先日「嘘をつく話」という文章を書いたのだが、それについてもう少し。
嘘をつくことに対して、真実を言う、というのは、どういうことなのだろう。
知り合いと会った。相手は興味もないことをくどくどと話し始めた。いい加減で切り上げたいと、「ごめん、急用を思い出した」と言う。これは嘘だ。
だが「もうそんな話、聞きたくない。帰るよ」と言ったとする。
はたしてこれは真実なんだろうか。
たしかにその一瞬を切り取れば、それは真実と言えるだろう。だが、彼とそれっきり縁を切りたいわけではない。それほど好きではないが、かといって嫌う必要もない。まして相手から恨まれたりはしたくない。つかずはなれず、知り合いという関係を保っていたいと考えたとする。そういう未来をも視野に入れた考えでいくと、
「もうそんな話、聞きたくない。帰るよ」
というのは、かならずしもその人の真実とは言えないのではあるまいか。むしろ、「ごめん、急用を思い出した」のほうが、その人の心情に近い発言ではないか。
あるいは別れ話をする人間が、相手を傷つけまいとして「あなたのことがきらいになったわけじゃない」と言う。これは真実ではないかもしれない。けれども傷つけまいとするのは、別れ話をうまく進めるためだけなのだろうか。もはや恋愛感情はないけれど、相手を傷つけたくはないという思いは「きらいになったわけじゃない」とどれほどちがうのだろうか。
以前にも引用した夏目漱石の「模倣と独立」に「その罪を犯した人間が、自分の心の径路をありのままに現わすことが出来たならば」という部分があるのだが、おそらく人間にはそういうことはできない。漱石も、そういうことは小説にしかできないといっているように思う。過去と現在と未来が織り込まれている人間の「心の径路」は、おそらく「ありのままに現わすこと」はどうしても無理なことなのである。
言葉はどれほど「真実」であろうとしても、かならず言葉にならない部分があるし、その時点で意識にのぼらない部分もある。そうした意味で、百パーセントの真実を言うことは不可能なのだ。
だからこそ、自分の言葉の嘘の部分、自分がかならずしもほんとうに頭にあることだけを言っていないということに、意識的である必要があるように思う。
「方便」として嘘を言っているのなら、それは何のためか。自分はいったい何を意図してこの嘘をついているのか。「方便」とはあくまでも「ある目的を達するために用いる便宜的な手段」(明鏡国語辞典)なのだから。
ところが多くの場合、わたししたちは「嘘も方便」という言葉を、目的とは関係なく、自分を正当化するために使っているような気がしてならない。
というのも、わたしたちは相手の嘘に関しては、この言葉を使わないからなのだ。
誰かが事実に反することを言ったことが明らかになったとする。わたしたちはそういうときに決して「嘘も方便」とは言わない。単純に「だまされた」と言う。
けれど、本当にそうだったのだろうか。相手も何か目的があって、それを達するために「便宜的に」そう言ったのでは?
相手の心の底でいったい何が起こったからそう言ったのか、わたしたちは知ることができないのに、ただ、だまされた、と言い、嘘をつかれた、と腹を立てる。
そういう場合にこそ「嘘も方便」だから、自分にはうかがいしれない理由があったにちがいない、と考えるべきなのではないのだろうか。
だから「嘘も方便」というときは、少し注意が必要のように思う。
ここでもういちどカントの「殺人者の問いかけ」の例に戻って考えてみたい。
殺人者がやってきて聞く。「やつはどっちへ行った?」
ここで、頼まれたとおりに「家に帰った」と言うとする。
ここで確かに真実は損なわれるかもしれない。
けれども、そのことでこの人の命は助かり、こののち、わたしとこの人のあいだに関係が続いていくとすれば、この時点で損なわれた真実も、また築いていけるかもしれないと思うのだ。
真実を言わなければならないとして、彼が逃げた方向を示すとする。殺人者は追いかけて、その人を殺してしまったとする。その人との関係はもう築くことができない。
そういう未来に「真実」はあるんだろうか。
嘘をつくことに対して、真実を言う、というのは、どういうことなのだろう。
知り合いと会った。相手は興味もないことをくどくどと話し始めた。いい加減で切り上げたいと、「ごめん、急用を思い出した」と言う。これは嘘だ。
だが「もうそんな話、聞きたくない。帰るよ」と言ったとする。
はたしてこれは真実なんだろうか。
たしかにその一瞬を切り取れば、それは真実と言えるだろう。だが、彼とそれっきり縁を切りたいわけではない。それほど好きではないが、かといって嫌う必要もない。まして相手から恨まれたりはしたくない。つかずはなれず、知り合いという関係を保っていたいと考えたとする。そういう未来をも視野に入れた考えでいくと、
「もうそんな話、聞きたくない。帰るよ」
というのは、かならずしもその人の真実とは言えないのではあるまいか。むしろ、「ごめん、急用を思い出した」のほうが、その人の心情に近い発言ではないか。
あるいは別れ話をする人間が、相手を傷つけまいとして「あなたのことがきらいになったわけじゃない」と言う。これは真実ではないかもしれない。けれども傷つけまいとするのは、別れ話をうまく進めるためだけなのだろうか。もはや恋愛感情はないけれど、相手を傷つけたくはないという思いは「きらいになったわけじゃない」とどれほどちがうのだろうか。
以前にも引用した夏目漱石の「模倣と独立」に「その罪を犯した人間が、自分の心の径路をありのままに現わすことが出来たならば」という部分があるのだが、おそらく人間にはそういうことはできない。漱石も、そういうことは小説にしかできないといっているように思う。過去と現在と未来が織り込まれている人間の「心の径路」は、おそらく「ありのままに現わすこと」はどうしても無理なことなのである。
言葉はどれほど「真実」であろうとしても、かならず言葉にならない部分があるし、その時点で意識にのぼらない部分もある。そうした意味で、百パーセントの真実を言うことは不可能なのだ。
だからこそ、自分の言葉の嘘の部分、自分がかならずしもほんとうに頭にあることだけを言っていないということに、意識的である必要があるように思う。
「方便」として嘘を言っているのなら、それは何のためか。自分はいったい何を意図してこの嘘をついているのか。「方便」とはあくまでも「ある目的を達するために用いる便宜的な手段」(明鏡国語辞典)なのだから。
ところが多くの場合、わたししたちは「嘘も方便」という言葉を、目的とは関係なく、自分を正当化するために使っているような気がしてならない。
というのも、わたしたちは相手の嘘に関しては、この言葉を使わないからなのだ。
誰かが事実に反することを言ったことが明らかになったとする。わたしたちはそういうときに決して「嘘も方便」とは言わない。単純に「だまされた」と言う。
けれど、本当にそうだったのだろうか。相手も何か目的があって、それを達するために「便宜的に」そう言ったのでは?
相手の心の底でいったい何が起こったからそう言ったのか、わたしたちは知ることができないのに、ただ、だまされた、と言い、嘘をつかれた、と腹を立てる。
そういう場合にこそ「嘘も方便」だから、自分にはうかがいしれない理由があったにちがいない、と考えるべきなのではないのだろうか。
だから「嘘も方便」というときは、少し注意が必要のように思う。
ここでもういちどカントの「殺人者の問いかけ」の例に戻って考えてみたい。
殺人者がやってきて聞く。「やつはどっちへ行った?」
ここで、頼まれたとおりに「家に帰った」と言うとする。
ここで確かに真実は損なわれるかもしれない。
けれども、そのことでこの人の命は助かり、こののち、わたしとこの人のあいだに関係が続いていくとすれば、この時点で損なわれた真実も、また築いていけるかもしれないと思うのだ。
真実を言わなければならないとして、彼が逃げた方向を示すとする。殺人者は追いかけて、その人を殺してしまったとする。その人との関係はもう築くことができない。
そういう未来に「真実」はあるんだろうか。
『猿の手』を拝読しました。やっぱり、いつだったか読んだ記憶がありました。ホラー系ながら人間心理もキッチリ描かれていて端正な短編の一つだなと思います。作中の母親が息子を取り戻そうと狂乱する姿は、ある種のエロスを感じさせます。男親にはない部分なのかもしれません。
ところで
>「方便」として嘘を言っているのなら、それは何のためか。自分はいったい何を意図してこの嘘をついているのか。
>「方便」とはあくまでも「ある目的を達するために用いる
最低限度の自分のテリトリーを守るためなら許容範囲じゃないかなと思います。また社交辞令的な嘘も、自他を不必要に傷つけず守るための真心から発しているのであれば、それは必ずしも嘘の範囲に入れなければならないことではないと思います。
問題になってしまうのは、そこから逸脱して過剰な欲によって他人をコントロールするために嘘をつく場合でしょう。この場合は必ず問題が大きくなります。
でも、おかしなもので、こういう嘘をつく人は、また意識の奥底に後ろめたさを押し込めていたりもしますから、自分が大きく逸脱した嘘をついているということに気づきたくなくて直視できなかったりするんです。そして今度は目をそらすための嘘を、そのうえに積み重ねてしまいがちなんです。だから早く気づかなきゃいけないんだと思います。
>こののち、わたしとこの人のあいだに関係が続いていくとすれば、この時点で損なわれた真実も、また築いていけるかもしれない
>その人との関係はもう築くことができない。
そういう未来に「真実」はあるんだろうか。
自分との関係が続いていくかどうかは度外視して、相手の命を助けたいだけ、という理由もあり得ると思います。
嘘をつくにせよ本当のことを言うにせよ、破壊の痕しか残せないのでは、しょうがないじゃないかと思います。
それにしてもカントってガチガチですね(笑)