陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

待っている時間

2009-12-17 22:56:42 | weblog
先日、梅田の地下街を歩いていたときのこと。
デパートを取り巻くように、長蛇の列ができている。またバウムクーヘンか何かの行列なのだろうと、横目で見ながら歩いていたら、前を歩いている二人連れの話し声が聞こえてきた。制服らしい、そろいのパンツスーツで颯爽と歩いている。

「××のラスクなら、ネットで買えるのに」
「暇なんやろね。二時間待ちやてよ」

ふたりはわざわざ並んでいる人を、鼻で笑うかのように話していたのだが、わたしはそれより何より、ラスクというと、あのパンの端っこを揚げたやつ? と考えると、変な気がして仕方がなかった。きっとわたしが思っている「ラスク」と、二時間待って買う「ラスク」は、全然ちがうものなのだろうが。

ただ、行列の人たちを見ると、ほとんどが女性の二人連れないしは数人のグループで、携帯を開いている人もいるにはいたが、おしゃべりしながら楽しそうで、必ずしも「待っている」とは思っていないのかもしれない、という気がした。

ネットで買うのは、ただの買い物。
並んで買うのは、イヴェント。
結局、そういうことなのかもしれない。

行列ができているのを見ることは、めずらしいことではない。プレイガイドの前や、評判の高い店の前。折りたたみの持ち運びできるような椅子を持ってきている人もいるし、ずっと携帯でメールしていれば、待っていようが何であろうが一緒なのかもしれない。
こういう光景を見ていれば、多くの人は待つことが平気なのだろうと思う。

だが、こうした行列ではなく人を待つ機会は、携帯の普及でずいぶん減ってきたように思う。『宵待草』の歌ではないけれど、「待てどくらせど 来ぬ人を」待ったりせずに、電話をかけて、あとどのくらい自分が待たなければならないのかを確かめるのではあるまいか。

その昔、しつこいぐらいすれちがうふたりの恋の行方を描いた『君の名は』は、大変な人気を博した。だが、携帯で連絡を取り合えれば、すれちがうこともない。映画の『めぐり逢い』も『めぐり逢えたら』も携帯がある時代には成立しない。

いまなら人は、何分ぐらい待てるのだろう。そもそも「待ち合わせ」の内容が、「待つ」ことから「アレンジメント」に変わっていっている。

ただ、人を待っている時間というのは、店に入る行列に並んでいるのが、ただひたすら「入る」という目的を達するまでの時間であるのに対し、それだけではないのかもしれない。特に、来るか来ないかも定かではない人を待っているあいだというのは、その相手に対する自分の思いを確かめる時間でもあるのだろう。

こんなふうに考えていくと、携帯のない時代の待つ時間に一番近いのが、メールの返事を待つ時間なのかも知れない。


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