第四回
第二章
ミセス・ハットンは、自室のソファに横になって、ソリティアをやっていた。七月の暑い宵というのに、暖炉には薪が燃えている。黒いポメラニアンは、熱気と消化不良でぐったりとして、火の前で眠りこけていた。
「ふう、この部屋は暑くないか?」部屋に入ったミスター・ハットンは聞いてみた。
「わたしがいつも暖かくしてなきゃいけないのはごぞんじでしょ」それだけでもう泣き出さんばかりの声である。「寒気がするのよ」
「今夜は少しでも調子がよければいいんだが」
「そんなによくないの」
会話ははずまなかった。ミスター・ハットンはマントルピースにもたれて立っていた。足下に寝そべるポメラニアンを見おろすと、ブーツをはいた右足の先で、小さな犬を転がしてやり、白い斑のある胸と腹をさすってやった。犬は気だるげにうっとりとした顔で寝そべっている。ミセス・ハットンはソリティアを続けていた。手詰まりになると、カードの位置を変え、別の一枚を戻すと続けた。彼女のやるソリティアはいつでもあがるのだ。
「リバード先生は、今年の夏はランドリンドッド・ウェルズに保養に出かけた方がいい、っておっしゃったわ」
「じゃあ行けばいいじゃないか。行きなさい」
ミスター・ハットンはその日の午後のことを思いだしていた。ドリスとふたりでドライブに出かけ、うっそうと繁る森まで行ったのだ。車は木陰に待たせて、そこを出て、風のない、日の降り注ぐ白亜の草原を散歩したのだった。
「温泉地の水を飲むのがわたしの肝臓にはいいんですって。リバード先生は、マッサージをしてもらったり、電気療法も受けた方がいいともおっしゃってらしたわ」
帽子を手に、ドリスは四頭の蝶がマツムシソウのまわりを飛び回っているところにそっと近寄った。蝶はまるで青い炎がちらちらとゆらめいているようだった。青い炎はぱっと立ち上ったかと思うと、ふわふわした火花となって飛び散った。ドリスはそれを追いかけて、笑い、さざめいていた。まるで子供のように。
「きっとそうしたらきみの調子も良くなるよ」
「あなた、一緒に来ていただけない?」
「ぼくが今月の終わりにはスコットランドに行かなくちゃならないというのはきみも知っているだろうに」
ミセス・ハットンは懇願するような目で見上げた。「旅行なんですもの」彼女は言った。「そんなこと、思っただけで、悪夢を見てるみたい。旅行なんてとうていできるとは思えないのよ。それに、わたしがホテルだとよく眠れないのもご存じでしょう。ほかにも荷物だのなんだの、心配事はやまのように出てくるし。ひとりではとても行けそうにないんです」
「ひとりなんかじゃないじゃないか。メイドを連れて行くんだろう」彼の言葉は、苛立ちがこもっていた。病気の女が、健康な人間の領分まで侵害しようとしている。彼の意識は光にあふれた丘や、素早い身のこなしの笑っている娘の記憶から、病がたちこめ、暑すぎる部屋と、そのもちぬしに引き戻されていた。
「わたしは行けそうにないわ」
「だけど行かなくちゃ。医者がそういうんだったら。だいいち、気分転換というだけでもいいじゃないか」
「そんなふうには思えないの」
「そんなことを言ったって、リバード先生はそうしたほうがいい、って言ってるんだろう、先生だって理由もないのにそんなことを言うわけがないじゃないか」
「だめなの。わたしにはそんなことできません。わたし、ほんとうに病気が重いの。ひとりきりじゃとても行けそうにはないんです」ミセス・ハットンは、黒い絹の袋からハンカチを引っぱりだして、目を押さえた。
「馬鹿なことを。少しは自分でやってみなくちゃ」
「ここに残って安らかに死んだ方がいいのよ」ここにいたって、彼女はさめざめと涙に暮れた。
「馬鹿な。少しは筋道立てて考えてみろよ。ちゃんと聞いてくれ。頼むから」ミセス・ハットンのむせび泣きははげしくなるばかりである。「いいかげんにしてくれよ。どうしろっていうんだ」肩をすくめると、彼は部屋をでていった。
ミスター・ハットンには、自分がもっと忍耐心をもって相手をすべきだったことはわかっていた。だが、どうにもならなかったのだ。成人したばかりのころ、彼は自分が貧しい人々や病人、障害のある人や、体に不具合のある人に対して同情を感じるどころか、実際には嫌悪しか感じなかったのである。かつて学生だったころ、イースト・エンドで三日間、役目についたことがある。戻ってきたとき、彼は体の奥底から、耐えがたいほどの嫌悪感でいっぱいになっていたのだった。憐れみのかわりに、不幸な人びとを忌み嫌った。それが好ましい感情ではないことは知っていたので、最初のうちはそういう自分を恥じていた。だが、結局はそれも気性なのだ、だからどうしようもないことなのだ、と割り切ることにして、それ以上は良心の呵責を感じなくなったのだった。エミリーも結婚当初は元気だったし美しかった。そのころには愛もあったのだ。だがいまは――彼女がああだからといって、それが彼のせいなのだろうか。
ミスター・ハットンはひとりで食事をした。食べたり飲んだりしたせいで、食事の前よりも、いたわりの気持ちが生まれていた。さっき見せてしまった苛立ちの埋め合わせをしようと、妻の部屋へ上がって、本を読んであげよう、と申し出た。彼女が感激し、たいそううれしそうに、そうしてくださいな、と言ったので、ミスター・ハットンはとりわけ発音に自信のある、フランス語の軽い読み物はどうかね、と聞いてみた。
「フランス語? わたし、フランス語って大好きですの」ミセス・ハットンはラシーヌの言語を、まるでグリーンピース料理か何かのように言った。
ミスター・ハットンは書斎に駆けおり、黄色い本を一冊抱えて戻ってきた。彼は読み始めた。完璧な発音に心を砕くうち、それに夢中になっていた。それにしても、なんと美しい発音であることか。発音のすばらしさが、読んでいる小説の質まで高めるように思えてくるのだった。
(この項つづく)
第二章
ミセス・ハットンは、自室のソファに横になって、ソリティアをやっていた。七月の暑い宵というのに、暖炉には薪が燃えている。黒いポメラニアンは、熱気と消化不良でぐったりとして、火の前で眠りこけていた。
「ふう、この部屋は暑くないか?」部屋に入ったミスター・ハットンは聞いてみた。
「わたしがいつも暖かくしてなきゃいけないのはごぞんじでしょ」それだけでもう泣き出さんばかりの声である。「寒気がするのよ」
「今夜は少しでも調子がよければいいんだが」
「そんなによくないの」
会話ははずまなかった。ミスター・ハットンはマントルピースにもたれて立っていた。足下に寝そべるポメラニアンを見おろすと、ブーツをはいた右足の先で、小さな犬を転がしてやり、白い斑のある胸と腹をさすってやった。犬は気だるげにうっとりとした顔で寝そべっている。ミセス・ハットンはソリティアを続けていた。手詰まりになると、カードの位置を変え、別の一枚を戻すと続けた。彼女のやるソリティアはいつでもあがるのだ。
「リバード先生は、今年の夏はランドリンドッド・ウェルズに保養に出かけた方がいい、っておっしゃったわ」
「じゃあ行けばいいじゃないか。行きなさい」
ミスター・ハットンはその日の午後のことを思いだしていた。ドリスとふたりでドライブに出かけ、うっそうと繁る森まで行ったのだ。車は木陰に待たせて、そこを出て、風のない、日の降り注ぐ白亜の草原を散歩したのだった。
「温泉地の水を飲むのがわたしの肝臓にはいいんですって。リバード先生は、マッサージをしてもらったり、電気療法も受けた方がいいともおっしゃってらしたわ」
帽子を手に、ドリスは四頭の蝶がマツムシソウのまわりを飛び回っているところにそっと近寄った。蝶はまるで青い炎がちらちらとゆらめいているようだった。青い炎はぱっと立ち上ったかと思うと、ふわふわした火花となって飛び散った。ドリスはそれを追いかけて、笑い、さざめいていた。まるで子供のように。
「きっとそうしたらきみの調子も良くなるよ」
「あなた、一緒に来ていただけない?」
「ぼくが今月の終わりにはスコットランドに行かなくちゃならないというのはきみも知っているだろうに」
ミセス・ハットンは懇願するような目で見上げた。「旅行なんですもの」彼女は言った。「そんなこと、思っただけで、悪夢を見てるみたい。旅行なんてとうていできるとは思えないのよ。それに、わたしがホテルだとよく眠れないのもご存じでしょう。ほかにも荷物だのなんだの、心配事はやまのように出てくるし。ひとりではとても行けそうにないんです」
「ひとりなんかじゃないじゃないか。メイドを連れて行くんだろう」彼の言葉は、苛立ちがこもっていた。病気の女が、健康な人間の領分まで侵害しようとしている。彼の意識は光にあふれた丘や、素早い身のこなしの笑っている娘の記憶から、病がたちこめ、暑すぎる部屋と、そのもちぬしに引き戻されていた。
「わたしは行けそうにないわ」
「だけど行かなくちゃ。医者がそういうんだったら。だいいち、気分転換というだけでもいいじゃないか」
「そんなふうには思えないの」
「そんなことを言ったって、リバード先生はそうしたほうがいい、って言ってるんだろう、先生だって理由もないのにそんなことを言うわけがないじゃないか」
「だめなの。わたしにはそんなことできません。わたし、ほんとうに病気が重いの。ひとりきりじゃとても行けそうにはないんです」ミセス・ハットンは、黒い絹の袋からハンカチを引っぱりだして、目を押さえた。
「馬鹿なことを。少しは自分でやってみなくちゃ」
「ここに残って安らかに死んだ方がいいのよ」ここにいたって、彼女はさめざめと涙に暮れた。
「馬鹿な。少しは筋道立てて考えてみろよ。ちゃんと聞いてくれ。頼むから」ミセス・ハットンのむせび泣きははげしくなるばかりである。「いいかげんにしてくれよ。どうしろっていうんだ」肩をすくめると、彼は部屋をでていった。
ミスター・ハットンには、自分がもっと忍耐心をもって相手をすべきだったことはわかっていた。だが、どうにもならなかったのだ。成人したばかりのころ、彼は自分が貧しい人々や病人、障害のある人や、体に不具合のある人に対して同情を感じるどころか、実際には嫌悪しか感じなかったのである。かつて学生だったころ、イースト・エンドで三日間、役目についたことがある。戻ってきたとき、彼は体の奥底から、耐えがたいほどの嫌悪感でいっぱいになっていたのだった。憐れみのかわりに、不幸な人びとを忌み嫌った。それが好ましい感情ではないことは知っていたので、最初のうちはそういう自分を恥じていた。だが、結局はそれも気性なのだ、だからどうしようもないことなのだ、と割り切ることにして、それ以上は良心の呵責を感じなくなったのだった。エミリーも結婚当初は元気だったし美しかった。そのころには愛もあったのだ。だがいまは――彼女がああだからといって、それが彼のせいなのだろうか。
ミスター・ハットンはひとりで食事をした。食べたり飲んだりしたせいで、食事の前よりも、いたわりの気持ちが生まれていた。さっき見せてしまった苛立ちの埋め合わせをしようと、妻の部屋へ上がって、本を読んであげよう、と申し出た。彼女が感激し、たいそううれしそうに、そうしてくださいな、と言ったので、ミスター・ハットンはとりわけ発音に自信のある、フランス語の軽い読み物はどうかね、と聞いてみた。
「フランス語? わたし、フランス語って大好きですの」ミセス・ハットンはラシーヌの言語を、まるでグリーンピース料理か何かのように言った。
ミスター・ハットンは書斎に駆けおり、黄色い本を一冊抱えて戻ってきた。彼は読み始めた。完璧な発音に心を砕くうち、それに夢中になっていた。それにしても、なんと美しい発音であることか。発音のすばらしさが、読んでいる小説の質まで高めるように思えてくるのだった。
(この項つづく)