第二回
「驚きました」ミスター・ハットンは笑顔をつくろうと、握手するために片手を差し出し、歩み寄った。
ミス・スペンスも微笑んでいた。例のジョコンダの微笑、以前、いささか皮肉を混じえたお世辞でそう呼んだことがある、その笑みを浮かべていた。ミス・スペンスの方はお世辞を本気にしたようで、いつでも必死でダ・ビンチの絵をまねようとしているのだった。ミスター・ハットンが握手しているあいだも、微笑を浮かべたまま黙っている。それもジョコンダの務めの一部なのである。
「お変わりないようですね」ミスター・ハットンは言った。「お元気そうでなによりです」
なんと奇妙な顔であるこどか。ジョコンダの表情にならっておちょぼ口にとがらせた小さな口元は、口笛でも吹こうとしているかのように、真ん中に丸い穴が開いている――まるで真正面から眺めたペン軸だ。口の上には形のいい鼻、微妙に鈎型を描いている。目は大きく、驚くほどつややかで漆黒、その大きさ、つややかさ、漆黒なさまは、ものもらいを蒙り、ときに充血もするのだろう。かたちのよい、だが、いつ、いかなるときも深刻ぶった目だ。ペン軸の穴はジョコンダならばちゃめっけかもしれないが、その目はしかつめらしさを失うことがない。その上には眉墨で描かれたくっきりとした弧、そのせいで顔の上部は、ローマの貴婦人さながらの、驚くほどの力強さが感じられる。黒い髪もまたローマ人を思わせる。眉から上はさしずめ皇帝ネロの母堂、アグリッピナか。
「帰る途中にちょっとおうかがいしてみようかと思いました」ミスター・ハットンは続けた。「実際、こちらに戻ってくるのは良いものです」――手を泳がせて、花瓶の花だの、窓の外の陽光や繁る木々を示す――「街で仕事をして息苦しい一日を過ごしたあと、郊外に帰ってくると生き返るようだ」
ミス・スペンスは、すでに腰をおろしていたが、彼にも傍らの椅子をすすめた。
「残念ですが、座っているような暇はないのです」ミスター・ハットンは断った。「かわいそうなエミリーの具合を見に、急いで戻ってやらなくては。今朝はいささか調子が悪いようだったので」にもかかわらず、腰をおろした。「例のいまいましい肝臓の冷えというやつです。いつも妻はそれにやられていましてね。女というものは……」急に言葉を切って、自分が口にしかけたことをごまかそうと咳払いした。消化機能に難がある女は結婚すべきではない、と言おうとしたのである。だがそれはあまりに残酷な考え方ではあるし、別に、彼自身、ほんとうにそう思っているわけでもない。さらにジャネット・スペンスときたら“健全な肉体に健全な精神宿る”を信奉している女なのだから。「でも、妻は明日の昼食には、あなたとご一緒できるぐらいには体調が良くなっているだろうと思ってますよ。ですからいらっしゃいませんか。ぜひ」笑顔を浮かべて説き伏せようとした。「わたしももちろんお越しいただきたいと思っているのです」
ジャネットは視線を落とし、ミスター・ハットンの目には、彼女が頬を赤く染めたのさえ見えたような気がした。こいつは感謝のしるし、ということか。彼は口ひげをなでた。
「エミリーの容態が、おじゃましてもかまわないほど良いとお考えでしたら、おうかがいいたします」
「もちろんですよ。あなたがいてくだされば、妻の気も晴れる。結婚生活というのは、ふたりよりは三人の方がうまくいくことも少なくない」
「シニカルな方ね」
ミスター・ハットンはシニカルという言葉を聞くと、いつも「ワン、ワン」と吠えたくなってしまうのだった(※シニカルのもとになったギリシャ語の語義は「犬のようにがみがみいう」から)。これほど苛立たつ言葉もない。だが、吠えるかわりに、いそいで訂正しておいた。
「とんでもない。私が言いたいのはせつない真実というやつです。現実はかならずしも理想通りにはいかないものです。かといって私が理想の存在をいささかでも疑っていることにはならない。実際、熱烈に信奉しているのですよ。ふたりの人間の完全な調和という結婚生活の理想をね。それは実現しうるものだと考えています。確かにそうだと」
意味ありげに言葉を切ると、いたずらっぽい表情でジャネットに目を向けた。三十六歳の処女、とはいえ、いまだ枯れてはいない。独特の魅力はあるのだ。おまけに、実際、この女にはよくわからないところがある。ミス・スペンスは何も言わず、相変わらず微笑みを浮かべているだけだった。ミスター・ハットンは、ときどきこのジョコンダにはうんざりさせられる。彼は立ちあがった。
「もうお暇しなくては。ごきげんよう、謎めいたジョコンダ」
その微笑みはさらに熱烈なものとなり、まるでおちょぼ口の先に集中したかのようだった。ミスター・ハットンは16世紀のイタリア人のような仕草で、彼女が差し出した手にキスをした。こんなことはいままでしたことがなかった。だがそれに対して気分を害したようすはない。「明日、お目にかかるのを楽しみにしています」
「ほんとうかしら」
返事をする代わりにもう一度、手にキスをして、踵を返した。ミス・スペンスは玄関のところまでついてきた。
「お車はどこですの?」
「車寄せの手前に置いています」
「そこでお見送りしましょう」
「いやいや」ミスター・ハットンは冗談めかした口調で、だがきっぱりと断った。「そういうことをしてはいけません。あなたがそんなことをしちゃいけない」
「だって行きたいんですもの」ミス・スペンスは、一瞬、ジョコンダの微笑を見せて言い張った。
ミスター・ハットンは片手をあげた。「だめといったらだめです」もういちどそういうと、投げキスと見まごうばかりの仕草をしてから、車寄せの道を駆けおりていった。つま先で駈けていく軽やかな足どり、大股で、はずむような足どりは少年のようだ。走っていく自分が誇らしかった。まったくたいした若さじゃないか。とはいえ車寄せの距離がそこまで長くないことがありがたくもあった。最後の曲がり角で、屋敷が視界から外れる前に、立ち止まって振り向いた。ミス・スペンスはまだ段の上に立ち、例の微笑を浮かべていた。彼は手を振ると、それから今度ははっきりとした、おおげさな身ぶりで、そちらに投げキスを送った。それからもう一度、見事な健脚を見せて、薄暗い木立の端を曲がっていった。屋敷が視界から外れると、ペースをゆるめ、小走りに、やがて通常の歩く速さまで落とした。ハンカチをとりだして、襟の内側の汗をぬぐった。なんという愚か者。おそれいるほどの馬鹿さ加減。あのあわれなジャネット・スペンスほどの愚か者が、これまでこの世にいただろうか。いるわけがない。この自分を除けば。確かに、おれこそ、さらに始末におえない愚か者だ。少なくともおれは、自分の愚かさを十二分に気が付きながら、しかもそれを続けているのだ。なぜやめることができないのだろう? ああ、問題は、おれ自身であり、同時に他の人間でもあるのだ……。
彼は門のところにやってきた。大型の立派な車が道路の端に停まっていた。
「家へ帰る。マクナブ」運転手は帽子に手をあてた。「それから、十字路のところで停めてくれ、いつものように」ミスター・ハットンはつけ加えると、車のドアを開けた。「さて、と」彼が話しかけたのは、中にいる黒い影だった。
(この項つづく)
「驚きました」ミスター・ハットンは笑顔をつくろうと、握手するために片手を差し出し、歩み寄った。
ミス・スペンスも微笑んでいた。例のジョコンダの微笑、以前、いささか皮肉を混じえたお世辞でそう呼んだことがある、その笑みを浮かべていた。ミス・スペンスの方はお世辞を本気にしたようで、いつでも必死でダ・ビンチの絵をまねようとしているのだった。ミスター・ハットンが握手しているあいだも、微笑を浮かべたまま黙っている。それもジョコンダの務めの一部なのである。
「お変わりないようですね」ミスター・ハットンは言った。「お元気そうでなによりです」
なんと奇妙な顔であるこどか。ジョコンダの表情にならっておちょぼ口にとがらせた小さな口元は、口笛でも吹こうとしているかのように、真ん中に丸い穴が開いている――まるで真正面から眺めたペン軸だ。口の上には形のいい鼻、微妙に鈎型を描いている。目は大きく、驚くほどつややかで漆黒、その大きさ、つややかさ、漆黒なさまは、ものもらいを蒙り、ときに充血もするのだろう。かたちのよい、だが、いつ、いかなるときも深刻ぶった目だ。ペン軸の穴はジョコンダならばちゃめっけかもしれないが、その目はしかつめらしさを失うことがない。その上には眉墨で描かれたくっきりとした弧、そのせいで顔の上部は、ローマの貴婦人さながらの、驚くほどの力強さが感じられる。黒い髪もまたローマ人を思わせる。眉から上はさしずめ皇帝ネロの母堂、アグリッピナか。
「帰る途中にちょっとおうかがいしてみようかと思いました」ミスター・ハットンは続けた。「実際、こちらに戻ってくるのは良いものです」――手を泳がせて、花瓶の花だの、窓の外の陽光や繁る木々を示す――「街で仕事をして息苦しい一日を過ごしたあと、郊外に帰ってくると生き返るようだ」
ミス・スペンスは、すでに腰をおろしていたが、彼にも傍らの椅子をすすめた。
「残念ですが、座っているような暇はないのです」ミスター・ハットンは断った。「かわいそうなエミリーの具合を見に、急いで戻ってやらなくては。今朝はいささか調子が悪いようだったので」にもかかわらず、腰をおろした。「例のいまいましい肝臓の冷えというやつです。いつも妻はそれにやられていましてね。女というものは……」急に言葉を切って、自分が口にしかけたことをごまかそうと咳払いした。消化機能に難がある女は結婚すべきではない、と言おうとしたのである。だがそれはあまりに残酷な考え方ではあるし、別に、彼自身、ほんとうにそう思っているわけでもない。さらにジャネット・スペンスときたら“健全な肉体に健全な精神宿る”を信奉している女なのだから。「でも、妻は明日の昼食には、あなたとご一緒できるぐらいには体調が良くなっているだろうと思ってますよ。ですからいらっしゃいませんか。ぜひ」笑顔を浮かべて説き伏せようとした。「わたしももちろんお越しいただきたいと思っているのです」
ジャネットは視線を落とし、ミスター・ハットンの目には、彼女が頬を赤く染めたのさえ見えたような気がした。こいつは感謝のしるし、ということか。彼は口ひげをなでた。
「エミリーの容態が、おじゃましてもかまわないほど良いとお考えでしたら、おうかがいいたします」
「もちろんですよ。あなたがいてくだされば、妻の気も晴れる。結婚生活というのは、ふたりよりは三人の方がうまくいくことも少なくない」
「シニカルな方ね」
ミスター・ハットンはシニカルという言葉を聞くと、いつも「ワン、ワン」と吠えたくなってしまうのだった(※シニカルのもとになったギリシャ語の語義は「犬のようにがみがみいう」から)。これほど苛立たつ言葉もない。だが、吠えるかわりに、いそいで訂正しておいた。
「とんでもない。私が言いたいのはせつない真実というやつです。現実はかならずしも理想通りにはいかないものです。かといって私が理想の存在をいささかでも疑っていることにはならない。実際、熱烈に信奉しているのですよ。ふたりの人間の完全な調和という結婚生活の理想をね。それは実現しうるものだと考えています。確かにそうだと」
意味ありげに言葉を切ると、いたずらっぽい表情でジャネットに目を向けた。三十六歳の処女、とはいえ、いまだ枯れてはいない。独特の魅力はあるのだ。おまけに、実際、この女にはよくわからないところがある。ミス・スペンスは何も言わず、相変わらず微笑みを浮かべているだけだった。ミスター・ハットンは、ときどきこのジョコンダにはうんざりさせられる。彼は立ちあがった。
「もうお暇しなくては。ごきげんよう、謎めいたジョコンダ」
その微笑みはさらに熱烈なものとなり、まるでおちょぼ口の先に集中したかのようだった。ミスター・ハットンは16世紀のイタリア人のような仕草で、彼女が差し出した手にキスをした。こんなことはいままでしたことがなかった。だがそれに対して気分を害したようすはない。「明日、お目にかかるのを楽しみにしています」
「ほんとうかしら」
返事をする代わりにもう一度、手にキスをして、踵を返した。ミス・スペンスは玄関のところまでついてきた。
「お車はどこですの?」
「車寄せの手前に置いています」
「そこでお見送りしましょう」
「いやいや」ミスター・ハットンは冗談めかした口調で、だがきっぱりと断った。「そういうことをしてはいけません。あなたがそんなことをしちゃいけない」
「だって行きたいんですもの」ミス・スペンスは、一瞬、ジョコンダの微笑を見せて言い張った。
ミスター・ハットンは片手をあげた。「だめといったらだめです」もういちどそういうと、投げキスと見まごうばかりの仕草をしてから、車寄せの道を駆けおりていった。つま先で駈けていく軽やかな足どり、大股で、はずむような足どりは少年のようだ。走っていく自分が誇らしかった。まったくたいした若さじゃないか。とはいえ車寄せの距離がそこまで長くないことがありがたくもあった。最後の曲がり角で、屋敷が視界から外れる前に、立ち止まって振り向いた。ミス・スペンスはまだ段の上に立ち、例の微笑を浮かべていた。彼は手を振ると、それから今度ははっきりとした、おおげさな身ぶりで、そちらに投げキスを送った。それからもう一度、見事な健脚を見せて、薄暗い木立の端を曲がっていった。屋敷が視界から外れると、ペースをゆるめ、小走りに、やがて通常の歩く速さまで落とした。ハンカチをとりだして、襟の内側の汗をぬぐった。なんという愚か者。おそれいるほどの馬鹿さ加減。あのあわれなジャネット・スペンスほどの愚か者が、これまでこの世にいただろうか。いるわけがない。この自分を除けば。確かに、おれこそ、さらに始末におえない愚か者だ。少なくともおれは、自分の愚かさを十二分に気が付きながら、しかもそれを続けているのだ。なぜやめることができないのだろう? ああ、問題は、おれ自身であり、同時に他の人間でもあるのだ……。
彼は門のところにやってきた。大型の立派な車が道路の端に停まっていた。
「家へ帰る。マクナブ」運転手は帽子に手をあてた。「それから、十字路のところで停めてくれ、いつものように」ミスター・ハットンはつけ加えると、車のドアを開けた。「さて、と」彼が話しかけたのは、中にいる黒い影だった。
(この項つづく)