陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新しました

2006-12-30 23:01:39 | weblog
昨日までここに連載していた「殺し屋」、サイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

ふう、今日中になんとかアップすることができてやれやれです。
今日は忙しかったので、ちょっと後半、やっつけ仕事になっちゃいました。
そのうちちょっとずつ手を入れようと思っています。

「スーツを着た殺し屋」がお好きな方に。

今日、書こうと思ったことがあったんだけど、もう頭の中がぐだぐだです。
もうダメです。
明日、恒例(?)をアップしますので、お楽しみに。
あー、アイスクリームを食べよう。

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2 コメント

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helleborusさん、おめでとうございます (陰陽師)
2007-01-03 07:53:57
helleborusさん、あけましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりました。

もう何度も繰りかえしていることなのですが、コミュニケーションは自分が送り出したところから始まるのではなく、相手が受けとったところから始まるものだとわたしは思っています。
だから、サイトやブログでは、読んでくださる方がいて、そこから始まるんだ、って。

そうして、相手が受けとって、なんらかのかたちでそれを返してもらって、わたしはそれに対して、自分のふるまいを少し、変えていきます。
そうすることで、徐々に「自分」を作っていくのだと思っています。

大勢の人が交差するスクランブル交差点、大阪駅前でもいいですし、池袋東口でもいいんだけれど、大勢の人が行き交う交差点で、人にぶつからないように自分の進行方向を維持しようとしたら、微妙に向きを変えていかなければなりませんよね。人を避けようとして大きく動けば、ほかの人にぶつかってしまう。自分の進行方向を維持しながら、まわりとも呼吸を合わせていくわけです。

実際にわたしたちの身体が自分でもほとんど意識しないままやっている「微調整」と「方向維持」、このふたつのことは、なにごとでも同じなのではないか、と思うのです。

> 今までにも作品に心動かされてコメントしようと思ったものの書きたいことも焦点さだまらず、そのぼやけた輪郭も言葉で追えず、形にならずに見送ったコメント投稿も多くありました。

意見を作る、というのは、むずかしいことです。
何かを読んで、自分の内側がふるえる。
それについて、何かを書きたいと思う。
そうすることで、もっとそのなかに深く入っていきたいと思う。
それでも、それを言葉にする、というのは、ほんとうにむずかしいことです。

つまり、あることに感動する、というのは、それが自分とちがうものだから。
自分にはないものだから。
自分と「それ」のあいだには、かならず、空白があります。
そうして、その空白を埋めることばは、自分がこれまで読んだり聞いたり見たり感じたりしながらストックしてきたもののなかから見つけてこなきゃならない。
大げさな言い方をすれば、自分の「来し方」が、その一瞬に現れることでもある。まるで、よくできた短編のように。

ところが、ある程度、文章を読み、書き慣れもしてくると、ときとして、荷物をあっちからこっちへ動かすだけのようなことをしてしまう。まるでコピペするみたいにして、できあいの言葉でその空白を塞ごうとしてしまうんです。
だけど、その人を通過させていない文章というのは、絶対に読み手に伝わる。

たとえ引用であっても、その人が「自分の意味のネットワーク」に置いた文章であれば、その人の痕跡はまちがいなくついていますし、逆に「それぞれがたどってきた広大な領域を思い起こしながら、ゆっくりと、深呼吸でもしてみようか」(by 「天声人語」)みたいに「何かを言っているように見せかけ」たとしても、そのじつ、何も言っていない、言うつもりもない、覚悟もないものはまちがいなく伝わる。
(このコラムはhttp://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/writing.htmlで引きました)

まちがえないでほしいのは、どこかに正解があるわけじゃない、ってことなんです。
「その人」を通過させたものだったら、わたしはそれがたとえ自分の思っていたこととちがっていても、スクランブル交差点を渡っていくように、自分の考え自体を「微調整」させていくと思うんです。
だってそれがコミュニケーションということだから。

そうじゃなくて、自分を通過させずに、手先でうまく書いたものは、わたしは読むのがつらくなります。
もちろんこれは、自分のことを書いているのです。自戒を込めて。
ある程度、書くことのスキルをあげていくと、この「手先でちょこちょこ」が簡単にできるようになってしまう。簡単に意見をまとめることだって、それなりの体裁を整えることだってできるんです。
だけど、そういう雑なことはしちゃいけない。
少なくとも、読むこと、書くこと、聴くことに関して、わたしは

「しなくちゃならぬことは、ただ、一つの本当の文章を書くことだ。お前の知っている一番本当の文章を書くんだ」(アーネスト・ヘミングウェイ「ミス・スタインの教示」『移動祝祭日』)

でありたいと思っています。
この「本当」というのは、自分の内側にしかない。誰かが○とか×とかつけてくれるのではなくて、自分がその成熟度合いに応じて、見つけていくものだと。

最近、ヘミングウェイしか読んでない(ついでに音楽はRushしか聴いてない……なんてハマリやすいわたし……)ので、何を書いてもヘミングウェイが出てくる(笑)。
もちろん、あくまでこれはわたしがそうしたいと考えているであって、ほかの人に要求することではないのですが。

ただ、意見を持つことのむずかしさをシェアできたことは、すごくうれしいです。
わたしの訳したものをそんなふうに誠実に読んでいただけるなんて、ほんとうにありがたいことだと思っています。

ただね、ほんと、「師」はやめてください。
そうやって書くと「老師」とか、カメ仙人みたいじゃないですか(笑)。
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Thank _you_! (helleborus)
2007-01-01 03:14:15
新しい年になりました。
去年はたくさんの翻訳と読み物をありがとうございました。
と、わたしのためでもないのに礼をいうのもなんだから、
お疲れ様でした。
と、労をねぎらうのも変ですし……。

本が愛され文が大切にされ言葉が磨かれている師のところでは、
新年のご挨拶ひとつを書くのにもこのように気を使ってしまいます。
今までにも作品に心動かされてコメントしようと思ったものの
書きたいことも焦点さだまらず、そのぼやけた輪郭も言葉で追えず、
形にならずに見送ったコメント投稿も多くありました。

元日が単に暦の節目というだけでは喜べませんが、
新年の挨拶に事寄せて、
ありがとうございました、おめでとうございます
とそう考えず(じゅうぶん考えてる^^?)言葉かわせるなら
それでじゅうぶん喜ばしいことです。

I wish _you_ a happy New Year.
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