陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その5.

2007-08-11 23:19:24 | 翻訳
第五回


 15ページの最後の方で、聞き間違いようもない音が彼の耳をとらえた。顔をあげると、ミセス・ハットンは眠りこけていた。しばらくそこに座ったまま、冷ややかな好奇心でもって、その寝顔を眺める。かつては美しかったのに。昔、もうずいぶんと前のこと、ひと目見るだけで、思い起こすだけで、心の奥底が震えたものだ。そんな思いはおそらくそれ以前には、そうしてそれからあとも、味わったことがなかった。いまやその顔は皺が深く、やせ衰えていた。頬骨に皮膚が張りつき、両の頬に橋を架けているのは鋭い、鳥の嘴のような鼻だ。閉じた目は骨に囲まれた深い穴の底。ランプの灯りが横顔を照らし、光と影で顔の凹凸をいやがうえにも強調していた。ルイ・ド・モラレスが描いた死せるキリストの顔のようだ。
髑髏は見ることがない
異教徒たちが芸術に酔いしれ、幸せな時を過ごしているうちは
(※テオフィル・ゴーティエの詩「賭けと墓」の冒頭)

 彼は軽くおののくと、静かに部屋を出た。

 つぎの日、ミセス・ハットンは昼食におりてきた。夜半、気持ちの悪い動悸がしたが、いまはずいぶん調子がいい。それにお客様に対して失礼のないようにしなくては、と思うところもあった。ミス・スペンスは、ランドリンドット・ウェルズについてこぼすミセス・ハットンに耳を傾け、仰々しく同情を並べ立て、アドバイスの雨を降らせている。何を話しているときだろうとミス・スペンスは熱烈な調子でしゃべるのだった。身を乗り出し、狙いを定め、いわば銃でも撃つように、言葉を発射するのである。バン! 胸の内の導火線に火がつくと、言葉が細い銃身をヒュッと押し出されて、彼女の口から発射される。女主人を同情の言葉で蜂の巣にするマシンガンだ。ミスター・ハットンも似たような爆撃を受けた経験が何度かあるが、たいがいは文学者や哲学者に関してだった――メーテルリンク砲、ミセス・アニー・ベサント砲、ベルクソン砲、ウィリアム・ジェイムズ砲。今日のミサイルは医学である。ミス・スペンスは不眠症についてまくしたて、害のない薬物の効能や、専門医がいかに良い結果をもたらすかの高説を開陳しているところだった。爆撃の下、ミセス・ハットンは、太陽の下で花が咲くように、心を開いていたのである。

 ミスター・ハットンは黙ってそれを見ていた。ジャネット・スペンスのようすは、尽きることのない好奇心をかきたてる。さほどロマンティックではないので、どんな顔でもそのマスクの下に、美しい相貌や不思議なものを秘めているのではあるまいか、と想像したり、女がちょっとした話をしていても、それを謎に満ちた深淵の上にかかる靄のように感じたりすることはない。たとえば、彼の妻にしても、ドリスにしても、見たままの人間で、それ以上の何ものでもない。だが、ジャネット・スペンスはどこか、そうではないものをもっていた。ジョコンダの微笑とローマ風の眉の下に、ある種の奇妙な顔が秘められているのはまちがいない。問題はただひとつ。そこにあるのはいったい何なのか。ミスター・ハットンにはそれがわからないでいた。

「だけど、きっとランドリンドット・ウェルズには行かなくてすむのじゃなくて?」ミス・スペンスは言っていた。「早く良くなりさえすれば、リバード先生も好きなようにさせてくださるわよ」

「そうだといいんだけど。ほんとうに、今日はずいぶんいいみたいなのよ」

 ミスター・ハットンは自分を恥じた。自分がもうすこしいたわってやりさえすれば、毎日、妻の気分もどれほど良くなっているだろう。それでも、それは単に気分の問題であって、容態が好転するわけではない、と、自分をなぐさめた。同情で肝臓の病気や弱った心臓が治れば世話はない。

「ぼくだったらそのスグリは食べないがな」突発的な親切心を起こして、彼は声をかけた。リバードも皮と種があるものは一切、手をつけないように、と言っていただろう?」

「だってわたし、大好きなんですもの」ミセス・ハットンは言うことを聞こうとしなかった。「それに今日はとても気分がいいんですから」

「亭主関白はダメよ」ミス・スペンスは、まず彼の方を、つぎに妻の方を見てから言った。「おかわいそうな病気の方なんですから、お食べになりたいものを召し上がればよろしいじゃありませんの。結局それが健康にも良いのではありませんこと?」手をミセス・ハットンの腕にのせて、二、三度、なだめるように軽く叩いた。

「どうもありがとう」ミセス・ハットンは好物の煮たスグリを口に運んだ。

「おやおや、それでまた気分が悪くなっても、ぼくに当たらないでくれよ」

「あら、わたしが一度だってあなたのせいにしたことがありましたかしら?」

「ぼくのせいにしようったってできやしないさ」わざと冗談めかしてそう言った。「ぼくは完璧な夫なんだから」

 昼食が終わると、三人は庭に出て座った。古い糸杉の木陰が作る島から、広がる芝生、そこにある花壇が金属のように輝くのを眺めていた。

 ミスター・ハットンは暖かくかぐわしい空気を胸一杯に吸いこんだ。「生きるというのはすばらしいことだね」

「生きているだけで」妻も言葉を合わせ、青白い、関節の飛び出した手を、日差しの中にさしのべた。

 メイドがコーヒーをもってきた。銀のポットと小さな青いカップが、椅子の傍らの折りたたみテーブルの上に並べられた。

「あら、お薬!」ミセス・ハットンは悲鳴をあげた。「走って取ってきてちょうだい、クララ。サイドボードの上にある白い瓶よ」

「ぼくが取ってこよう」ミスター・ハットンが言った。「何にせよ、タバコを取ってこなきゃならないんだから」

 彼は家に向かって走った。敷居のところで、一瞬、振り返った。妻はデッキ・チェアにすわったまま、なんとか白いパラソルを拡げようとしている。ミス・スペンスはテーブルにおおいかぶさって、コーヒーを注いでいるところだった。彼は涼しく薄暗い家の中に入っていった。

「コーヒーにはお砂糖を入れた方がよくって?」ミス・スペンスが聞いた。

「ええ、お願い。少し多めに入れてくださらない? お薬を飲んだあと、口直しにいただきたいの」

 ミセス・ハットンは椅子にもたれ、日よけを目の上までおろして、燃えるような空が視線の中に入ってこないようにした。

 背後で、ミス・スペンスのコーヒー・カップをかきまぜる微かな音が聞こえる。

「山盛り三杯入れておきましたからね。きっとお薬の苦みも感じなくなるはずだわ。あら、お薬が来たようよ」

 やってきたミスター・ハットンが持っているワイングラスには、半分ほど青い液体が入っていた。

「うまそうな匂いがするぞ」そう言いながら、妻にそれを渡す。

「ただそういう匂いがするだけよ」ひと息に飲み干すと、身震いして、顔をしかめた。「うう、まずい。コーヒーをちょうだい」

 ミス・スペンスがカップを渡した。ミセス・ハットンはそれをすすった。「あら、あなた、シロップみたいにしてしまわれたのね。だけど、それもいいわね、あのひどいお薬のあとなんだから」

 三時半になったところで、ミセス・ハットンは急に気分が悪くなった、と言いだして、中に入って横になることになった。夫はスグリに関して、何ごとか言いたかったが、がまんした。「だから言ったじゃないか」と言ったところで、あまりに貧しい勝利感しか得られない。そのかわりに、いたわってやることにして、家まで腕を貸してやった。

「ひと休みしたら気分も良くなるさ」彼は言った。「それはそうと、今日は夕食がすむまで帰らないよ」

「でも、どうして? どこへいらっしゃるの?」

「今夜、ジョンソンと約束してるんだ。戦没者記念碑についてちょっと話し合おうと思って」

「まあ、いてくださればいいのに」ミセス・ハットンは涙を流さんばかりだった。「いっしょにいてくださらないの? わたし、家にひとりでいるのはたまらないわ」

「でもね、何週間も前に約束してしまったんだよ」こんなふうに嘘をつかなければならないことにうんざりしていた。「それに、いまはあっちへ戻ってミス・スペンスの相手をしてやらなけりゃ」

 彼は妻の額にキスをして、もう一度庭へ降りていった。待っていたミス・スペンスは待ちかまえたようでもあり、緊張しているようでもあった。

(この項つづく)