陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

助けてもらうということ

2010-12-21 22:12:42 | weblog
先日、携帯の機種変更の手続きをしに販売店に行った。カウンターの向こう側に坐っているお姉さんの指示に従って、書式に記入していたところ、ついたての向こうから声が聞こえてきた。何やら叱責しているらしい声が、わたしのところまで聞こえてくる。なんとか低く抑えようとしているらしいのだが、店内が静かだったせいで、言葉がはっきりと響くのだった。思わず顔を上げると、向かいのお姉さんも、居心地の悪そうな顔をしていた。

「あと、ここもお願いします」
「はい」
言われるまま記入を続けながら、耳に入ってくる声を聞くともなしに聞いていたのだが、教育係だか上司だか知らないが、女性の尖った声が
「わからないって、いったい何がわからないのよ。それを言ってくれなきゃ、こっちだって教えようがないでしょう」
と、それまでにも増してはっきりと聞こえてきた。

向かいのお姉さんもいたたまれなくなったのか、ちょっと失礼します、と奥へ入り、同時にぴたりと声が止まった。しばらくすると、その声の主らしい、厳しい顔をした女性と、叱責されていたとおぼしい暗い顔をした女性もそれぞれ出てきて、やがて店内も通常の業務に戻ったようだった。

ただ、わたしの頭の中に「わからないって、いったい何がわからないのよ」という強い調子の言葉がいつまでも残った。

わからないときというのは、実際、どこがわからないかわからないものだ。逆に、どこそこがわからない、たとえば「比較表現でtheがつくときと、つかないときがあるけど、どういうときにつくのか」と質問してくる中学生は、「比較表現」をある程度のところまで理解している子に限られる。つまり、わからない箇所を特定できるというのは、かなり実力がある人なのである。

こうしたことはほかにもある。
仕事を任されたのだが、まるっきり力のない人は、ひとりで到底できないのはわかっていても、助けを求めるとなれば、どこをどう助けてほしいのかわからないし、誰に助けを求めて良いのかもわからないから、結局、助けさえ求めることができない。助けてもらおうと思ったら、結局誰かに全部やってもらうしかないというような状況である。

それに対して、「ここに表を入れたいんだけど、わたしはエクセルが使えないから表を挿入することができないの。だから表の入れ方を教えて」という具合に、具体的な助けを求めることができる人は、その「表」以外のことはすべてできているのである。

こうしたことを考えると

・力がある人は、助けを借りることができる。
・力がない人は、助けを借りることができない。

とまとめることができる。

この「力」というのは、現実にはさまざまなかたちを取って現れる。
お金がない、ということもそうだ。

わたしはお金がないころ、どれだけお金がなくても借金だけはすまい、と心に決めていた。何もポローニウスの説教を守るつもりだったわけではなく、今月お金が不足しているということは、来月もやはり不足するということにほかならないからなのである。仮にいまの不足分を借金で穴埋めすれば、来月も同じように借金しなければならなくなる。借金を返済しようと思ったら、月々の収支をトントンにできるところまで収入を増やすばかりか、さらには借金が返済できるほどの収入を得なければならない。収入が増える具体的な目安もないのに、借金ができるはずがない。

つまり、借金していいのは、お金がある人間だけ、お金がない人間は借金はできないのである。

わたしたちは、ふだん、人の助けを借りるのは、力がないからだ、というふうに考えている。でも、実際はそうではない。これまで見てきたように、力がなかったら人の助けを借りることもできない。

こうした取り違えには、いくつものバリエーションがあって、たとえば「Aさんが~できたのも、Bさんの助けがあったおかげだ」という言い方には、Aさんの能力をいくぶん貶めるニュアンスがあるのだが、実は、Bさんの助けを借りて成功ができるほど、Aさんは能力があった、ということなのである。

これでは、力がない人間はいつまでたっても力がないままではないか。貧乏な人間はいつまでたっても貧しいままだし、弱い人間は未来永劫、虐げられたままなのか。

確かにそうなりがちではあるのだけれど、決してそうと決まったものでもないように思う。

まず、借金にしても、助けにしても、足らないところを補うため、欠乏を埋めるため、と考えることがまちがっているのだ。だとしたら、いったい何のために、わたしたちは助力を仰ぐのだろうか。

おそらくそれは、わたしたちが自分の枠組みを広げるためだろう。
いまある自分をいったんリセットする。自分の生活のあり方、ものの見方・考え方を根底から作り直していく。自分の枠組みを広げようと思ったら、これまでの自分をいったん砂漠化し、そこから新たにもう一度自分自身を作りなおしていくことが必要だ。そのためにこそ、自分以外のものの見方や力や資力が必要になってくる。助力というのは、欠乏を埋めるためではなく、自分を作りかえていくために必要なのだろう。

何かがわからない。それは、ある一つのやり方を覚えることによって解消する場合もある。だが、ほんとうに「できない」「わからない」状態にあるときは、そんなものでは間尺に合わないのである。むしろ、それができる自分になれるよう、自分のものの見方・考え方、仕事のやり方、生活全般を組み立てなおしていくことが必要で、アドバイスや助力はそのためのものでなければならないのだろう。何よりも、いまの自分ではダメだ、どうしようもない、根本的に自分を作り直していくのだ、という覚悟が必要になってくる。

力がない。では、自分に何ができるのか。自分のできることをもっと増やすためには、いったい何をしたらいいのか。自分のできることとできないことの境界を見きわめながら、その境界を少しでも広げていくしかない。

逆にいうと、もしかしたらわたしたちは、「欠乏」ということをあまりに簡単に考えすぎているのかもしれない。何かがうまくいかない。ちょっとした「もの」が足りない。あのうっとうしい上司がいなければ、わたしの仕事はうまくいくのに。月々もう一万円、余分にバイト代が入ると楽になるのに。計算ミスがなくなればもっと成績が上がるのに……といった具合に、わたしたちの日常に現れるちょっとした「穴」は、どこかから何かを持って来さえすれば、あるいは逆に障害になるものをどこかに持っていきさえすれば、簡単に解消できるぐらいの気持ちでいるのではあるまいか。

けれども、一度や二度ではなく、毎回立ち現れる穴や障害は、わたしたちのものの見方・考え方や、仕事のやり方、日々の生活そのものに、原因があるのだ。

なぜうまくいかないか。自分のあり方をそうやって振り返ってみるだけで、わたしたちは自分自身を対象化して見ることができるはずだ。どこまでそれを突き放して見ることができるか。

他人を厳しい目で査定するように、自分のあり方の欠陥を見据えることができさえすれば、おそらくわたしたちは「助け」を求めることができるのではないか。
助けてくれる人がいないのではなく、助けを得られる状況まで、自分自身で問題を整理する。おそらくそれが、助けを求めることのできる「力」がある状態なのだろう。





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