陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

突き刺さる視線

2007-08-31 23:09:03 | weblog
知り合いのなかに、人生の半分ほどを日本で過ごし、日本人と結婚したにもかかわらず、日本語をほんの片言しかしゃべれない外国人がいる。聞くのは、早口でなければ、だいたい聞き取れるのだそうだ。だが、もちろん日本語は、カタカナ、ひらがなもほとんど読めないし、漢字はなおさらそうで、十年以上住んでいる自宅の住所の漢字表記も読めない。使える日本語は、単語をいくつか、あとは「ソウデスネー」「アリガトゴザイマシター」ぐらいで用を足している。二十年ほどそういう状態で来た、ということは、日本では日本語が使えなくても生活ができるということなのだろう。

もちろん、彼は日本が大好きだ。浮世絵、京都、神社、寺、着物、お茶、生け花、家は和室だし、仕事のないときは作務衣で過ごしているのだそうだ(ずいぶん大きなサイズが必要だろうが)。相撲が大好きで、以前、用事でこの人の家へ行ったときに、ちょうどいいところなのだ、としばらく待たされた。しかたがないので、一緒に見ることになったのである。

相撲というのは、実際の取り組みが始まるまでに、ずいぶん時間がかかるもので、わたしは力士が土俵に上がっても一向に始まらないので、すっかり飽きてしまった。
相撲をまともに見た経験もないし、力士も知らない。谷崎潤一郎が相撲がきらいだった、というエピソードをたぶん丸谷才一のエッセイだったと思うが読んだことはあるけれど、わたしの場合は嫌うほどの知識もないのだった。
それでも辛抱して見ていると、取り組みが始まった。確かに、しゃがんだ態勢から立つまでの速さとか、一瞬で技が入るところとか、見ているとおもしろい。それでも、一瞬の取り組みを見るために、ずっと辛抱して見なければならないのだから、大変なのである。これなら、用事を片づけながら、取り組みの瞬間だけ見れば良いのに、と思ったが、そういうわけにはいかないらしかった。

やっとのことで最後の一番になった。驚いたことに取り組みが終わると、観客が大勢、土俵に向かって座布団を投げ入れている。
彼らはいったい何をしているのか、と日本人であるわたしが、アメリカ人に対して英語で相撲のことを聞くという、不思議なことになってしまったがしかたがない。そこでモンゴルから来た大変強い、「アサショーリュー」という名前のお相撲さんのことを知ったのである。

それからしばらくのちに、「アサショーリュー」とは「朝青龍」であることを知った。その文字を新聞の見出しやネットのニュースのヘッドラインで見るたびに、座布団が乱舞していた情景を思いだしたのだった。

異国で生活するというのは、それだけできついものである。しかも、大勢の人間から注目を浴び、さらにそれが好意的な視線ばかりでないとなると、そのきつさはどれほどのものだろう。

たまに外国人と一緒に歩いていると、こんな経験をする。
人通りを歩く。店に入る。さまざまな視線が、まず自分の隣にいる外国人に留まり、それからすっとそらされ、わたしの方へ向かう。ジロジロ見るわけではない。まるで、見てはいけないものを見たように、視線はそれて、わたしに向かう。そうして、わたしのほうは、まるで珍しい動物を、場違いな場所に連れて入った飼い主であるかのように、上から下までジロジロと遠慮のない視線にさらされる。

日本語を覚えない、というのは、おそらくそうした視線に対するひとつの対応策だ。
自分は彼らとは関係ない。彼らとはコミットしない。だから、視線を向けられても関係ない。
言葉を覚えないというのは、意識して距離を縮めないということなのだろう。そうやって、距離を保つことで、その人は自分を守ろうとしているのだ。

相撲という世界にいれば、日本語を覚えないわけにはいかないだろう。自分に向けられる視線の意味も、言葉を理解することで、余計にはっきりと向き合わざるを得なくなる。防護膜もなしに、直接さらされることになる。

朝青龍をめぐる一連の報道を、別に関心を持って見ていたわけではない。ただ、ときどきニュースサイトや新聞の記事を見るだけだ。

ただ思うのは、その人間が負わされている条件というのは、それぞれに応じてまったく異なるということだ。ある行動が良いか悪いかという判断も、その条件に応じて決まってくるもののはずなのである。当然、ある行動に対する評価というものは下される。けれど、その行動の評価は、それを下す立場の人間が、あくまでもその行動に対する評価であるべきで、たとえば人間性であるとか(そもそも人間性ってなんだ?)、あるいは周囲の諸関係とか、そういうことまでが取りざたされるのは、おかしいように思うのだ。

少なくとも、なんらかの責任を持たない人間、所詮、観客(あるいは野次馬)でしかない人間であれば、批判的なことをいう前に、日々彼が受けていたであろうプレッシャーのきつさに、一度、思いを馳せて見てはどうかと思うのである。

その昔、東西線の中で、とある芸能人を見かけたことがある(とある、と書いたのは、わたしがその人の名前を知らないからだ。一緒にいた友だちが、あれは××よ、と教えてくれたのだが、わたしはその人を知らなかったので、全然記憶に残らなかったのである)。
背の高い人で、昼間、がらがらの電車だったが、ドアの近く、手すりにもたれるように立っていた。だが、その人は、地上190センチあたりに目をやったまま、決して誰とも目を合わそうとしなかった。そうして、その人の周りには、確かに、「おれを見るな。おれに話しかけるな」というアウラが漂っていたのである。


(※ええと、既にアナウンスしていますが、サイト更新しています。「ジョコンダの微笑」のアップです。お暇なときにでも読んでみてください)

サイト更新しました

2007-08-31 12:12:49 | weblog
先日までここで翻訳をやっていた「ジョコンダの微笑」まとめてサイトにアップしました。長さもさることながら、あとがきがうまく書けなくて、ずいぶん苦労してしまいました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

ほんとは昨日のうちにアップするつもりだったんですが。

またお暇なときにのぞいてみてください。