陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

キャサリン・マンスフィールド「ディル・ピクルス」 その4.

2007-06-04 22:43:30 | 翻訳
 そのとき彼女の方は、神秘的な黒海、ヴェルヴェットのような波が音もなくうち寄せる岸辺の草の上に腰を下ろしているような気がした。道の脇に停めてある馬車に目を遣り、さらに少人数のグループも見た。彼らの顔も手も、月の光を浴びて白い。女のほの白いドレスが広がり、畳んであるパラソルは、芝生に転がって、真珠色の巨大なかぎ針に見える。一同から離れて、膝の上に布に包んだ食べ物を広げているのは御者だった。「ディル・ピクルスをどうかね」と御者が言い、彼女はディル・ピクルスがどんなものなのかよく知らなかったのだが、緑っぽいガラス瓶に、赤唐辛子がオウムの嘴のようにギラリと光るのが目に浮かんでくる。彼女は頬を吸いこんだ。ディル・ピクルスはひどく酸っぱかった……。

「あなたの話はよくわかるわ」

 ひととき、ふたりはたがいをじっと見つめ合った。昔はふたり、互いを見つめればそれでかぎりなくわかりあえる、いわば互いに腕を相手の体に回し、一緒に海に飛びこむことができるように思っていた。溺れたってかまわない、まるで悲運の恋人たちのように。だがいまは、驚いたことに自制を見せたのは彼の方だった。彼は言った。

「まったく君はたいした聞き手だよ。その必死の目で見られたら、ほかの人間には言う気にすらなれないことでも、君なら話してしまえる」

 彼の声には冷やかしているような気配はないだろうか、それともそれは自分の思いこみなんだろうか。彼女にはよくわからなかった。

「君に会うまでは自分のことなんて誰にも話したことなんてなかった。あの晩のことをものすごくはっきりと覚えているよ。君にちっちゃなクリスマス・ツリーを持っていった夜に、ぼくの子供のころの話をしただろう? 家出して、庭の荷馬車の下にいたんだけど、二日間も見つけてもらえなくてひどく惨めだったことを。君はじっと聞いてくれて、そのとき、君の瞳はキラキラ輝いていた。ぼくはなんだか君がちっちゃなクリスマス・ツリーにまで、ぼくの話を聞かせようとしているように思ったんだ。おとぎ話みたいにね」

 だがその夜のことで彼女が思いだしたのは、キャビアの小瓶のことだった。七シリング六ペンスした。彼はどうしてもそれを受け入れられなかった。考えてもみろよ、こんなちっぽけな瓶に入って七シリング六ペンスだぜ。彼女が食べているあいだ、じっとそれを見つめていた彼は、おもしろがりもし、同時にショックを受けてもいるようだった。

「いやはや、金を食ってるようなもんだな。そんなに小さな瓶には七シリングを入れることもできないだろう。ここから出るもうけのことをちょっと考えさえしたら……」そういうと、ひどく複雑な計算を始めたのだった……。だが、いまはキャビアにはサヨナラしておこう。テーブルの上の小さなクリスマス・ツリーと、荷車の下で犬を枕にして眠る小さな男の子。

「犬はボースン、っていう名前だったのよね」彼女はうれしくなって、大きな声を出した。

 だが彼にはわからなかったらしい。「どの犬だ? 君、犬なんて飼ってたっけ? 犬のことは全然覚えてないなあ」

(次回最終回)


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