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 陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

イーディス・ウォートン 『ローマ熱』 その5.

2006-10-01 22:18:08 | 翻訳
ローマ熱 その5.

ミセス・アンズレイの手は編み針を交差させたまま止まった。長年にわたる人間の情熱と栄華の壮大な残骸となって足下に拡がっているさまを、じっと見据えていた。だが、その小ぶりな横顔には何の表情も浮かんでいない。やがて言った。「ずいぶんバブスを買いかぶっているようね」

 ミセス・スレイドはざっくばらんに答えた。「とんでもない。わたしにはあの娘がわかるのよ。たぶん、あなたがうらやましいのかもしれない。もちろんうちの娘は、そりゃもう非の打ち所もない子だわ。もし重い病気にでもなるようなことでもあれば、わたしだって、それはジェニーに面倒をみてほしい。そんなときもあるにちがいないわ……でもね。わたしはずっとパッと華やかな娘がほしかった……そんな子のかわりに、どうしてわたしから天使が生まれちゃったのか、皆目見当がつかない」

 つられて笑い出したミセス・アンズレイは、そっとつぶやいた。「バブスだって天使よ」

「もちろんよ――もちろんそうだわね。だけどあの子の羽根は虹色に輝いてる。ああ、あの子たちはいまごろ男の子たちと海辺を散歩してるんでしょうね……そうして、わたしたちはここにこうして座ってる……昔のこと、なにもかも痛いくらいに憶えているのに」

 ミセス・アンズレイの手はまた編み物に戻っていた。見ようによっては(彼女のことをたいして知らない人だったら、とミセス・スレイドは考えた)その姿もまた高貴な人々の廃墟が落としている長く伸びた影を見ているうちに、思い出があふれだしてきてしまったようでもある。でも、彼女はそんなひとじゃない。ただ編み物に夢中になっているだけ。思い煩うようなことがあるのかしら。これ以上の縁組みは望みようがないほどのカムポリエリの息子と婚約してくるってわかってるんだもの。
――きっとニューヨークの家は売りに出して、ローマの娘夫婦の近くに家を買って。邪魔にならないように……まったくうまいことやるもんね。一流のコックを雇って、ブリッジやカクテルパーティには相応の人を招いて……孫に囲まれて、満ち足りて、夢みたいな老後を送るのよ。

 不意に自己嫌悪にかられたミセス・スレイドは、先走る空想をうち切った。グレイス・アンズレイくらい、わたしが悪く思ってはいけない相手はいないというのに。彼女を妬まなくてすむようになるときなんて、わたしには来ないのかしら。あまりに昔から、嫉妬してきたからかもしれない。

 立ち上がって手すりにもたれ、思い惑う自分のまなざしを、時の魔力で鎮めようとした。だがその光景によって心は慰められるどころか、苛立ちは増すばかりである。眼をコロシアムに転じた。金色の壁面もいまや紫色の影に包まれ、その上には水晶のように澄んだ空が、光も色もなく弧を描いている。中空では午後と夕刻が微妙なバランスを取る刻限だった。

 ミセス・スレイドは振り返って、友だちの腕に手を置いた。唐突な仕草に、ミセス・アンズレイは驚いて、顔をあげた。

「日が沈んだわ。怖くはなくて?」

「怖い、ですって?」

「ローマ熱や肺炎が。あの冬、あなたの病気がどれだけ重かったか忘れられないわ。娘時代のあなたって、喉がデリケートだったでしょう?」

「あら、わたしたち、ここにいるんだから大丈夫。下の、フォロ・ロマーノのなかに入ったら、ゾッとするほど冷えるの、急に……だけど、ここはそんなことないから」


「あら、もちろんあなたは知ってるのよね、あなたは用心しなきゃならなかったんだもの」ミセス・スレイドは手すりの方に向き直った。
――なんとかもっと努力して、彼女を憎まないようにしなくちゃ。
そうして声に出してはこういったのだった。「ここからフォロ・ロマーノを見るたびに、あなたの大伯母さんの話を思い出すのよ。あのすごく意地悪な大伯母さん、そうだったわよね?」

「そうよ。ハリエット伯母さま。その人は自分の妹を、日が沈んでからフォロ・ロマーノに行かせたのよね、自分のアルバムに押し花をつくるために、夜咲く花を摘んできて、って。ほかの大伯母さんたちやお祖母さまがみんな押し花のアルバムを作ってたからって」

 ミセス・スレイドはうなずいた。「だけど、ほんとうは同じ人が好きだったから、妹を行かせたのよね?」

「そうみたい、家族のなかではそんなふうに伝わってるわ。ハリエット伯母さんが何年もたってから打ちあけたの。ともかく、そのかわいそうな妹は熱を出して亡くなった。母はわたしたちが子供のころにその話をしては怖がらせていたものよ」

「あなたから聞いて、わたしも怖くなったわ。あなたもわたしもまだ若かったあの冬のことよ。そのとき、わたし、デルフィンと婚約したんだった」

 ミセス・アンズレイは微笑を浮かべた。「あらあら、わたしがあなたを怖がらせたの? ほんとうにあなた、怖かったの? あなたってそんなに簡単に怖がったりはしない人だと思ってたけど」

「たしかにいつもはね。だけど、そのときは怖かったの。すぐに怖くなった、だってあまりに幸せだったから。わたしが言う意味がわかるかしら?」

「わたしが? ええ……」ミセス・アンズレイは言いよどんだ。

「そうなのよ、だからあなたの意地悪な大伯母さんの話に、ものすごく強烈な印象を受けたの。わたしは考えたの。“いまはもうローマ熱なんてない。だけど、フォロ・ロマーノは日が落ちると急にものすごく冷え込む。とくに、昼間が暑いようなときはいっそう。コロシアムとなると、もっと寒いし湿気もひどいわ”って」

「コロシアムですって?」

「そうよ。夜になって門が施錠されると、中にはいるのは簡単なことじゃなかった。というか、すごく大変だった。でも、あのころは、どうにか入ることだってできたのよ。よく入りこんでたわ。よそで会わせてもらえない恋人たちは、あそこで会ってたの。知ってた?」

「わたしが? そうだったかも。よく憶えてないわ」

「憶えてない、ですって? あなた、暗くなってからどこかの廃墟に行って、ひどい風邪を引いたことがあったのを憶えてないの? あなた、月の出を見に行った、っていう話だった。そんな探検に行くから病気になったんだ、って、みんな言ってたものよ」

 しばらくの静寂が訪れた。それからミセス・アンズレイが言った。「みんな、そんなことを言ってたの? だけどなにもかも昔のことよ」

「そうね、あなたも元気になったし。だから、たいしたことじゃなかったのかもしれない。だけど、あなたのともだちは驚いたの。あなたが病気になった原因に。だって、喉が弱いあなたが用心してたことはみんな知ってたし、あなたのお母さんだってとても気をつけていたじゃない……あなたはあの晩、遅くまであちこち見て歩いていたのよね」

「そうだったかもしれない。だけど、どんなに用心深い人間だって、たまには用心を忘れることだってあるわ。でも、どうしていまになってそんなことを考えるの?」

(この項つづく)


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