陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

恐いものの話

2006-10-31 22:42:14 | weblog
恐いものの話

ここだけの話なのだけれど、わたしは恐いものがたくさんある。
とくに恐いのが、歩道にはまっている金属板である。
おそらく、その下には排水溝が通っているのだろうと思う。
たまに緩くなったり、部分的に反ったりしていて、通るたびにバカバカと音がしているようなものは恐くてたまらない。
自転車でそこを通るときは、可能な限りそこを避けて、その上を通らないようにする。

ところが図書館に行く道の途中、歩道の幅一杯に金属板がはまっている場所があるのだ。
しかもその金属板は古く、端が反っていて、しかも隙間まで空いている。
わたしにとっては悪夢のような金属板なのである。当然、わたしの乗る自転車は、その部分は避けて車道を走る。一方通行の、道幅がせまいところなので、車道を走っているとクラクションを鳴らされたりもするのだが、歩道など走れたものではないのである。

なんでそんなに恐いのか、自分でもよくわからない。
やはりどこかで、そこを通って落ちたらどうしよう、と思っているからなのだろうか。
歩道の脇にふたのない排水溝が通っているところもあって、落ちる危険はそちらのほうがはるかに高いはずなのだが、そちらはまったく恐くない。
危ないな、気をつけなくては、と思うだけだ。
ふたがはまっていて、そこの上を通るのが恐いのだ。

ボブ・グリーンの『マイケル・ジョーダン物語』のなかに、シカゴ・ブルズのチーム・メイト、スコット・ピッペンの話がでてきた。ピッペンは、スコア・ボードが頭に落ちてきたら、と思うと、恐くてしょうがないらしい。だから、いつもその下に立たないようにしている、と言っていた。2メートルをはるかに超す大男のバスケット・ボール・プレイヤーがそんなことを言うなんて、と、ボブ・グリーンはおもしろがっていたのだけれど、「恐い」と思う気持ちは、理不尽なものなのではあるまいか。

昔から排水溝のふたの上を通るのが恐かったのだろうか。
遠い記憶のなかに微かに母の声がする。あそこに気をつけなさい。ぐらぐらしてるから。そこを踏むと落ちるよ。

うーん。それなのだろうか……。

ただ、以前は通り道にそういうものがなかったのかもしれないのだけれど、あまり意識にのぼらなかったように思える。
やはり、図書館に行く道のそれが、意識の底に沈んでいた小さな時の記憶を呼び覚ましたのだろうか。

小さい頃、よく熱を出していたわたしは、熱を出すたびに見る悪夢があった。
地面の中から手がにゅっと出てきて、わたしの足をつかむのだ。
わたしの水色のズック靴と、白いレースがついている三つ折りソックスが、地面から出てきた、茶色い節くれ立った手につかまれる。そうして、その手はわたしを地面に引きずり込もうとする。
わたしは一体、何度、悲鳴を上げて目を覚ましただろう。

後年、ブライアン・デ・パルマが監督した映画『キャリー』を見たとき、そのエンディングがどれほど恐かったか。
いまでこそあの手法はすっかりあたりまえになって、ホラーというと、最後の一撃を「来るぞ、来るぞ」と待ちかまえるようになってしまったけれど、それの元祖が『キャリー』なのである。
そのシーンを、何の予備知識もなく見たわたしは、文字通り、心臓が停まるほどの衝撃を受けた。夢であまりによく知っている場面だったからだ。

地面に引きこまれる恐怖と、排水溝のふたが恐いのと、やはり関係があるのだろうか。

さらに言えば、狭いところが恐い。
小学校の修学旅行で東大寺に行ったときのこと。
大仏殿の柱の下に、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が開いている場所がある。
クラスメイトたちは列をつくって穴くぐりをやっていたが、わたしは、冗談じゃない、と思ったのだった。

たぶん映画『大脱走』を初めて見たのはそのころだったような気がする。リバイバル上映をしていたのを、父親に連れられて見に行ったのだけれど、そのなかで、トンネル掘りのプロフェッショナルであるチャールズ・ブロンソンが、実は閉所恐怖症で、そこに入っていけない、と泣くシーンがあって(記憶だけで書いているので、ちがっているかもしれない)、その気持ちは実によくわかった。実際、匍匐しながら通るのがやっと、という土の中を、それも長い距離、進んでいくというのは、考えただけで気が遠くなる。

もうひとつ、脱走ものといえば思い出すのが『ショーシャンクの空に』である。これは『キャリー』と同じく、スティーヴン・キング原作の『刑務所のリタ・ヘイワース』が元になっているのだけれど、原作とはまったくちがう味わいになっている、いい映画だった。
とくに、原作では「レッド」というニックネームの語り手は、おそらくアイルランド系の白人だと思うのだけれど、映画では、モーガン・フリーマンが扮していて、人種問題を底流に置く映画になっているのだが、まぁそんな話をしようと思ったわけではない。
そのなかで、主人公のティム・ロビンスが脱走するために、壁の中に掘った細い穴を、匍匐しながら進んでいく場面があるのだ。時間にして、1分に満たない場面だったろうと思うが、あれは見ていて息が詰まりそうになった。あの場面は恐かった。

ところが、こんなに恐がりのわたしなのだけれど、「恐い」と言って、鼻先で笑われたことがある。

学生時代、寮の物干場に、すずめばちではなかったけれど、かなり大きな蜂の巣ができていたので、大学の寮を管理する部所に出向いて駆除を頼んだ。
ところが出てきた係長が、わたしの顔を見るなり、「あんたが取ったらよろしいやないの」と言う。
「そんなことできません」と言うと、
「新聞、丸めて、はたき落として、ライターで火をつけて燃したったらよろし」と言うのである。
「そんな恐いことできません」というと
「ほっほっほっ(ちなみにこの係長は男性である)。あんたが恐いわけがない」

いや、その数箇月前、寮の洗濯機が壊れたので修理を頼みに行くと、その係長が「あんたら自分の心の洗濯をしたほうがよろしなぁ」などとわけのわからないことをぬかしたので、そういう態度は学生にたいしてまったく不当であると、縷々訴えただけなのである。
それをもって「あんたが恐いわけがない」と言われるのも、これまた不当なのである。
もちろん、それがいかに不当であるか、声を荒げることもなく、理路整然と(わたしの主観では)、道理を尽くしてお願いして、後日駆除に来てもらえるよう話をとりつけることはできたのだけれど、別れ際にやはり言われてしまったのだった。
「あんたやったらできますて。あんたが蜂が恐いわけがない」

確かに、一匹や二匹の蜂が恐かったわけではなかった。蜂の巣が危険だと考えただけだ。
わたしが「恐い」のは、そういう理屈を超えたもの、具体的には、排水溝のふたと大仏の鼻の穴なのだ。

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2 コメント

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マンガですが(汗) (ゆふ)
2006-11-04 20:50:14
狭いところが恐いんですか。
そういう方に、マンガでよければ(あまり良くないような気がするけど)おすすめの作品があります。

〈注:ここで言う「おすすめ」は、それを読むと症状が改善されたり軽減されたりするという意味ではありません。念のため〉

それは、つげ義春の「外のふくらみ」。(以下ネタバレですが、うろ覚えなのでかなりいいかげん)

朝、目を覚ますと「外」がひどく膨らんでいて、部屋の中にまで「外」が侵入してくる。それから逃れようと外へ行く(?)。それでいろいろあって(端折り過ぎ)、やっと出口を見つけたので入っていくと、中は暗く階段状になっている。登っていくと中がだんだん狭くなっていって、最後には身体がはまって動けなくなってしまい「こんな所で 誰にも知られず 死んでしまうのか」という独白で終わる……という夢をモチーフにしたものです。

私が語るとあまりおもしろそうに聞こえないと思うのですが、得体の知れない不安感を与えてくれる作品であります。(って、マイナスの感情を得たいために作品に向かうというのはどういうことなのか)


二周年おめでとうございます。
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恐い、恐いやぁ、恐いえすと (陰陽師)
2006-11-05 07:11:08
おはようございます。

昨日、ゆふさんのコメントは

> 朝、目を覚ますと「外」がひどく膨らんでいて、部屋の中にまで「外」が侵入してくる。

までしか読めませんでした。
これだけで、十分恐い。
ああ、わたし、圧迫感もダメなんだわ。
初めて気がつきました。

今朝はちゃんと最後まで読みました。
だけど、やっぱりこの話の一番恐いのは、最初の外が膨らんでいく部分ですね。
暗い階段も恐いけれど。

> 「こんな所で 誰にも知られず 死んでしまうのか」

うーん、この感慨は、その場にいない人間の感覚かな、というような気もします。
むしろ、日常のつげ義春の感覚なんだろうな、という感じ。
もちろんその場になってみなきゃわからないのだけれど、実際にそんな場におかれたら、そんなふうには思わないかな、と。
もうひとひねりほしい、って、ひねっちゃうとつげ義春ではなくなるのかもしれませんが。
そういえばルース・レンデルにもそんなエンディングを迎える主人公がいました。マンホールに落っこっちゃうんです。

わたし、つげ義春ってあまり読んだことがないんですよね。
実家にあった『通販生活』のなかに掲載されているのを二、三度読んだことがあるぐらいです。
よく覚えているのは、地方の商人宿に泊まったら、まるでふつうの民家みたいで、上でそこの家の子供が勉強していたりして、最初、自分のことを日常生活に割りこんだ異者のように感じていた主人公が、逆に、だれもが送っているはずの日常の不気味さを感じる、といったような内容だった、と思うんですが、相当脚色しているかもしれません(いま、何となくそう感じてます)。

考えてみたら、つげ義春の絵も奥行きがなくて、逆に圧迫感を感じる絵ですよね。
だから苦手だったのかな。

このあいだ、ビデオ屋でジャッキー・チェンのDVDを流していたんです。
音声も聞こえない、おまけに見たのは断片だけだったんだけど、どうやらジャッキー・チェンの部下の警官たちがつかまって、空中高くつり下げられている。ジャッキー・チェンを苦しめようとする犯人たちは、それをひとりずつなぶり殺しにしていくんです。
そのシーンがものすごく恐かった。

人間の尊厳を根こそぎにしようとするものだな、と思いました。
犯人たちは、殺すときでさえ、自分が殺す人間の方を見ていない。ジャッキー・チェンの方しか見ていないんです。こんなひどい殺し方もないもんだな、と。
その演出も、ジャッキー・チェンの映画独特の過剰さがあって(わたしは密かにジャッキー・チェンはどこかマゾヒスティックな要素があると思っています)、なんというか、娯楽映画の範囲を逸脱しているとわたしには思えました。

結構ホラー・ムービーも見ていて、クローネンバーグもリンチの“イレイザー・ヘッド”も、うわぁ……、と、眉を八の字にして、半ば開いた口を歪めながら(ってそういうときの自分の顔を見たことはないのですが、たぶんそうなってる)見ちゃうんですが、特に恐いとは思わないんです。だけどそのジャッキー・チェンの映画は恐かった。

つげ義春のご紹介ありがとうございました。

> マイナスの感情を得たいために作品に向かう

ひとつには、どこかでわたしたちは、自分がそうではないことを確認したい、という側面があるんだと思います。

ワイドショーには「悪い人」がいっぱい出てきて、そんなところが悪い、こんなところも悪い、って、悪いところを批判しているあいだはその人は「いい人」でいられる。
逆に、「いい人」であるためには、そういう「悪い人」が必要なのかもしれません。

戦場の報道も、事故の報道も、見ている人は安全なところから見ている。ああ、ヨカッタ、自分は安全だ、って、たぶんどこかで思っている。
それと同じように、映画でどれほどドキッとしても、映画館を出れば、外は明るい日が差しているし、さぁゴハンでも食べて帰ろうか、って日常に戻ることができる。

ところがよくできたものは、本でも、映画でも、マンガでもそうなんですけれど、それで終わりにはしてくれないんです。日常のなかに滲み出してくる。つげ義春のマンガではないですけれど、日常って、そんなに安定したものか? よく見たら、結構、グロテスクなもんなんじゃないか? いろんなことに目をふさいで、意識の中から切り捨てているだけなんじゃないか、って、ささやきかける。

こういう予期しない「滲みだし」を期待しつつ作品に向かうのが「通」ではないかな(笑)、と。

書きこみ、ありがとうございました。
どうして返事を書くと、本文より長くなっちゃうんだろう……。
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