陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

祝6周年

2010-11-03 23:30:16 | weblog
記念日とか節目とか、あまり気にせずに生きていますから、ブログを開設したのがいつだったかはよく覚えていません。それでも、サイトの方は、開設に向けて一週間前後の準備を続け、節目というか、この日だったら自分も忘れないだろうと思って、文化の日に公開することにしました。そうして、2004年11月3日、ghostbuster's book web. というサイトが、Web銀河系の片隅に、ささやかな産声をあげました。

それから六年、このところ、諸般の事情で、更新率は落ちてはいるのですが、それでも細々と続けてきた結果、読み物の数だけは、ずいぶん増えました。ブログの方も、息切れしながらも、なんとか続けています。

* * *

子供の頃、わたしの家では何冊かの雑誌を取っていました。いまでは雑誌というのは、本屋やコンビニで買うものなのかもしれませんが、当時は雑誌を本屋で定期購読すると、毎月発売日に本屋から届けてくれていたのです。毎月届く大人向けの雑誌を、わたしも読めるところを探しながら、拾い読みしていました。

ある号に、芥川賞だったか、直木賞だったかの発表が載っていました。一緒に、審査員の講評が載っていたのですが、その中にあった「この作者は、書きたいことがなくなったあとでも書き続けていけるだろう」という一文に、わたしはひっかかりを覚えたのです。

多分、小学生だったと思います。小学生だったわたしの目には、その審査員はとんでもないことを書いているとしか思えず、腹を立てながら母親に言ったのでした。
「書きたいことがなくなったんなら、作家なんてやめたらいいのに。書きたいことが何もない人が、それでもひねり出したようなものを人に見せるなんて、とんでもない話だと思う。それって読者に対してずいぶん失礼な話じゃない?」と。

すると、母は「そんなに単純なものじゃない」と言うのです。その理由が一体何だったのか、当時のわたしには理解できなかったのでしょう。いまはもう母が、何がどう単純ではないと言ったのか、まったく記憶にありません。

それでも、自分が文章を少しずつ書くようになって、「書きたいことがなくなっても書き続ける」ということの中味がわかってくるようになりました。あらかじめ自分の内部に書くこと、書きたいことがあるから書くのではなく、何も定かではない中で、書くことによって、逆に、自分の書きたいこと、書こうとすることを創り出していく、ということもわかってきたのです。

書きたいことがあるから、それを書く、という単純なものではない。おそらく母が言いたかったのは、そんなことだったのかと思います。

けれども、そこからさらに月日を重ねて、やはりこういうふうに思うんです。

自分のノートにひっそりと書くのではない。読み手を想定し、自分ではない誰かに向かって何ごとかを書くということは、自分が書いた文章を通して、文章として現れた、自分の思考のプロセスを通して、わたしがその誰かに対して、どれだけささやかではあれ、何ごとかを発信し、何らかの影響を与える力を行使しようとすることです。

わたしは人に対して何を与えようとしているのか。それを通して、いったい自分が何をしようとしているのか。それを考えず、何かを書こうとすることは、無責任なことではないか。

いったん書いてしまえば、その話はおしまいです。ネタはなくなります。書き続けようとすれば、書くことはどんどんなくなっていくし、自分が伝えたいことも、絶えず補給してやらなければ、端から枯渇していきます。その上で書き続けようと思えば、結局のところ、自分はどんな世界を望んでいるのか、そのために自分は何を伝えようとしているのか。何かを伝えるために、自分の中に何を蓄えていくのか。人間のこと、社会のことをどう考えるのか。そういうことを抜きにして、「書く」ことはあり得ないのだと思います。

やはり、自分が言いたいことがある。伝えたいことがある。これこそが、書くことの根底にあるモチベーションであり、それがなくなれば、人に向かって書くことなど、やめてしまえば良いのだと、さまざまの曲折を経て、いまのわたしはそう思います。

* * *

文章というのは怖いもので、否応なく、書き手そのものが伝わってきます。わたしはこういうときいつも、ジンメルのこの言葉を引くのですが、これほど書かれたものとその書き手の関係を伝える文章もないと思うのです。
人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということに基づいている。しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。このことは、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である。
(ゲオルク・ジンメル『社会学』居安正訳 白水社)

確かにこの通り、書かれたものは、書き手の人となりを伝えます。ある出来事に対して、そう考えているその人がどんな人か、「その他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのこと」を教えてくれるのです。

そうして、それが「他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いこと」であるということも、その通りなのでしょう。何かひとこと書くたびに、わたしの中のある部分が伝わっていく。それも、知られたくないような部分が。書くということが、そういう恐ろしいことでもあるのだと、くれぐれも忘れたくないものです。

* * *

わたしがブログを始めたころ、まだ個人のホームページとブログの割合でいくと、ホームページの割合の方が高かったように思います。それからブログがどんどん普及して、さらにそこから twitter が広がっています。そういう流れを見ると、いまはホームページというのは、古い形式になったのかもしれません。

けれども、わたしにとってホームページという形式は、やはり使い勝手の良いものなのです。

こんなふうに書き続けていれば、わたしの文章も、さまざまな人に、さまざまな評価を受けていることでしょう。もちろん、そうした評価も大切だろうけれど、それとは別に、自分自身の点検は必要です。

書いたばかりの文章は、言ってみればまだ自分自身の熱がこもっている状態ですから、そこから時間を少し置いて、見つめ直し、考え直し、書き直すことによって、自分の文章や考えの長所や弱点を、きちんと把握しておきたい。だから、短い言葉でちょっとした思いつきをどんどん発信していく形式がどれだけ流行ろうと、時流とは無関係に、歩く速さで続けていきたいと思っています。


ただ、最近の傾向として、笑えるものが減ってきている。これは困ったことです。ニヤッと、クスッと、笑えるものを書きたい。まじめなことを大まじめに言ったってつまらないだけなんですから。


サイトを開設してから、六年が経ちました。サイトも六歳になり、子供であれば小学校に上がる歳になったわけです。
この間、さまざまな方に、訪問していただきました。
最初から読んでくださった方。
翻訳を楽しみにしてくださっている方。
歌詞の翻訳で見つけてくださった方。
試験勉強やレポートのために検索でヒットして来てくださった方。

すべての人に伝えます。
ありがとう、と。
わたしの文章を読んでくださって。

本と一緒にこれからも、歩いていきたい。
同行、歓迎します。





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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
6周年おめでとうございます! (コウ)
2010-11-04 10:44:49
陰陽師さん、こんにちは^^
6周年おめでとうございます!
これだけの期間、これだけ素晴らしいクオリティを保って続けてこられたのだから驚きです。
これからも楽しみにして、マメに読ませていただきます。
くれぐれも体調管理に努めて、ご自愛ください。
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ありがとうございます (陰陽師)
2010-11-04 23:22:21
コウさん、お久しぶりです。
優しいお言葉、ほんとうにありがとうございます。

読み返してみれば、昔のはやたら底が浅いし、当時、こんなものに満足していたのか、と恥ずかしい思いが先に立ちます。それでも、こうやって言葉にしているから、自分の当時の考えの浅さもつたなさもわかるのかもしれません。

リリアン・ヘルマンの言葉に、「今日に向かってかたつむりの歩みを」という言葉があるんですが、そんなふうに続けていければ、と思っています。

これからも、どうぞよろしく。
書き込み、ありがとうございました。
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書く事によって... (Mutsuki)
2010-11-11 00:00:19
書く事を知る。恩師(と呼ぶに自分は不肖の弟子以下の存在ですが)の言葉を拝借しつつ。
6周年おめでとうございます。
私が陰陽師さま(のお言葉)を拝見する様になったのは5年弱前と記憶しております。
切欠が何であったのか今となっては良く思い出せず。
はっきりしているのは「拝見したい」と思った事です、継続的に。
そしてそれは2010.11の今も同じ様に。
過日は私の不遜僭越な書き込みに丁重なレスポンスを頂戴し有難うございました。
これからも、そうした「有難う」をお伝えできたらと願っております。
私も私なりに拙いまま「何が記したいのか、残したいのか」書く事で追っていきたいと思っております。
朝晩冷える日も目立って参りました。
どうぞご自愛を。
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年の瀬に (陰陽師)
2010-12-31 23:27:26
ほんとに遅くなってすいません。
きっとMutsukiさんなら待っててくださると思って、つい甘えてしまいました。

いつも思うのは、考えがあらかじめあって、それに言葉を当てはめているのではない、ということです。何かを読むことによって、あるいは誰かの話を聞くことによって、自分の網の目にひっかかった言葉を、ちょうど子供が砂遊びするようにいじり、積み上げたり、崩したりしながら、自分の考えを次第に具体的にしていく。それがわたしにとっての書くことであり、考えることなのだろうと思います。

いつも、わたしは自分に何ができるか、何が言えるか考えているのですが、どう考えてもあまりたいしたことは言えそうにないんです(笑)。
わたしが書けるぐらいのことは、もっとうまく書いている人が星の数ほどいるだろう。そんなことを思うと、たまに何をしているんだろうと思うこともある。

それでも、やっぱり、わたしは書きたいんだろうな、って思います。たいしたことが書けないとしても。としたら、読んでくださる人に、何を届けることができるんだろう。

キャロル・キングの歌に、

You've got to get up every morning With a smile in your face
And show the world all the love in your heart
The people gonna treat you better("Beautiful")

っていうのがあるんですね。

「毎朝笑みを顔に浮かべて起きなくちゃ
 そして世界にあなたの心にあるありったけの愛を見せてあげるの
 そしたらみんなはもっとあなたに優しくしてくれるはず」

ぐらいの意味でしょうか。

こんなふうに、smile のようなものを書くことはできないかな、って思うんです。
うまくいくかどうかはともかくとして、いつもそんなふうに思ってるんですよね。

何はともかく、ここで書くことでずいぶん勉強させてもらってます。
ひとりではこんなこと、できなかった。

いつもつきあってくださってほんとにありがとうございます。
また来年もどうぞよろしく。
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