陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

嘘をつく話

2008-02-19 22:26:50 | weblog
以前、幼稚園に入ってまもなく、お弁当のことで嘘をついた話を書いたことがあるが(「晩ご飯、何食べた?」)、家ではもっと小さい頃から嘘をよくついていた。そのことで母にもずいぶん怒られたし、自分でも恥ずかしいことだと思っていたのだ。それでも、失敗したら怒られる、となると、その失敗を隠したくなるし、幼稚園の友だちが、新しいお人形を買ってもらった自慢を聞けば、「わたしだってこんど買ってもらうの」と、つまらない見栄をはったこともある。何のためか自分でもよくわからないのだが、ただ作り話をするのが楽しくて、そういう話をしたこともあった。いつだって後味は悪かったし、人をだまして楽しかったことはない。にもかかわらず、つい、嘘をついてしまう。もしかしたら「虚言症」という病気かもしれない、と思ったこともあった。


後年、倫理学の勉強をしているとき、カントの「殺人者の問いかけ」という例題を知った。

殺人者に追われている人が、あなたの家に駆け込んできて、「わたしは家に帰った、と言ってください」とあなたに頼む。そうして、家とは反対の方角に逃げたとする。
つぎに殺人者がやってくる。
「やつはどっちへ行った?」
もし正直に言ったら、この殺人者は彼を見つけてしまうだろう。しかも、彼がやってきた方角を考えると、黙っていたら、おそらく逃げた方向へ彼もまた向かうであろう。

さて、あなたはどうすべきか?

多くの人は、おそらく迷うことなく頼まれた通りに嘘を言うだろう(というか、現実にはまず相手を自分の家にかくまって、すぐに警察を呼ぶだろうから、この設定自体がいまの時代には当てはまらなくなってしまっているのだが)。

ところがカントときたらこう考えるのである(話をいささか単純化しているのでご注意のほど)。

まず、人間は誰もがいつでもかならず従える道徳規則に従わなくてはならない。
だが、ここでウソをついたら、「人は時と場合によっては嘘をついてもよい」という規則に自分は従ったことになる。
この規則は人間は誰もがいつでもかならず従える道徳規則と言えるだろうか? 
もし「嘘をついてもよいことがある」という規則があったとしたら、この規則が嘘ではないことをどうやって保証したら良いのだろう。こんな規則を決めてしまうと、人びとは互いに信じ合うことができなくなってしまう。
それゆえに、わたしは嘘をつくべきではない。

カントは、嘘が害を及ぼすから嘘がいけない、と言ったわけではないのである。たとえ嘘が結果として良いことをもたらすように見えても、真実は損なわれる。だから嘘をついてはいけないのだ、と。

わたしは長いこと、この意味がよくわからなかったのだ。
それが、最近、少しわかるようになってきた、というか、こんなふうに考えたらどうだろう、と思うようになったのだった。

わたしはずっと、嘘をついているのは、どこかで自分だけではないか、と思っていたのだ。もちろんそうではないことは頭では理解していても、自分を除くほかの人は、常に真実を言っているものとして、人の話を聞き、会話を交わしていた。現実に、そうでなければ会話など成立しないし、人とつきあうこともできないから。一方、そうではない自分を責めていた。責めながら、やはり自分を良く見せたり、失敗をごまかしたり、話を面白くするために嘘を混ぜていた。意識しないまま、いつのまにか嘘になることもよくあった。

だが、自分と相手も同じように嘘をついていたとしたら。わたしと同じように、自分を良く見せたり、失敗をごまかしたり、いつのまにか嘘になるような言葉遣いをしているとしたら。

つまり、わたしは「真実」というのが、いわゆるデフォルトの状態で、嘘を言うのはそこからの逸脱、とずっと考えて、自分を責めていたのだけれど、むしろ、つい嘘をつく、意識的無意識的に嘘をついてしまうのが人間であるとしたら。それでも、相手を信頼し、相手からも信頼され、そうすることで、共同作業として作り上げていこうとする理想の彼方にあるものが「真実」なのだとしたら。

さて、夏目漱石は、「模倣と独立」という講演のなかでこんな話をしている。
元来私はこういう考えを有っています。泥棒をして懲役にされた者、人殺をして絞首台に臨んだもの、――法律上罪になるというのは徳義上の罪であるから公に所刑せらるるのであるけれども、その罪を犯した人間が、自分の心の径路をありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスする事が出来たならば、総ての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。それをしか思わせるに一番宜いものは、ありのままをありのままに書いた小説、良く出来た小説です。ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということを行ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳に依って正に成仏することが出来る。法律には触れます懲役にはなります。けれどもその人の罪は、その人の描いた物で十分に清められるものだと思う。

「ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということを行ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳に依って正に成仏することが出来る」というのは、ほんとうに重い言葉であると思う。真実というのは、本来こういうものではないのか。

けれど、それができないから、ほんとうのことを言おうとしても、つい嘘が混じり、相手だけでなく自分に対しても嘘が混じるのが人間なのだろう。だからこそ、嘘をつかないように努力しなければならないのだ。嘘をつこうと思えば、たとえそう思っていなくても嘘をついてしまう人間が、相手を信頼し、相手からも信頼されるために、「真実」を共同作業として作り上げていかなくてはならないのだと思う。

もちろん人間関係のなかでは、別に会えてうれしくもない相手であっても「お久しぶり~」とうれしそうな顔をしなければならないこともある。けれど、ほんとは会いたくなかった、という言葉も、百パーセント、混じりけ無しの真実と言えるわけではないだろう。
久しぶり、とにこやかに挨拶することによって、お互い気持ちよくつぎにつなげていく。するといつかはその「久しぶり」も真実になるかもしれない。

こんなことを考えていると、カントには怒られてしまうかもしれないけれど。

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6 コメント

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嘘も方便 (小狸工房)
2008-02-21 20:26:21
有名な短編「一切れのパン」では、純粋な善意から老人は木片をパンだと偽って男に渡すわけですし。

「嘘」と「法螺」の間にあるものも考慮しても良かろうかと。
いずれ世間など、程好く嘘が混じるからこそ円滑に進む面もあるのですから。
結果良ければすべて良し? (陰陽師)
2008-02-23 22:53:08
小狸工房さん、こんばんは。

書きこみありがとうございました。
小狸工房さんがおっしゃった「嘘も方便」ということに関しては、ちょっと考えたこともあったので、今日(2/23)のログにまとめてみました。
ヒントを与えてくださって、ありがとうございました。

「一切れのパン」ってなんだったっけ、と検索してみました。教科書で有名になった話なんですね。
わたしのときは扱った記憶はないのですが、なんとなく知っていたように思います。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/4493/hitokire.html

まず、この話はあまり当時の実情に沿ってないような気がするんです。エリ・ヴィーゼルの本なんかで読むと、護送列車に乗せられたユダヤ人たちが、自分たちの運命を知っていたとは思えない。だからまずラビが脱走をすすめる、というところで、え? と思ってしまいます。

そのつぎに、木ぎれをパンと偽って渡したというのも、結果オーライという感じがします。

もし途中で空腹に耐えかねて包みを開いたとしたらどうなるんだろう。絶望のために立ち上がる気力さえ失われるかもしれない。その可能性は十分考慮に入れておくべきでしょう。

どうもわたしはこの話には、たぶんにご都合主義的な印象を持ちます。
何か、ちがう。
たとえ「方便」にしても、方法的にあまりうまくないような気がする。
だったらどうすべきだったのか、というのはうまく答えられないんですが。

でも、教えてくださってありがとうございました。
ここからまたもうちょっと考えてみたいと思います。
はじめまして (mrcms)
2008-02-24 11:17:18
こんにちは。ブクマから辿って参りました。

一切れのパンの話。僕もよく考えますが、結論を知っている今は、「それが木切れだと薄々知っている。しかし、例えば、そのときの懸案を最後まで諦めない為に、自分を騙して信じ込んでおく」というような、ライフハックというか処世術として使っている気がします。結論先送り的で、現実を見ろ!と言われそうですが、有効に働く場合もある気はします。

ほかのエントリーも興味深く読みました。またお邪魔させていただくかもしれません。今後とも何卒よろしくお願いします。
コメントありがとうございます (陰陽師)
2008-02-25 10:59:53
mrcmsさん、よくいらっしゃいました。
見つけてくださって、あと、コメントをくださって、どうもありがとうございます。
このところなんだかんだ忙しくて、お返事が遅くなってごめんなさい。

わたしはあまり本を読んで、これキライ、って思うことが少ない方なんです。
何か、ピンとこないなあ、とか、いまのわたしにはよくわからない、いまはまだ読む準備ができてない、と思うことはよくあるんですが、はっきりと違和感を覚えるということはあまりない。

ところがこの話には、なんともいえない違和感を覚えるんです。いったいそれがどこから来るものなのか、いまひとつ自分でもわからないんですが。

で、ずっと考えてたんです。
この「一切れのパン」のエピソードが、たとえば映画の《大脱走》に織り込まれていたら、それはまったく違和感を覚えないだろう。むしろ、残された者の思いやりみたいなものを感じて、「心温まるエピソードのひとつ」として受けとめられるだろうと思うんです。

だけど、やはりこれは設定に無理がある。煎じ詰めてしまえば、「ユダヤ人の護送列車」を舞台にしてこんな物語を作れるような作者のセンスみたいなものが、どうしても好きになれないんです。この感じは誰にでも共有できる感じとは思わない。むしろわたしが変なところにこだわっているのかもしれません。

ただ、エリ・ヴィーゼルとかヴィクトール・フランクの『夜と霧』とかを読むと、収容所の「飢餓」というものは、こんな、あえてこの言葉を使っちゃいます、「太平楽」な物語のレヴェルとはもう全然ちがう。

たとえばわたしは西谷修の『戦争論』(講談社学術文庫)のこんな一節を思い出します。

「さて、この絶滅収容所とはどのような世界だったのか。ヨーロッパ各地から絶滅収容所に送られるユダヤ人は、家畜用の貨車にすし詰めになって輸送され、数週間かかって目的地に着いたときにはすでに一割近くが犠牲になっている。そしてホームに降り立つとただちに労働可能と認められた者とそうでない者とに選別され、後者はそのままシャワーで消毒を受けるという口実でガス室に贈られる。その選別をする者、シャワー室に導く者、散髪する者、ガス室の死体を処理する者、みな特別コマンドと言われるユダヤ人だ。彼らはそうしてナチSS(…)に「役立つ」かぎりで生かされている。いずれにせよ、この絶滅収容所で「生き延びる」とはそういうことだったのだ。…略…

 この「非-世界」から奇跡的に生還した人びともいる。だが彼らは、人びとが「人間的」にクラス日常の世界に帰還して、この体験について問われ、答えようとしても答えられない。それがあまりに過酷な、思い出すことさえ拒否したいような体験だからというのではない。その体験はある意味で彼ら自身の体験ではないからだ。

 彼らはその体験を「私」として生きたのではなかった。だからそれを「私」の体験として語ることはできない。ところが日常生活で、修復できないその体験を語ろうとすれば、どうしてもそれを「私」の体験として語らざるをえない。そしてその体験を「私」の体験として言葉に言い表すとき、「私」はなぜ生き延びられたのか、「私」は何をしてきたのかと問いなおすことになる。そして生き延びたこと自体に恐ろしい罪悪感をもたざるをえなくなる。なんと自分は「非人間的」なことをしてきたのかと。

 収容所からの帰還者が、この自責の念から自殺するというケースが多かった。たしかに彼らは生き残った。だが彼らは犠牲者なのだ。その犠牲者がもっとも重い罪悪感を抱かされ、そして生きられなくなってゆくというところまで、この装置は徹底して働く。」(p.217-259)

そこにいなかった人間、その体験を持たない人間が、そのことを書いてはいけないとはいいません。そんなことを言い出したら、フィクションのほとんどは成立しなくなってしまう。けれどもそういうことを題材にとるのであれば、少なくとも「自分自身」のありように対する真摯な問いかけが前提となるのではないか。この物語を書こうとする自分は、そのときどこにいたのか、そのとき何をしていたのか、自分自身に責任はなかったのか。これをぎりぎりに問いつめていかなければ、少なくとも題材に取っちゃいけないんじゃないか。

だから、これを読んで、すごく腹立たしい、いやな感じがするんだと思う。
あくまでもわたしだけの考え方なんですけど。

何か、思いっきり「一人語り」しちゃいました。こういうのはきちんと自分の文章にしなきゃいけない、ごめんなさい。

> ライフハック

という言葉、わたしは知りませんでした(笑)。
なるほど、仕事術、みたいなニュアンスの言葉なんですね。
確かに森鴎外の時代から「かのように」生きるというのは、組織のなかで生きていくひとつの身の処し方です。

彼が薄々その真実に気づきながらも、あえてその包みをパンである「かのように」握りしめ、ときに心の拠りどころにしてきた可能性は十分考えられるし、ラビもそのことを期待した、という解釈は可能ですよね。

サイトのほうで、「猿の手」の更新情報にも書いたんだけど、わたしたちはたとえば「お守り」とか、ラッキー・アイテムみたいなかたちで、そんな「心の拠りどころ」を持っている。それがほんとうに効果があるとは思わない。それでもほんとうに効果がある「かのように」ふるまい、心の拠りどころにもしている。そういう側面をおろそかにしたり、バカにしちゃったりしちゃいけないんだと思います。

サイトの方もまた拝見させていただきますね。
考えるきっかけを与えてくださるような書きこみ、どうもありがとうございました。
Unknown (mrcms)
2008-02-27 07:47:32
お返事有難うございます。
その後、このブログがおもしろくて作業の合間にずーっと読んでまして、もう少しで全編制覇するところです。そんなんでレスが遅れております。すいません。

お返事いただいて、このパンのお話がユダヤ人の護送列車の話だということを何十年ぶりかで思い出しました。僕はこの話の結末が印象的で、それだけを長年覚えていて、ですのでそもそもなぜ脱走したのかといったことまで考えが及んでいませんでした。

記憶というのはすごいものですね。印象強い部分だけ覚えてるのですね。言い換えれば都合の良い部分だけ覚えてる、と言いますか。

確かに今思うとそのセンスはあまり頂けないですが、その部分がすっぽり抜け落ちて覚えてたということは、僕にとっては、読んだ当時(中学生かな?)それは話全体の中では重要なことではなかったのかもしれません。ユダヤ人の話や当時の映像(映像の世紀は衝撃的でした)を見聞きしたのはもっとずっと後のことでした。

…と。今書きながら思ったのですが、10代の頃の自分は本や話や映画の出来事を自分の身に起こったことのように感受してしまう癖?があって、怖いもの気持ちの悪いものを見ると、具合悪くなって吐いてしまうような人間でした。物語の内容そのものは良くても、一部に汚いシーンがあるだけでもだめだったのです。

そんな自分の癖が怖くなり、そんな状況をなるべく避けるようになり、例えば中学以来、映画は20年間見ませんでしたし(映画館で)、テレビや本もなるべく綺麗そうな内容のものを選びました。おもしろいことに、これはあくまで生理的なものに限ったのです。例えば口汚い罵り合いとか殴り合いとか、そういう人為的なものは大丈夫でした。

話が反れてしまいましたが、つまり当時の僕はユダヤ人のことを知っていたとしても、すごく生理的に受け付けない部分があって、そこだけ記憶から消去してしまった可能性もあるかな、とふと思ったのです。話としてその部分は重要ではないと判断したと同時に、「あ、ユダヤ人の話…。気分が悪くなりそうだから考えないようにしよう」と飛ばして考えた、とか。そんな可能性もあるかなと書きながら思いました。

またいろいろ考えてみますね。
それにしても陰陽師さん、以前一度お会いしたことがあるのではないか、と思うくらい、なんだかよくわからないデジャヴな感覚というか、凄く感覚が近しい感じがしています。これからもきっとしばらくは入り浸りかもです。あまりお邪魔はしないようにしますが、これからもよろしくです!
頭で読む、身体で読む (陰陽師)
2008-02-27 22:27:59
mrcmsさん、こんばんは。

気に入ってくださって、とてもうれしいですが、反面、ブログではかなりずさんな内容、わたし自身は決して書き殴っているつもりはないのですが、じっくりと考えるよりだいぶ手前の、いわゆる「チラシの裏」状態のログが少なくないので、ちょっと恥ずかしいです。

一時、サイトにアップしたあとは、ブログは消してしまおうかとも思ったのですが(実際、それをやったこともあるのですが)、それもなんだかな、と思い直し、誤訳も、変換ミスも、文のねじれも、途中で道に迷った文章も、全部そのまま残っています。
ま、それもまた、一興、ということで(笑)。

> 今書きながら思ったのですが、10代の頃の自分は本や話や映画の出来事を自分の身に起こったことのように感受してしまう癖?があって、怖いもの気持ちの悪いものを見ると、具合悪くなって吐いてしまうような人間でした。物語の内容そのものは良くても、一部に汚いシーンがあるだけでもだめだったのです。

この気持ちはすごくよくわかるように思います。
わたしね、本を読んでもあまり感情移入はしないんです。主人公と一緒になって泣いたり笑ったり、ってあんまりしない。
だけど、主人公がリューマチで脚を引きずって歩いていたら、自分もいつの間にか、無意識のうちに脚を引きずって歩いてたり、「アウルクリーク」を訳しているときはずっと喉が痛かったり、身体の方に引き受けちゃう。作中で視点人物が病気になったら、ほんとうにわたしまで具合が悪くなってしまう。
心理・感情のレベルでは距離が取れるのに、身体が共感しちゃうんですね。だから、「具合悪くなって吐いてしまう」っていうのは、すごくよくわかる。いまだにきついものはきついです。だからサド、読まなきゃいけないなあ、なんて思ってるんだけど、いまだに読めないんです。

> 例えば口汚い罵り合いとか殴り合いとか、そういう人為的なものは大丈夫でした。

そうそう。それってよくわかります。
何がダメで何が平気か、かならずしも客観的な基準じゃないんですよね。頭ではなくて、身体の方が反応するんです。

> つまり当時の僕はユダヤ人のことを知っていたとしても、すごく生理的に受け付けない部分があって、そこだけ記憶から消去してしまった可能性もあるかな、とふと思ったのです。

こういうことは、よくあることと思います。
そうして、それを知ることは、同時に自分を知ることでもある。
本を読む、まあ映画でも、写真でも、音楽でも、絵でも、書でもそうだと思うんですが、全部、自分を知るプロセスでもあると思います。

この「一切れのパン」に関しては、自分でもいったいどこでひっかかってるのか、いまひとつよくわからないんです。ただ、こうしたひっかかりしか、考えていく手がかりもないように思う。戦争のこと、ユダヤ人虐殺のこと、これからもいろんな角度から、考えてみたいと思っています。

これからもよろしく。
また気軽にお話、聞かせてくださいね。

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