陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

象を撃つ ――ジョージ・オーウェル その2.

2005-03-30 22:28:07 | 翻訳
 そんなある日に起こった事件が、間接的なやりかたではあったけれども、いろいろなことをあきらかにしてくれたのだった。事件そのものは些細なできごとだったのだけれど、それまでに体験したどんなことより帝国主義というものの本質、専制政治を動かしているほんとうの動機を、垣間見ることができたのだ。

ある朝早く、町の反対側にある警察署の警部補から電話があって、象が一頭、市場で暴れているという。こちらに来て、なにか手を打ってもらえないだろうか。いったい何をすればいいのやら見当もつかなかったけれど、どんなふうになっているのか知りたくて、ポニーに乗って出向くことにした。ライフルは持っていったが、旧式の四四口径のウィンチェスター銃では、象を射殺するには非力すぎる、それでも銃声で脅すぐらいの役には立つのではないかと考えたのである。

とちゅうで大勢のビルマ人に呼び止められて、象がどうしたという話を聞かされた。もちろん野生の象ではなく、飼われている象に「さかり」がついたのだ。象は鎖でつながれていた、というのも通常、発情期に入った家畜用の象はそうすることが義務づけられていたからなのだが、昨夜、鎖をちぎって逃げ出したらしい。こういう状態になったときに言うことを聞かせられるのは、その象の象使いしかいないのだが、追いかけていったはいいが、方向がちがっていて、いまや十二時間もかかる場所にいるという。ところが象ときたら、突然町に戻ってきたのだ。

ビルマ人は武器を持つことができなかったから、どうすることもできない。竹作りの民家を一件壊し、牛を一頭殺し、露天の果物屋を襲撃して、売り物をむさぼった。おまけに町営のごみ回収車に出くわして、運転手が飛び出して逃げていくと、車をひっくりかえしてめちゃくちゃにしてしまった。

 ビルマ人の警部補とインド人の巡査が数名、象が現れたという区域で待っていた。非常に貧しい一帯で、棕櫚の葉で屋根を葺いたみすぼらしい竹の小屋の家並みは、丘の急斜面に入り組んだ迷路をつくりだしていた。雨季の初めの、雲の低く垂れ込める蒸し暑い朝だったのをいまでも覚えている。

象がどこへ行ったか、住民に聞き込みを開始したが、例によってなにひとつはっきりした情報は得られない。東洋ではいつもこうなのだ。遠くで聞いていればはっきりした話が、いつだって現場に近づくにつれ、曖昧になっていく。あっちへ行った、いやこっちだ、なかには象のことなんか聞いたこともない、ときっぱり言い放つ輩まで現れる。まったくの作り話だったのだ、と思いかけたそのとき、すこし離れたところから叫び声が聞こえてきた。

「子どもはこっちに来るんじゃない、さっさとあっちへ行け!」と苛立った怒鳴り声がしたかと思うと、小屋の陰から小枝を手にした老婆が現れ、裸の子どもたちを荒々しく追い立てる。その後ろからさらに何人かの女が、舌打ちし、叫びながら出てきた。子どもが見てはならないものがそこにあるのはあきらかだった。

わたしが小屋の裏手にまわってみると、男の死体がぬかるみに横たわっていた。インド人だ。色の黒いドラヴィダ族の苦力(クーリー)で、裸体に近く、ほんのいましがた命を落としたようだ。小屋の陰から現れた象が、いきなり襲いかかってきて、鼻でつかまえると背中に足をかけ、ぬかるみで踏みつけたのだという。雨季ということで地面は柔らかく、男の顔は三十センチちかくも泥のなかに埋まり、二メートル近く引きずられた溝ができていた。

男は両腕を横に広げてうつぶせに倒れ、首が鋭角に曲がっている。泥だらけの顔は、目をかっと見開き、歯をむき出しにして、耐え難い苦悶の表情を浮かべていた(余談ではあるが、死者の顔が安らかだ、などと言わないでもらいたい。わたしが見たことのある死体のほとんどは、怖ろしい形相だった)。巨大な獣の足でこすられたせいで、背中の皮はウサギの皮をはいだように、すっかりはぎとられてしまっていた。死体を目の当たりにしたわたしは、即座に近くの友人宅に使いをやって、象狩りに使うライフルを貸りに行かせた。ポニーはそのまえに送り返していた。象の臭いに怯えて暴れ、振り落とされでもしたらたまらない、と思ったからである。

 使いは数分もすると、ライフルと薬包を五発持って戻ってきたが、そのあいだにも、何人かのビルマ人が来て、象ならここから数百メートルほど先の、ふもとの水田にいると教えてくれた。わたしが歩き出すと、その地区の住民のほとんど全員が家から出てきてあとからついてくる。ライフルを見て、口々に象を撃つんだ、と叫んで大騒ぎをしだしたのだ。

象が家を壊したくらいでは、たいした関心も示さなかったのに、象を撃つとなると話は別らしい。イギリスの野次馬と同じく、ビルマ人にもちょっとしたみものだったのだ。加えてその肉もほしかったようだが。

わたしはなんとなく不安な心持ちだった。象を撃つつもりなどなかった――ライフルを借りにやったのは、単に万一の場合に我が身を守るためだったにすぎない――し、群衆が後ろからついてくるというのは、どんな場合でもあまり気持ちのいいものではない。ライフルを肩にかけ、馬鹿づらをさげ、実際に馬鹿になったような気分で丘を降りていくわたしの後ろに、押し合いへし合いしながらついてくる群衆は、増えていくばかりだった。

丘のふもと、家並みが途切れると、砂利道に出た。その先は何キロにも渡って、荒れた泥田が続いている。田起こしが始まってもいないのに、雨季の最初の雨でぬかるみになり、点々と雑草が生えていた。象は道路から80メートルほど離れたところに、こちらに左側を向けて立っていた。近づく群衆にも目もくれず、雑草のかたまりをむしっては、膝に叩きつけて泥を落とし、口に押し込んでいる。

(この項つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿