陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サンタさんがくれたもの

2007-12-25 23:05:16 | weblog
何事にしてもそれを強く欲望する前に、まずそれを所有している人の幸福がいったいどんなものであるかをつまびらかにしなければならない。
(ラ・ロシュフコー『格言集』関根秀雄訳 白水社)


ピーター・スピアーの絵本に『クリスマスだいすき』という本があって、スピアーの絵本は絵ばかりで文章がないものがいくつもあるのだが、この本もその一冊だ。
クリスマスが近づいてきて、もみの木を選んだり、プレゼントを買ったり、飾り付けをしたりするアメリカの子供や大人たちの様子が描かれる。そうして、ピークはクリスマス当日。この本がおもしろいのは、エピローグとして、一夜明けての様子がきちんと続いていくことだ。ゴミ捨て場につみあげられたツリーの残骸。そうして大量の包装紙や空き箱。プレゼントは同時にゴミの素でもある。

さて、イヴがあけて、クリスマス当日の今日、日本の各家庭からもずいぶん多くの包装紙や空き箱が、可燃ゴミ、もしくは不燃ゴミとして出されたことだろう。
電車の中でもうつむいて、携帯ゲーム機の小さな画面に見入っている子供を何人も見かけたが、そろそろ帰省も始まっているのだろうか。ともかくそのほとんどは、今朝目を覚ましたときに枕元にあった「サンタさんからのプレゼント」であるのだろう。

ところでいまの子供にそんなにほしいものなんてあるのだろうか。
「サンタさんに何をお願いする?」と聞かれて、子供時代のわたしは結構困ったものだった。特にほしいものがない。仕方がないから「TV」と答えていたのだが、もちろんそんな願いはあっさりと却下されていた。おもちゃだってひととおり持っていたし、それ以上に何がほしい、というものもなかったのだ。

いま振り返って思うに、当時のわたしが別にほしいものがなかったのは、TVを見ていなかったことも大きいのではないか。友だちの家に行けば、リカちゃんのドレッサーだの、リカちゃんのダイニングセットだの、クリスマスやお誕生日のたびごとにそうしたものが増えていて、確かにそういうものを見れば、いいなあと思わないではなかった。特に、小指の爪よりも小さいサイズの、銀色のスプーンやフォークはすごくかわいいと思った。とはいえ、それはその子の家で遊べれば十分だったし、遊んで楽しいだけでは、どうしても自分のものにしたい、という欲望を喚起させるには不十分だったのではないか、という気がするのだ。

TVの子供向け番組の多くは、玩具メーカーとのタイアップで、あの怪獣がほしい、あの超合金合体ナントカがほしい、魔法変身ナントカがほしい、と思わせるために番組が作られているかのようだ。もちろん合間には同じような子供が身につけているCMが差し挟まれる。

そうしたものは、実際にそれで遊ぶより、はるかに強烈な欲望をかき立てるのではあるまいか。TV画面の向こうで見るそれを、子供は実際に手に取るわけではない。
友だちの家にあった「リカちゃんドレッサー」は、すでに遊んだあとの、手垢のついたものである。銀色のスプーンはかわいくても、プラスティックの白い小さな皿は、いかにも安っぽい。そうしたものと、照明が当たり、工夫された角度から映し出されたドレッサーは、子供の目にはおそらく全然ちがうものに映るだろう。
あれがほしい、自分のものにしたい、という欲望は、TV画面が作りだしたものではなかったか。

実際、子供にとっておもちゃというのは、それほど数が必要なものではないと思うのだ。泥と水と、あとはそれを掘る小さなスコップ(それがなければ貝殻でもプリンカップでも)さえあれば一日中遊べる。
ところが紙やクレヨンや粘土は古くはならないが、ナントカ変身ベルトには「賞味期限」がある。TVでシリーズが終わった半年後には、そのナントカに変身したい気持ちも失せてしまう。
ほんとうには需要のないところに需要を喚起させるために、番組が作られ、雑誌が作られている、というのは、どこかおかしいような気がする。

思うに、コンピュータゲームの特徴は、「終わりがある」ということだろう。一ヶ月か二ヶ月か、その期間は遊んでも、終わってしまえばそれまで。そうして今度はつぎのゲームがほしくなる。子供は同じ本を何度でも読み返すが、ゲームは繰り返し遊ぶのだろうか。繰り返し遊ぶ前に、つぎのゲームを買ってもらえるのだろうか。

こうした作りだされた欲望は、大人社会のそれとまったく同じである。わたしたちの身の回りのあらゆるものが、必要もないのにデザインは半年ごとに新しくなり、些細な「付加価値」が協調される。「消費の刺激」「需要の掘り起こし」と言われれば何のことかわからないが、つまりは欲望を無理にでもかき立てて、ほんとうはほしくもないものを、むりやり「ほしい」と思いこまされる。これがいいとか悪いとかという問題ではなく、そうやって消費者であるわたしたちが、必要もないものをどんどん買っていかなければ、経済というものが立ちゆかなくなっているらしい。

なんだかな、と思うのだ。

いまは小学生のうちから消費者教育? 賢いお金の使い方教育? をすべきだ、というふうな声もあるらしく、もしかしたらすでに何らかのかたちでなされているのかもしれない。
一方で、絶え間なく欲望を喚起されながらも、他方でそれをうまくなだめ、より長く消費し続けるために、うまく消費していきましょう、と、教えていくのだろうか。

なんだかな。


だが、なんだかんだ言っても、ほしいものがある、というのは、すてきなことだ。
これは、ほんとうにそう思う。
少し前、音楽をほとんど聴いていなかった頃は新しいCDをほしいと思うこともなかった。また聴くようになって初めて、自分のものにしたいアルバムもでてきた。タワーレコードの黄色い看板を見ると、胸がワクワクするし、視聴のためのヘッドフォンをかけるのも、店内で流れているDVDを見るのも、あれにしようかこれにしようかと迷うのも、幸せな時間の過ごし方だ。そうやって買った一枚のアルバムは、その価格以上の喜びをわたしにもたらしてくれる。そうやって好きなアーティストができれば、そこからまたさらに聴きたいバンドは広がっていく。

ポール・ラドニックは愉快なお買い物小説『これいただくわ』のなかで、「ショッピングとはつまり、好奇心が旺盛で、生きていて、先の楽しみがある、ということだ」と言ったけれど、これは、消費社会に生きるわたしたちにとっての真実なのだろう。おそらく、ほしいものがある、というのは、世界に積極的に関わっていく、ということでもあるのだ。必要が満たされていて、もはや何の欲望も抱かない、という状態は、深山幽谷に暮らし、鳥の声を友とする人にとっては理想的な境地かもしれないが、現実のわたしたちは、そういう状態を決して「幸せ」とは呼ばないだろう。

だから、一年に一度ぐらい、サンタクロースにお願いするのもいいことなのかもしれない。
ただ、お願いするときには、よくよく考えてみる。自分はほんとうにそれがほしいのか。大きな声や、あおるような音楽や、きらびやかな広告に惑わされていないか。時間をかけて考えて、自分の気持ちを確かめて、それに自分自身が価値を与えて「特別なもの」にしていくのだ。

そうすることで景気が良くなることはないだろうが、少なくとも自分が「何を欲しがっているか」を自分でみきわめることができるようにはなっていくような気がする。
自分がほしいものを知るのは簡単なことではないはずだ。クリスマスがそのきっかけになるとしたら、それこそが何よりもサンタクロースの贈り物なのかもしれない。

(※昨日どうもうまく書けなかったので、かなり後半加筆しました。12-26 08:35)

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