陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョージ・オーウェル「なぜわたしは書くのか」その1.

2009-12-28 23:43:30 | 翻訳
今日からジョージ・オーウェルのエッセイ " Why I Write" を訳していきます。
短いものだから年内に終わりたいと思うのですが、もしかしたら越年するかもしれません。

原文はhttp://www.orwell.ru/library/essays/wiw/english/e_wiwで読むことができます。


* * *


"Why I Wright" (なぜわたしは書くのか)

by George Orwell


(その1)


 わたしの場合、ごく幼いうちに、おそらく五歳か六歳のころには、自分が大人になったら作家になることがわかっていた。十七歳から二十四歳にかけては、どうにかしてこの予感に逆らおうとしたものだが、そうしながらも、いまはただ自分が持って生まれた性質に背こうとしているだけで、遅かれ早かれ自分は本を書くことになる、という思いが揺らぐことはなかった。

 わたしは三人きょうだいの真ん中ではあったが、上とも下とも五つずつ歳が離れており、しかも八歳になるまで、父親の顔を見ることもまれだった。そのせいもあって、わたしには孤独癖のようなものが身についてしまい、長ずるにつれ、かたくなさまでもが加わったため、学校時代を通じて人気者となったためしがなかった。

孤独な子供がよくやるように、お話をこしらえては想像上の人物と会話していたのだが、つまるところ、わたしの文学的野心の萌芽は、孤立感と人から軽んじられてきた経験が、ないまぜになったものだったのだろう。自分にとって言葉をあやつるのはたやすいことであり、不快な現実からも目を背けないでいられる度胸が備わっていることも知っていた。だからこそ、日常生活でうまくいかなくても、そこから一歩退いて、自分だけの世界を作り上げればいいと思っていたのである。

そうはいうものの、ちゃんとした――というか、自分ではちゃんとしたものだと思っていた――書き物は、子供時代から少年期を通じても、全部合わせて五~六ページにも満たなかったにちがいない。初めて詩を書いたのは四歳か五歳のときで、母がわたしが語るのを書きとめてくれたのである。覚えているのはただ、虎についての詩だったことと、その虎には「イスみたいな歯」が生えている、という一節があったことだけだ――なかなかいいフレーズではあるが、おそらくブレイクの「虎よ、虎」の着想をそっくりいただいたにちがいない。

十一歳のとき第一次世界大戦が勃発し、わたしは愛国的な詩を書いて、地元の新聞に掲載された。さらにもう一度、二年後にキッチナー将軍の死をうたった詩も載った。もう少し大きくなってからは、折にふれてジョージ王朝様式で「自然詩」を書こうとしたのだが、こちらはひどいもので、いずれも最後まで書き上げることすらなかった。短編小説を書こうとしたこともあるが、これまたおぞましい出来ばえだった。以上がこの時代にわたしが形にした、未来の傑作のすべてである。

 だがこの年代は、ある意味では文学活動に浸っていたといってもよかった。まず、頼まれるままに、さほど楽しむこともなく書き飛ばした文章がある。学校の課題は別にしても、滑稽な即興詩を、いまから考えると信じられないほどの速さで書くことができたし、十四歳のときには、アリストファネスをまねて、詩劇を一週間ほどで書き上げたこともあった。校内誌――印刷されたものも、手書きのものもあった――の編集も手伝った。ご想像どおりこうした雑誌の多くは、貧相で面白半分の域を出ないものだったが、いまのわたしなら、仮に最底辺の雑誌に載せる文章であっても、あれほど気楽に書き殴ることはない。

だが、こうしたものと並行して、およそ十五年以上も、わたしはまったく種類のちがう文学的修業を重ねていた。それは、自分自身についての「物語」を、たえず紡ぎ続けることである。頭の中にだけ存在する日記ともいえよう。だが、おそらくこれは幼年期から思春期にかけて、多くの子供がしていることなのではなかろうか。

まだほんの小さなころは、自分がたとえばロビン・フッドになったように空想し、主人公の自分が胸躍る冒険に乗り出す場面を思い描いたものだった。だが、ほどなく、わたしの「物語」はナルシシストじみたお粗末な時期を脱し、自分の行動や見たものの、忠実な描写を心がけるようになる。しばらくのあいだ、こんな文章がわたしの頭を駆け回るのだ。

「彼はドアを押してその部屋に入った。モスリンのカーテンの向こうから差す一筋の黄色い陽光が、テーブルを斜めに横切っている。テーブルのインク壺のとなりには、半分口を開けたマッチ箱がある。右手をポケットにつっこんだまま、彼は窓辺に歩いた。眼下の通りでは、枯れ葉を追う三毛猫が走っている」などという具合に……。

この習慣は、二十五歳ごろまで、要するに作家として立つまでずっと続いた。的確な言葉を探さなければならなかったし、実際、うまく見つけることもできたのだが、反面、自分の意思に逆らっているような、外部の強制によって記述させられているような気もした。この「物語」には、それぞれの年齢でわたしがあこがれていた、さまざまな作家の文体の影響を受けていたにちがいないが、記憶にあるかぎりでは、描写の綿密さの質は保っていたはずである。

 十六歳になったとき、わたしは突然、ただの言葉に過ぎないものが与える喜び、たとえば響きであるとか、言葉のかもしだす多様なイメージなどといったものに目ざめた。たとえば『失楽園』のこんな一節。

  かくて彼は困難と闘い、辛酸をなめ
  進みつづけた 極に達した困難と辛酸の中を

いまとなっては、さほどすばらしいとは思えないような箇所に、背筋がしびれるほどの興奮を覚えたのである。「彼」のつづりが‘he’でなく‘hee’となっていることまでが感動を増した。

描写の大切さについては、すでに十分認識していた。わたしが書こうとしていた本、つまり、当時のわたしが“こういう本が書きたい”と思っていた本がどんなものかはあきらかだった。自然主義的な大長編小説、悲劇的な結末をもち、細密な描写にあふれ、巧みな比喩を駆使し、響きを存分に生かした語句をふんだんにちりばめた、絢爛たる文体の作品である。そうして実際に、わたしの初めて完成した長編小説『ビルマの日々』――実際に筆を執ったのは三十歳になってからだが、腹案を抱いていたのははるかまえにさかのぼる――は、そうした傾向に沿ったものだ。


(この項つづく)



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2 コメント

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Unknown (save)
2009-12-29 18:28:01
オーウェルには、こんなエッセイがあったのですか。
興味深いエッセイです。
オーウェルの『1984年』を読もうか、でももうひとつ気が進まない……
そんな状態だったので、これが後押ししてくれるかもしれません。
わたしは元々エッセイが好きなので、
(カーヴァー全集を買って、エッセイをはじめに読んだというくらい。小説のあとがきもエッセイみたいに読むのですが、『夕暮れをすぎて』では「先にあとがきを読もうとした方、この恥知らず」みたいなことが書いてあったので、さすがに読みませんでしたが……)
こういったエッセイが訳されるのは嬉しいですね。エッセイを読むと、その作家がより好きになったりするという理由もありますが。
名作で、読書家としては読まねば、と思うような作品だけれど、どうもちょっと、というときはエッセイからですね。名作だとその人自体が気難しいイメージが強い(それはわたしだけかもしれませんが)のですが、エッセイを読むと、その作家も「人間だなあ」とか「面白い人なんだなあ」とか、その作家の人となりがわかる気がして。
時々、こういう面白いエッセイなどを訳してくれると嬉しいものです。
それにしても訳すの速いですね。
いやいやとんでもない (陰陽師)
2009-12-31 23:39:21
saveさん、こんばんは。
年を越さないうちに(笑)。

書き込みありがとうございました。
エッセイがお好きなんですね!
その気持ちはよくわかります。

日本人ならともかく、外国人で、初めての作家で、だんだん読み進むうちに呼吸が合ってくる長編ならともかく、短篇だと、作者が「どんな人」かわかる前に終わっちゃったりしますよね。

そんなとき、エッセイはその人の手触りみたいなものがつかめて、とってもありがたい。

ただエッセイというのは、あまりオンラインで読めないんです。ほんとにおもしろいのが多いんですが。
見つけたら、またおいおい訳していくので、よろしくお願いしますね。

訳すのは、決して速くないです。この回は訳しやすかったので、一時間ちょっとかな、だけど、わからない言葉や詩が出てきたりすると、ほんと、頭を抱えます。わー、英語もできない、単語の知識もない……って感じです(笑)。

それでも自分の誤訳は棚に上げて、本になってるものの誤訳を見つけると、頭に来る。これを訳したのも、岩波で小野寺さんが訳されてるのが、なんかちがうんじゃないか、みたいに思ったこともひとつあるんですよね。自分が正しいという保証はどこにもないんですが。

ただ、指摘を受けたら訂正できるのが強みです。
だからおかしいところがあったら、どうかご指摘お願いします。
意味が通じないところってたいてい誤訳なんですよね(笑)。

書き込み、ありがとうございました。
また遊びに来てくださいね!

では、よいお年を!

読みに来てくださってどうもありがとうございます。

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