陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

プライバシーは隠し事?

2009-12-27 22:57:46 | weblog
その昔、住んでいたところで、収集日のゴミの出し方が問題になったことがあった。分別されていないために、ゴミ回収のトラックが来ても、置いていかれてしまうのだ。取り残されたゴミ袋を、当番の人が中身を改めて、出した人のところへ戻す、ということが、何度かあったらしい。

回覧板で注意と一緒に経過説明が回ってきて、わたしはなんとおそろしい、と思った。自分が出したゴミの中身を他人に改められるのだ。冗談じゃない、とやたら神経質になってしまった。さらにはまちがっても名前があるようなものは棄てないように気をつけて、ダイレクトメールなどは手回し式のシュレッダーを買って、キコキコと細かくして出すようにした。ところが気にならない人は気にならないのか、そもそもそんな人は回覧板すら見ないのか、事態は一向に改善されなかったらしい。分別の呼びかけはそれからあとも何度も続いた。

ゴミ袋の中身を見るなんて、プライバシーの侵害ではないか、という声もあったらしい。自治会の会長が書いた「お知らせ」には、プライバシーなどというのは後ろ暗い人の言いぐさで、自分の名前を袋に書けるほど、きちんとゴミの分別をしてほしい、という内容のことが書かれていた。

どうやらプライバシーというのは、その人にとっては「隠し事」という意味らしかった。人には他人の立ち入りを拒む権利、干渉を拒否する権利を有する領域がある、などということは、考えたこともないらしい。会長というのは当時七十代の人だったが、このぐらいの年代の人だと、こういうふうな考え方をするものなのだろうかと考えたものだ。

それから十年以上が経つけれど、実はいまでもプライバシーというと、秘密を持つとか隠し事をする、といった理解の仕方をしている人が少なくないのかもしれない。

というのも、もう最近では文句を言うのもバカらしくなるほど一般的になってしまったのだが、電車のなかや食事をする場所で化粧直しをしたり、声高に携帯電話でしゃべったりしている人を目にすると、わたしはいつもこの人はプライバシーということをどのようにあるのだろう、と思ってしまう。

髪の毛をとかしたり、身仕舞いをしたり、個人的な電話をしたりするような行動は、あくまでもプライベートに属することだ。それを平気で他人をも巻き込んで公共の場で行えるというのは、公的な領域と私的な領域の区別をその人がつけていないということなのではないか。

その人にとって、電車や往来は公共の場ではなく、私室の延長。そこにいる人は単なる背景、書き割りに過ぎないのだろう。迷惑そうな視線も、部屋の電気器具が立てるノイズと同じなのだろう(だからこそ、反対からいえば、人は実質的に迷惑をかけられること以上に、電車の中での化粧や電話が不快感を覚えるのだ。自分がノイズ扱いされていることに対する不快感だ)。

どこでも私室の延長、となっていくと、それこそプライバシーというのは、「人の目から隠さなければならないこと」になってしまう。扉を閉めて、身仕舞いをしたり着替えたり、個人的な用件を片づける必要がないのであれば、扉を閉めてすることは、ほんとうに限られてしまうのではないか。

そんな人にとってのパブリック・スペースは、いったいどんな場所なのだろう。知っている人が集まる場所なのだろうか。気にするのは友だちの視線や評価だけ、となると、逆にそれがとんでもなく重くなってくるような気がする。

結局のところ、自分のプライバシーを大切にするということは、共同体の一員であると同時に、「個」としてある自分を大切にする、ということだ。はっきりと公共の一員であるという意識を持つことによって初めて、逆に「自分は自分である」という意識を高め、プライバシーの意識を高めることになっていくのかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿