さて、この話の肝要な点はここである。扉から現れたのは、虎だったのか、それとも女だったのか。
この問題は、考えれば考えるほど、答えるのがむずかしくなってくる。人間の心理に対する考察を含んでいるからである。人間の心理はわたしたちを感情の入り組んだ迷路に連れて行く。この迷路のなかで出口を見つけるのは容易なことではない。賢明なる読者諸氏、この問題を、自分自身に委ねられた問いに対する決断としてではなく、煮えたぎる血が流れる、半ば野蛮の王女の立場、心は絶望と嫉妬が混ざり合う、白熱した炎に炙られる王女であるとして、考えていただきたい。王女は恋人を失った。だがその彼を得るのはだれなのか?
目覚めているときも夢のなかでも、恋人が獰猛な牙を持つ虎のいる側の扉を開けるさまを思い浮かべ、いったいいくたび王女は激しい恐怖に襲われ、両手で顔をおおったであろう。
だが、王女がそれよりもなお頻繁に思い浮かべるのは、恋人がもう一方の扉を開く場合である。女がいるドアを開いて、その顔に、天にも昇るかのような喜びの表情が浮かんでいくところを思うと、歯がみし、髪をかきむしるのだった。王女の胸は苦悶にさいなまれる。女のもとへ駈け寄る恋人が見える、女の頬は上気し、その眼は勝ち誇ったようだ。恋人は女の手を取って歩いていく。命が助かった喜びで、身体中が燃え上がっている。群衆の喜びのどよめきと、祝福の鐘がにぎやかに鳴り響く音がする。喜ばしげな表情を浮かべた侍者をはべらせた神父がふたりの前に歩み出て、自分の目の前でふたりを新郎新婦とする。ふたりは一緒に花を撒いた道を歩いて去っていく。群衆の歓喜の声は、自分の絶望の悲鳴など、かき消してしまうのだ!
若者にとっては、瞬時の死を受け入れ、半ば野蛮な人々のための来世、祝福された場所で王女を待っているほうが良いのではあるまいか。
だが、あのおぞましい虎を、悲鳴を、血を考えても見よ!
王女の決断は、瞬時に示された。けれどもそれは連日連夜にわたる苦しみ抜いた熟慮の末に出されたものである。自分が問われるであろうことは、王女にもわかっていたので、すでに答えの決心はついていた。そうして一瞬のためらいもなく、王女は手を上げて、右を指したのだった。
王女の決断がどうであったか、という問題は、軽々しく扱われてよいものではないし、わたしがこれに答えることのできるただひとりの人間である、とうぬぼれるつもりもない。そこでわたしはそれを読者にゆだねることにする。開いた扉から出てきたのは、どちらだったのだろう――女か、それとも虎だったのか?
(この項終わり)
この問題は、考えれば考えるほど、答えるのがむずかしくなってくる。人間の心理に対する考察を含んでいるからである。人間の心理はわたしたちを感情の入り組んだ迷路に連れて行く。この迷路のなかで出口を見つけるのは容易なことではない。賢明なる読者諸氏、この問題を、自分自身に委ねられた問いに対する決断としてではなく、煮えたぎる血が流れる、半ば野蛮の王女の立場、心は絶望と嫉妬が混ざり合う、白熱した炎に炙られる王女であるとして、考えていただきたい。王女は恋人を失った。だがその彼を得るのはだれなのか?
目覚めているときも夢のなかでも、恋人が獰猛な牙を持つ虎のいる側の扉を開けるさまを思い浮かべ、いったいいくたび王女は激しい恐怖に襲われ、両手で顔をおおったであろう。
だが、王女がそれよりもなお頻繁に思い浮かべるのは、恋人がもう一方の扉を開く場合である。女がいるドアを開いて、その顔に、天にも昇るかのような喜びの表情が浮かんでいくところを思うと、歯がみし、髪をかきむしるのだった。王女の胸は苦悶にさいなまれる。女のもとへ駈け寄る恋人が見える、女の頬は上気し、その眼は勝ち誇ったようだ。恋人は女の手を取って歩いていく。命が助かった喜びで、身体中が燃え上がっている。群衆の喜びのどよめきと、祝福の鐘がにぎやかに鳴り響く音がする。喜ばしげな表情を浮かべた侍者をはべらせた神父がふたりの前に歩み出て、自分の目の前でふたりを新郎新婦とする。ふたりは一緒に花を撒いた道を歩いて去っていく。群衆の歓喜の声は、自分の絶望の悲鳴など、かき消してしまうのだ!
若者にとっては、瞬時の死を受け入れ、半ば野蛮な人々のための来世、祝福された場所で王女を待っているほうが良いのではあるまいか。
だが、あのおぞましい虎を、悲鳴を、血を考えても見よ!
王女の決断は、瞬時に示された。けれどもそれは連日連夜にわたる苦しみ抜いた熟慮の末に出されたものである。自分が問われるであろうことは、王女にもわかっていたので、すでに答えの決心はついていた。そうして一瞬のためらいもなく、王女は手を上げて、右を指したのだった。
王女の決断がどうであったか、という問題は、軽々しく扱われてよいものではないし、わたしがこれに答えることのできるただひとりの人間である、とうぬぼれるつもりもない。そこでわたしはそれを読者にゆだねることにする。開いた扉から出てきたのは、どちらだったのだろう――女か、それとも虎だったのか?
(この項終わり)
話はちょっと(全く)変わりますが、こんな問題があります。
--------------------------------------
若者は3つの扉のうち1つを選ばなければなりません。2つの扉の向こうには虎が、あとの1つには女がいます。虎を選ぶと若者は食べられてしまいますが、女を選ぶと若者の命は助かります。若者は扉の向こうに何がいるかはわかりませんが、王様は扉の向こうに何がいるかすべてを知っています。
さて、若者が1つの扉(仮に1番とします)を選択しました。残る2つの扉のうち少なくとも片方には虎がいるので、王様はそのうちの虎がいる扉を1つ(仮に3番とします)開けて若者に見せます。
王様が言いました。
「お前は1番を選んだが、今なら2番に変更してもよい」
さて、若者が助かる確率を高めるためには、2番を選んだほうがいいでしょうか、それとも1番、あるいはどちらを選んでも同じ?
--------------------------------------
たいていの人は、選ぶ確率は5分5分だから、1番を選んでも2番を選んでも同じと考えますが、正解は「2番を選ぶ」です。
この問題の詳しい解説は
The Power of Logical Thinking(気がつかなかった数学の罠)
マリリン・ヴォス・サヴァント著、東方雅美訳、中央経済社
にあり、著者はこの問題をモンティ・ホール・ジレンマと名付けています。
訳してみて、これはもう虎しかないだろう、って思いました。
この「若者」(原文ではthe youth)、いいオトコかもしれないけれど、つまんないやつです。
自分のことを振り返ってみるに、わたし自身は変わっていないのに、好きになる相手によって、恋愛のありようっていうのは、見事なくらい、ちがうものになってます(って、そんなに数はないんですけどね)。
あたりまえですが、恋愛っていうのはひとりではできないし、自分ひとりだけの感情でもない。相手やさまざまな情況が複雑に絡み合った結果、そこに生成していくもんだと思うんです。
たとえば、ほかの女の子の話をうれしそうにするだけで、デカイ辞書で頭をひっぱたいてやろうかと思った相手がいたこともあるし、たとえ会えなくても、同じ空の下のどこかで、元気にしてくれてるだけでいい、みたいに思える相手もいる。
つまり、相手によって「何をするか」が変わってくる。
王女だってそうだと思うんです。この「若者」が、たとえほかの娘と結婚することになったとしても、生きてさえいてくれればいい、と思えるような相手だったら、それがどれほど苦しかろうと、そちらを選択すると思う。
ところがコイツときたら。
少なくともね、この「若者」は命乞いをしちゃいけない。
つまり、誰かを好きになるっていうのは、煎じ詰めれば、何かがあれば、相手のために自分の命を差し出せる、っていうことだと思うんです。
もちろん、生きていく方がむずかしい。死んじゃえば一瞬で終わるけれど、生きつづけるっていうのは大変です。そのために、一緒に苦労をしていこう、っていうことでもあるけれど、その覚悟を支えるのは、相手のためなら死んじゃってかまわない、っていう気持だと思う。
まして身分違いです。明らかになったら、罪に問われることは覚悟してなくちゃ。
だから、若者は、自分の命はないものと思ってなくちゃ。
おそらく、そこまでの相手だったら、王女だってなんとかして生かしたい、と思えるかもしれませんが、こんなやつはダメです。
「とっとと虎に食われておしまい」
> The Power of Logical Thinking(気がつかなかった数学の罠)
> マリリン・ヴォス・サヴァント著、東方雅美訳、中央経済社
の紹介ありがとうございました。
また読んでみたいと思います。
試験の時、よく先生に言われたなぁ。
迷ったら、最初に自分が思った方にしろ、って。
それを聞いてそのとおりにしたら、やっぱり迷ったもうひとつの方だった、ってこともありましたっけ。
「選択」っていうのは、むずかしいですけれど、同時にその人を表すものでもありますよね。
書き込みどうもありがとうございました。
この小説の答えが前々から気になっていて、誰か明答出していないか、ネットで探していたら答えが出ているサイト見つけました。作者ストックトンの続編(三日月刀の促進士)よりずうっと優れた答えなので感心しました。下記サイトのマンガのところです。
http://mitsukien.ocnk.net/
いやいや、久しぶりに、ちょっと興奮させていただきました。
こういう、事後に、あーでもないこーでもないと結論を出しあぐねて思い悩むような作品というのは、映画とかでもそうですが、強い印象が残りますね。
また、この作品は、多少なりとも恋愛にまつわる葛藤を知ってる人ほど考え込むんじゃないかと思います。
>ところがコイツときたら。
>少なくともね、この「若者」は命乞いをしちゃいけない。
うーんうん、さすが読みが深くていらっしゃる!(キラリン☆)
でもでも、ですね。
こういうヘタレなんだコイツは。そう分かっても、突き放しきれないこともあるのですよ。
なんてナサケナイやつなんだコイツはぁ!とっとと虎に食われておしま…えないこともあるんですよ、これが。
そいでもって結局たすけてしまうー。
相手は、こちらの葛藤も知らないで「やっぱ、たすかった~ラッキー」くらいにしか思ってない。ムカつく。いっそ本当に虎に食わせればよかったと、あとになって歯噛みする思い。なんでなんで、こんなヤツ…と思えども芯から突き放せない。
だから、いやが上にも愛憎こもごも、悶々とするんですね。
「オマエは虎のとこ行けー」って突き放せるなら、いっそスッキリしてるんですけどねー。はあぁ。。。
恋と愛は違う、って、よく言われることですけど、独占欲と愛とは違う、っていうのも、よく指摘されることですね。
でも、親子のでも恋愛のでも「愛の本質」には、大きな共通点があるように思います。無償性とか。
こういう作品って、「あなたなら、どうする?」って問われたとき或いは自らに問うたとき、その人の性格その他が分かるような。。。
おもしろいサイトを教えてくださってありがとうございました。
全文訳というところにわたしのサイトがリンクされていたのには驚きました。
だけどもっと驚いたのは、12粒入り8000円のイチゴの値段でした。イチゴ、なんて言っちゃいけない、もうこうなると「お苺さん」なんて呼ばなきゃ畏れ多い(笑)。名前も実にアマテラス。きっとひとつぶ食べたら世界観が、は大袈裟かもしれませんが、イチゴ観は絶対変わるんでしょうね。
「女か虎か」は、コスプレ訳というか、ちょっと古風な言い回しの日本語でやってるんですが、ふだん書き慣れていない文体なもので、おかしな日本語になってるところがいくつかある。こんなふうに、思いもかけないところからいろんな人が読んでくださってるとわかったので、これを機会に、今度また手を入れておくことにします。
なるほど、「女か虎か」ではなく、間仕切りを取って「女と虎と」にしちゃうわけですね。これは予想外の結末でした。見事な回答に思わず笑っちゃいました。
「三日月刀の促進士」というのは、「女か虎か、どちらが出てきたか教えてください」って言う人に、「これに答えたら教えてあげましょう」って問題を出すやつですよね。わたしもちゃんと読んだことはないんですが、また見てみよう。
だけど、こうやってみると、つくづくこの話のおもしろさは、結論が宙づりにされている、このただ一点にあることがわかります。だってここからどんな結末を考えたにせよ、この「宙づり」状態の結末をしのぐものはできそうにない。
おそらく、この開かれた結末は、わたしたちに「考えてごらん」と誘い続けながら、これから先もずっと残っていくんでしょうね。
実際には作者がありながら、作者とはまったく無関係に伝播していく、現代の「昔話」なのかもしれません。
教えてくださってありがとうございました。とってもおもしろかったです。
また遊びに来てくださいね。
>>Unknownさん、こちらにもありがとうございます。
> こういうヘタレなんだコイツは。そう分かっても、突き放しきれないこともあるのですよ。
> なんてナサケナイやつなんだコイツはぁ!とっとと虎に食われておしま…えないこともあるんですよ、これが。
そうでしょうね。
いざとなったら、ふだん「わたしはこういう人がスキ」と漠然と思っているのと全然ちがう人が好きになっちゃうところがおもしろいところでもあり、むずかしいところでもあるのでしょう。
わたしたちは日常生活では相手を、さまざまな役割とか関係でしかとらえていない。ほんのいくつかの言葉をあてはめるだけで十分だ。
だけど、恋愛となると、その人をまるごと知ろうとする。相手はどこまでいっても言葉からあふれてしまう。
だから、ほんとうは「ヘタレ」「情けない」なんて言葉に、どんな人だって当てはまらない、そうしてその場に立つ人は、世界中のほかの人が、全員彼のことを「ヘタレ」という言葉で呼んだとしても、唯一無二、どこまでいっても到達できない他者として、それ以外の言葉を探そうとし、また見つけることもできるんでしょうね。
同時に、そうすることによって、その人は、これまでとはちがう次元に立つことになる。
恋愛がたぐいまれな経験であるというのは、たぐいまれな人に出会うからではなく、どこまでいっても届かない、という経験を通して、自分が変わっていける、深まっていけるという点にあるのかもしれません。
> 相手は、こちらの葛藤も知らないで「やっぱ、たすかった~ラッキー」くらいにしか思ってない。ムカつく。いっそ本当に虎に食わせればよかったと、あとになって歯噛みする思い。なんでなんで、こんなヤツ…と思えども芯から突き放せない。
うんうん、って思いました。
ほんと、どこまでいっても等価交換ではない。
だけど、やっぱりそういう経験を通して、その人はものすごく豊かなものを相手から受け取っているのだと思います。
> 親子のでも恋愛のでも「愛の本質」には、大きな共通点があるように思います。無償性とか。
わたしはあまり親の愛が無償だとは思わないんですよ。っていうか、そんなふうに考えちゃうから、親も子も苦しむという側面があるような気がする。
わたしの母は何かあると「あなたのためを思って…」「これだけしてあげたんだから」と言う人で、わたしがそこから出られるようになるまでかなり苦労した、ということもあるんですが。
少なくとも「無償」というのは、目指したら、絶対ちがうものに変質してしまうような気がする。喜ぶ顔が見たい、ありがとうの一言でいい、自分の気持ちを知っていてくれるだけでいい、なんて思ったとしても、やっぱりそれは「見返り」ですよね。人間はやっぱり見返りを求めてしまう。
お互いの関係をがんじがらめにしちゃうのは、実は思いっきりそうした「見返り」を求めつつも、それが当人の意識の中ではブラックボックスに入っちゃってて、自分はあたかも「見返り」を求めてないんだ、みたいな気持ちになっている状態じゃないのか、とわたしは思います。
だから、いっそ、自分には無償の愛なんてものはムリなんだ、って思った方がいいのかもしれない。自分にはムリだけど、でも、そういうものもあるんだ、って。だから、自分の見返りを求める気持ちをきちんとふまえた上で、できるだけ相手と「いい」(これもむずかしいんですが)関係を築いていくか、だと思うのですが。
> こういう作品って、「あなたなら、どうする?」って問われたとき或いは自らに問うたとき、その人の性格その他が分かるような。。。
わたしはね、「性格」みたいな、はっきりしたものはないと思ってるんです。
その人が置かれた場と、相手との関係と、その人の身体と、その人がその内にストックしてきた言葉が複雑にからみあって、なんかよくわからないものが生まれてくる。
わたしたちは自分自身でそれをなんとか固定させようと、さまざまな言葉につなぎとめようとしますが、実に不確かな、あやふやなものだと。
だれかに会って、あるいは本を読んだり、さまざまな経験をしたりして初めて、その「何ものか」が立ち上ってくる。そうやって、わたしたち自身が、自分という「何もの」かを知っていくんじゃないか、みたいに。
だから、時に応じてその答えは変わってくるだろうし、相手に応じてもまた変わってくるだろう。そうして、そういう経験はいつだって楽しいことなんじゃないか、って思います。
わたしもいまこんなふうにお話できて楽しかったです。
書きこみありがとうございました。
ホントそうですね。また、普段からタイプだと自認してる人を予定通り?好きになったにしても、あとからあとから「レレレ??」と思うことが出てきたりして、どっちみち悩むことになるんですよね(苦笑)
その点まさに
>相手はどこまでいっても言葉からあふれてしまう。
ということなんだと思います。その「あふれて」いるものが可能性というものであり、その可能性というものを捨てきれないのですね。好きであるほどに胸をかきむしるようにして可能性を追い求めてしまう。
「ほんのいくつかの言葉をあてはめるだけで十分」気が済むということは、そもそも相手に、あまり関心がないということなのでしょうし、その、関心がないということに対して怒って止まない人もいます、いつも誰に対しても。
無関心は愛がないこと、だから罪であるという考えかたもあるようなんですが、そうかと言って関心持ち過ぎることが、お互いを損なってしまうこともあります。私なんかは無関心なくらいのほうがラクじゃないかと思うことも多くて、大変難しいことだなと思っています。
こういうことって恋愛以外の関係についても言えるのでしょうね。
お母様のお話については私も実感するところが大いにあります。うちの母も何かにつけて「アンタのため」が口癖のような人でしたが、「ああ?あれ、私のためだなんて言ってたけど、自分自身のためだったんじゃないか、だまされたー!!」なんてことが死んでしまってから、いくつも出てきたりしましてね、今さらケンカもできやしません。
「見返り」を求めてしまうということにも、各個人ごとのレベル、差というものがありますけれど、私の場合は、自分が差し向けた好意とかに対して等価であるかどうかという意味での見返りには、あまり関心がないです。もちろん、悟りを開いたエライかたと違って一応フツーの人ですから自分が差し向けた好意と同じくらいと感じられるものが返ってきたら、それだけで、とても嬉しいですが。
私の場合、好意が明らかな悪意のかたちで返されてきたときだけ愕然とします。自分の好意が相手には、そうと感じられなかったとかいう誤解があるときには、その誤解をとくことに注意が向きます。
でも、好意が悪意で返されてきたことに対して腹を立てるのも結局は「見返り」を期待することの範疇に入ってしまうのかもしれませんね。厳しいものです。
ただ「愛の無償性」に関しては、これは「目指す」ものではなく天然自然に、そういう性質を備えているものじゃないかと思っています。
それは現実には人間が手にすることはできないから、だから実は本物の「愛」というものはないのだとする考えの人もいるようですが。
なんと言うか、自分のしたことが相手の喜び、良きことに繋がっているなら、そのこと自体で自分も喜べるのですね。だから意図せず自然に「見返り」になってる。そんな至って素朴なものなのかなぁ本来は、とも思っています。
>だれかに会って、あるいは本を読んだり、さまざまな経験をしたりして初めて、その「何ものか」が立ち上ってくる。そうやって、わたしたち自身が、自分という「何もの」かを知っていくんじゃないか、みたいに。
そうですね。そして、せめて目をそらさないでいよう、と思います。恐れる気持ちすらも。
自分の考えを、よりクッキリさせていくことができるかたとお話しするの、とても楽しいです!こういうの、いやがる人も多いようですけれど。
また、思わずギクッとさせられるような作品の翻訳、楽しみにしています!
お言葉に甘えて、すっかり遅くなっちゃいました。
まずね、基本的な考え方として、わたしは「愛」なんてものがあるとは思っていません。「思いやり」にしても、「真実」にしても、「美」にしても、「善」にしても、あるいは「可能性」にしても、そうした抽象名詞は、どこまでいっても言葉に過ぎないもの、というふうに考えています。
あるのは、「愛」という言葉だけです。その向こうには、なんにもないんです。
「愛」という言葉があるから、わたしたちは人に引きつけられる感情や、つい、どうしようもなくだれかのことを考えてしまうことや、だれかのことを自分以上に大切に思ったりする気持ちを、そこに束ね、記憶することができる。
「怒る人々」でも引用したんですが、ブラッドベリの『華氏451度』は、本のない世界です。本がない、ということは、歴史もない。恐ろしいことに、人々は自分の過去を記憶することができない。
というのも、わたしたちは記憶にとどめておこうと思ったら、その出来事や、そのときの自分に訪れた何ともいえない暖かな思いや、ああ、あのときはいいお天気だったな、とか、腰を下ろした石の冷たさとかを、言葉につなぎとめておくしかないんです。
そうやって、言葉につなぎとめたさまざまな情景は、おりにふれ、取り出し、また味わってみることができる。つなぎとめる言葉がなければ(本も歴史もないということは、そこで流通していることばは、おそらく信じられないほど貧弱なものでしょう)、記憶は記憶にならず、起こったことはそのまま流れ去るしかありません。
わたしたちは、「愛」ということばによって、自分に訪れたその感情を学習し、そのことばにつなぎとめようとするのですが、逆に、不可避的に起こってくることがある。
本来、実体としてあるものではない「愛」を、あたかも、与えられたり、なくなったり、奪われたり、失ったりするものであるかのように感じてしまうんです。
ほんとはそんなもの、どこかにあるわけではないのに。ただのことばでしかないのに。
あと、あるよね、これは友情であって恋愛感情ではない、とかね(昔、言われたことがあって、執念深いわたしは未だに覚えていますが(笑))。
それは単に、そう言っている人が、自分はそれ以上あなたにコミットするつもりはない、と意見表明しているだけです。リトマス試験紙みたいなものがどこかにあって、恋愛感情だと赤く染まって、友情だと黄色、なんてものではない。
ほんものの愛とか、無償の愛とか、わたしはあまり意味のない表現だと思っています。
気持ちなんて、移ろいやすいものです。けれど、大切な人だと思ったら、その移ろいやすい気持ちをことばにつなぎとめて、自分のうちでそのことばを育てる。そのことばといっしょに、自分のことばも育つ。たえまなく迫られる決断のときどきで、それを育てていく方向を選択する。
そういうものじゃないかと思います。
だから、本は読まなきゃいけない。
そこに結論をもっていくか、という感じですが(笑)。
「愛」も「可能性」も「真実」もしょせんことばですが、人はちがいます。
ほとんどの人は、「近所の人」とか「同僚」とかの簡単なことばで十分なんですが、それだけではおさまらない人がいる。どれだけことばを費やしても、ことばを越えてあふれだすんです。
わたしたちは、人間は固体だとどこかで思ってますから、「あふれだす」みたいな表現をつかうと、変に思われるかもしれませんが。
炊飯器だってほんとはあふれだしてる(笑)。だって、炊飯器、米を炊く機械、電気で米を炊き保温する機能を備える機械……、どれだけことばを費やしたところで、炊飯器を完全に言い表すことなんてできません。だけど、わたしたちは「炊飯器」は「炊飯器」で十分だと思ってる。
だけど、自分にとって、特別の意味がある人は、どれだけことばを当てはめても、どうやっても言い尽くすことはできない。
だからどこまでいっても理解できないし、自分のものにはならない。
> 「見返り」を求めてしまうということにも、各個人ごとのレベル、差というものがありますけれど、私の場合は、自分が差し向けた好意とかに対して等価であるかどうかという意味での見返りには、あまり関心がないです。
その感じはわかるように思います。
わたしね、ずっと自分が好意を持つことと、相手が好意を返してくれることのあいだには何の関係もない、と思ってました。
だから、好きだ、って、わたしが言うとするでしょ? そしたら、相手はそれを聞いてくれるだけでいい、それで十分だ、見返りは求めない、って思ってたの。
だけど、聞いてくれるだけでいい、っていうのも、十分見返りなんですよね。
立ち止まって、耳を傾けてほしい、って言ってるわけだし、当然、自分のことばは相手の内に何らかの感情を引き起こすだろう。
好意に対して好意を求めるだけが見返りじゃないんです。立ち止まって聞いてもらおうとするのさえ、見返りなんですよね。
そこから悪意が返ってくるのも「見返り」。
無視されたとしても「見返り」。
どういったかたちであれ、自分の働きかけに対する相手の行動はすべて「見返り」なんです。
だからこそ、見返りを求めない、とか、無償なんてことを言っちゃいけない。そんなのは嘘だから。
そうじゃないものがあるんだろうか。
あるのかもしれません。
返ってくるかどうかもわからないまま、ふるえるような思いで、「おはよう」と声をかける。
そういうものなのかも。
書きこみ、ありがとうございました。
いろんなことを考えることができました。
若者は選択を王女に委ね・・・
王女は選択を・・・若者に委ねるのでは;?
女が出て来ても無視すれば良いだけのこと
女を受け入ても無視すればよいだけのこと
以上;