陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

オルダス・ハクスリー 『ジョコンダの微笑』その7.

2007-08-13 23:28:16 | 翻訳
第七回

 その夜、ミスター・ハットンは夜遅くまで書斎でミルトンの生涯を読んでいた。ミルトンを選んだことにとりたてて理由はない。最初に手がふれたのがその本だった、というだけの話だ。読み終えたときには真夜中を過ぎていた。肘掛け椅子から立ちあがり、フランス窓を開けて、小石を敷き詰めた小さなテラスへ出た。星を眺め、星と星のあいだの暗闇を眺め、目を落として、ほの暗い芝生と庭の色を失った花に目をやる。さらに視線は、月明かりの下、黒と灰色に染まった遠い風景をさまよっていった。

 はっきりしない、どこか荒れた気分のまま、思いがかけめぐり始めた。星があり、ミルトンがいる。人間はともかくも星や夜と同等のところまでいくことができるのだ。偉大であることにおいて、崇高であることにおいて。だが、崇高さと卑劣さのあいだにどうしようもないほどの隔たりがあるのだろうか。ミルトン、星、死、自分自身――このおれ自身。魂、肉体。高貴な資質と低劣な本性。おそらく、結局のところそこには何かがある。ミルトンは神を味方にし、道徳観念を備えていた。では自分には何があったのか。何もない。まったく、何もない。ドリスの小さな胸だけだ。そうしたことにいったいどんな意味があるのか。ミルトン、星、死、墓のなかのエミリー。ドリス、そうしてこの自分――いつだって自分、自分だ……。

 ああ、自分など無益な、唾棄すべき存在だ。何を見てもそうとしか思えない。厳かな瞬間だった。彼は声に出して言った。「自分はやる。やってみせる」闇の中で聞こえる自分の声に愕然とした。自分が神々さえも拘束するほどの、地獄の誓いを立てたように聞こえたのである。「自分はやる。自分はやってみせる」これまでにも新年や重大な記念日に、同じように悔い改め、同じように固めた決意を書き留めたこともあった。だがこうした志はいつも痩せていき、煙のように無に帰してしまっていた。だがこんどばかりは重大な瞬間であり、恐怖を覚えるほどの誓いを唱えたのである。未来はちがうはずだ。そう、自分は理性による生き方をする。自分は勤勉になり、欲望に歯止めをかけ、人生をなにか正しい目的に捧げるのだ。決意は固まったし、あとは実行あるのみだ。

 具体的には、午前中は農業に充てることにする。管財人とともに馬に乗って見回りをし、土地が最新・最高の方法で耕作されているかどうか、サイロ、人工肥料、連作、そうしたことを確かめるのである。残った時間は真剣に勉強しよう。ずっと書こうと温めていたテーマもあるのだ。――『文明における病の効用』

 ミスター・ハットンは謙虚な、悔い改めた心持ちでベッドに入ったが、神の恩寵を我が身に受けたようにも感じたのである。七時間半眠り、目覚めたときには太陽が照り輝いていた。昨夜呼び覚まされた感情は、夜のあいだしっかり休養をとったために、ふだんの快活さがとって変わっていた。しばらくたってからでないと、昨夜、志をたてたこと、地獄の誓いをたてたことを思いだせなかったのである。ミルトンも死も、陽の光の下ではどこかちがっているようだ。星だって、もはや天にはない。だが、決意というのはよいものにはちがいない。日中でもそれははっきりわかった。朝食後、馬に鞍をつけさせ、管財人と一緒に農場の見回りをした。昼食後はトゥキュディデスの手によるアテネにおける疫病の記述を読んだ。夜には南部イタリアのマラリアについて、ノートを少々作った。服を脱いでいる途中でスケルトンの笑話集のなかに、「粟粒熱」についてのおもしろいエピソードがあったのを思いだし、鉛筆が見つかれば書き留めておいたのに、と残念だった。

 新しい人生が始まって六日目の朝、ミスター・ハットンは郵便物の中に、一通の封筒、独特の拙い手跡からドリスのものにちがいないと思われるものを見つけた。彼は封を切り、読み始めた。ドリスは何を言うべきなのかもわからないようだった。言葉遣いがひどくおかしい。奥様があんなふうに亡くなるなんて――あんなに突然――、とても怖ろしい。ミスター・ハットンはため息をついたが、読んでいるうちに興味がわいてきた。
死っていうのはすごくこわいです。あたしはそうしないでいられるときは、考えないようにしてるんです。だけど何かが起こったり、あと、あたしが病気だったり、落ちこんじゃったりしてるときは、やっぱり死ぬことってすごく身近なことなんだって思いだすんです。そうして、あたしがこれまでにやった悪いことを全部考えるし、あなたとあたしがやったことや、これからさきどうなるか、みたいなことを思って、とっても怖くなるんです。あたしはとてもさびしい。それに、クマちゃん、すごく不幸です。どうしたらいいかわからないんです。死んでしまうことを考えずにはいられない。一緒にいてくださらないと、すごく惨めな気持ちです。手紙なんて書くつもりじゃなかったの。喪が明けて、あたしのところへまた会いに来てくださるまで、待ってるつもりだったんです。だけど、あんまり寂しくて惨めだったから、クマちゃん、あたしね、書かずにはいられなかった。ごめんなさい。あなたにすごくいてほしいの。あたしには、だれもいない。あなた以外には。あなたはすごくいい人で、優しくて、いろんなことをわかってくださる。あなたみたいな人はほかにはいないわ。あたし、あなたがどんなに優しく、親切にしてくれたか、絶対に忘れない。あなたはそんなに頭が良くて、いろんなことをいっぱい知ってて、なのにどうしてあたしなんかを気にかけてくだすったんだろう、って、あたしにはよくわからない。だって、あたしったらこんなに鈍くてバカなんだもの。なおさら、好きになったり、愛してくださったりするなんて。それはほんとにあたしのこと、ちょっとは愛してくださってるからなのかしら。クマちゃん、ほんとに?

 ミスター・ハットンは恥ずかしく、良心の呵責を覚えた。こんなふうに感謝されるなんて。女の子を誘惑しただけなのに、崇拝されるなんて――あんまりだ。ほんの、ちょっとした迂闊な浮気心に過ぎなかったのに。間抜けで、愚かしい。そうとしか言いようがない。どう言いつくろおうとしたところで、そこから楽しみを味わったとさえ言えないのだから。あらゆることを考えあわせたとしても、おそらくは楽しんだというより退屈していた。かつて自分のことを快楽主義者だと考えたこともある。だが、快楽主義者であることは、周到な計算の下に、自分の知っている快楽を選択し、自分の知っている苦痛を排除することにほかならない。だが、これは理性とは関係なく、いやそれに逆らってなされたのである。自分はあらかじめわかっていたのだから――十分に、十分すぎるほど――こうしたくだらない情事からはおもしろみも、快楽さえ引き出せないことなど。にもかかわらず、曖昧な欲望が内に生じると、またもや馴染みの愚かしさにかかずらわってしまう。マギー、妻のメイド、イーディス、農場の娘、ミセス・プリングル、それにロンドンのウェイトレス、ほかにも――二十人もいたような気がする。みながみな、さしたることもない、退屈な女たちだった。そんなことは知っていた、いつだって知っていたのだ。にもかかわらず、にもかかわらず……。経験は何も教えることはない。

 かわいそうなドリス! 優しい、慰めるような手紙を書いてやろう。だが、もう会わないようにしよう。召使いがやってきて、鞍の用意ができ、馬の準備が整ったことを告げた。彼は馬に乗って出かけた。その朝の年取った管財人は、いつになくいらいらしていた。

(この項つづく)