戻ってくるのだが、この場合は五年間も戻ってこない倩娘(せんじょう)という女性の話である。
倩娘は王宙と恋仲である。ところが両親は娘を他の男と婚約させてしまう。宙は怒って旅に出るが、その日の夕方、倩娘がはだしで追いかけてきて、ふたりは駆け落ちすることになる。二人は蜀の国で五年間、一緒に生活し、子供も二人生まれる。そのころ倩娘は故郷にいる両親が恋しくてたまらなくなるので、家族で連れ立って帰ることになる。ところが、一足先に宙が挨拶に向かうと、両親は、娘は病で伏せってからもう五年になるというのに、一体、何ごとを言うか、と怒る。つぎに倩娘が訪ねていくと、それまで伏せっていた娘は起き出して服を着替え迎えに出る。ふたりの娘が会ったら、ぴたりとひとつに重なって、着物までが重なったという。
確か、似たような話が『日本霊異記』にもあったような気がするのだが、これは確かめていないのでなんともいえない。ともかく、この「魂の抜け出た話」は、ドッペルゲンガーと出会って、ふたつの体が融合し、その結果ハッピーエンドになるのだが、たいていのドッペルゲンガーものは、芥川龍之介が『二つの手紙』のなかで「ドッペルゲンゲルの出現は、屡々(しばしば)当事者の死を予告するからでございます」と書いているように、たいてい主人公の「死の前兆」の役割を果たしている。
この『二つの手紙』では、まず語り手が、コンサートに妻と出かける。小用にたって戻ってくると、妻が誰かと一緒にいる。
閣下、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。
第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴を穿(は)いて居りました。そうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を装って居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顔もまた、私と同じだった事でございましょう。私はその時の私の心もちを、何と形容していいかわかりません。私の周囲には大ぜいの人間が、しっきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、昼のような光を放って居ります。云わば私の前後左右には、神秘と両立し難い一切の条件が、備っていたとでも申しましょうか。そうして私は実に、そう云う外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかったなら、私は恐らく大声をあげて、周囲の注意をこの奇怪な幻影に惹こうとした事でございましょう。
しかし、妻の視線は、幸にも私の視線と合しました。そうして、それとほとんど同時に、第二の私は丁度硝子に亀裂の入るような早さで、見る間に私の眼界から消え去ってしまいました。
、その衝撃もうすれたころ、今度は自宅に戻ってみると、なんと妻と自分のドッペルゲンガーが自分がその経験を書いた日記を読んでいるのである。
私の立っている閾の上からは、机に向って並んでいる二人の横顔が見えました。窓から来るつめたい光をうけて、その顔は二つとも鋭い明暗を作って居ります。そうして、その顔の前にある、黄いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼にはほとんどまっ黒に映りました。しかも、何と云う皮肉でございましょう。彼等は、私がこの奇怪な現象を記録して置いた、私の日記を読んでいるのでございます。これは机の上に開いてある本の形で、すぐにそれがわかりました。
なんともいえず気味の悪い箇所である。ドッペルゲンガーが、そのことを書いた日記を読んでいる。ここには彼らの禍々しい意志さえ感じられそうだ。
同じ芥川龍之介の『歯車』では、主人公は見ていないが、知人ふたりが彼のドッペルゲンガーを見て、自分の死期が迫ってくるのを知る、という部分がある。『二つの手紙』ではまだ創作という体裁を取っているが、『歯車』となると、創作なのかエッセイなのか、あるいは一種の覚え書きなのか、たえずずれながら、追い立てられるようにして書きつづけている。ともかく芥川はドッペルゲンガーを見たと思い、あるいは、自分のドッペルゲンガーがうろつきまわってそれを見た人間がいると思い、それを怖れ、怯えているのである。
さて、このドッペルゲンガーというのはいったい何なのだろうか。
精神医学的には、自己視、自己像幻視と呼ばれ、また二重身、分身体験などとも言われる。ドッペルゲンガー(Doppelganger ※ a はウムラウト)という言い方は、ドイツの民間伝承に基づくものである。…
…二重身といっても、さまざまの体験があり、それはなんらかの意味で自我意識の異常を示すものであるが、心理的には相当異なる機制によるものと思われる。また精神病理学的に言っても、正常人、神経症、精神分裂病、いずれの場合にも起こり得るし、てんかんや脳腫瘍などの器質的な障害によっても生じるものである。(河合隼雄『影の現象学』講談社学術文庫)
と、これをまとめれば、見える人には見える、そうしてその理由は定かではない、ということになるのではあるまいか(まとめ過ぎか)。あたりまえのことではあるが、ドッペルゲンガーを見ることが、自分の死期を知ることとは何の関係もないだろう。
フロイトは『無気味なもの』のなかで、老人が入ってきたと思ったら、それが鏡に映った自分自身の姿だったとわかった瞬間、無気味さを感じた、と書いている。本来ならそこにいるはずのない自分がそこにいたから怖かったのか。それとも、自分を外から見る、という体験が怖ろしいのか。あるいは、自分が意識している自分が自分であるという意識が、まったく何の根拠もないもの、幻かもしれないから、恐怖を感じたのか。
そのどれであるにせよ、ドッペルゲンガーの恐怖というのはこのあたりにありそうだ。
『歯車』では、語り手はもはや自分がドッペルゲンガーを見ることはない。その代わり、日常の些細な断片のことごとくに、何ものかの悪意を感じ、死の暗示を見て取っている。そうして右目の瞼の裏に半透明の歯車がいくつも回っているイメージが繰りかえし出てくる。この部分を読んでいると、こちらの頭まで痛くなってくるようだ。死はもはや織り込み済みの未来となった晩年の芥川には、ドッペルゲンガーすらも姿を表さなかったのだろうか。
(強化週間第二弾の今日は「音楽堂」のインデックスを変えて、レビューをふたつ追加しました。ほんとは「歌詞カード」の更新もしたかったのだけれど、そっちまで手が回らなかったんでした)