ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

升田山を歩く(13) 金のイヤリング(カンス塚古墳出土)

2020-04-22 09:34:53 | 升田山を歩く

    金のイヤリング(カンス塚古墳出土) 

 平荘湖古墳群のほとんどの古墳は6・7世紀のものです。その中にあって、カンス塚古墳は5世紀後半にさかのぼる古い古墳です。

 カンス塚古墳は、平荘湖の建設に伴い湖底に沈んだ全長30メートルの古墳で、 一部盗掘されていましたが、玉類などの装身具・刀剣・鉾・やじり・鎌・斧・砥石・須恵器それに鉄鉗(かなはし)・槌などの鍛治具など多くの種類の出土品がありました。

 なかでも一対の金のイヤリング(写真)は注目を集めました。

 県下でも、加古川市の他に2例(姫路市と龍野市の古墳)があるだけで、全国でも、50ほどの出土例しか知られていません。

 朝鮮半島からもたらされたものでしょう。

 それにしても、カンス塚の「カンス」とはどんな意味でしょうか。はっきりしません。

 金のイヤリングは、加古川市総合文化センターの歴史資料館(平岡町)に展示されています。

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升田山を歩く(12) (民話)又平新田村の弁天さん

2020-04-21 09:56:35 | 升田山を歩く

    (民話)又平新田村の弁天さん

 平荘湖の底に沈んだ又平新田村に弁天池という大きな池があり、池の北東隅の島に弁天さんがおまつりしてありました。

 この島は古墳で、弁天さんが、しばしば稚児に化けて、池の表面にあらわれたという言い伝えから、村人は稚児が窟(ちごがくつ)と呼んでいました。

 むかし、この村に彦衛門という人がいました。

 池守りなどをしていたので、毎日池に行き、いつの間にか弁天さんと心安くなっていました。

 ある日、彦衛門はいつものように池の廻りを歩いていると弁天さんが手招きしていいました。

 「いっぺん、あなたの家に遊びに行きたいが、私は天界の身、人に見られると困るので、家の者をみんなよそへやってもらえんやろか・・・」

 彦衛門は、うれしくなって、急いで家に帰りました。

 何とか口実をつくり、おかみさんに親類へ行くよう言いつけました。

 おかみさんは、「きっと何かあるぞ」と思いました。

 村はずれまで行き、途中で引き返えすと、案の定、家の中から女の人の声が聞こえてきます。

 彦衛門が、綺麗な着物を着た美しい娘と話しているのでした。

 おかみさんが、のぞいているのを見つけた弁天さんは、「下界の人に見られては、ここに居ることはできません」といって立ちあがりました。

 彦衛門は、袖を持って、もどそうとした拍子に、袖がちぎれ、ちぎれた錦の片袖だけが残りました。

 島に帰った弁天さんは、「ひとところに長くいては、なじみができていけない」と、淡路島へ行ってしまいました。

 弁天さんがいなくなった又平新村では、それから、この片袖をご神体としてお祭しているといわれています。

 又平新田村の弁天社(写真)は、平荘湖の建設により、現在、湖の南東の堤防に新しく移築されています。(境内に前回紹介した稚児が窟古墳の石棺があります)

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升田山を歩く(11) 稚児窟古墳(池尻16号墳)の石棺の蓋

2020-04-20 07:56:34 | 升田山を歩く

 古墳時代、升田山付近では、「八十の岩橋(4)」で紹介したように、さかんに石棺等が造られていたようです。稚児窟古墳(池尻16号墳)の石棺もそのひとつと思われます。

   稚児窟古墳(池尻16号墳)の石棺の蓋

 池尻16号墳古墳は、稚児窟古墳(ちごがくつこふん)の通称で知られ、6世紀後半の古墳と想像されています。

 稚児窟古墳は、加古川右岸の飯盛山南麓にある弁天池北岸にありましたが、加古川工業用水ダム(平荘湖)の建設によって、他の多くの古墳とともに水没しました。

 ダム建設に先立ち、1962年から1967年にかけて20基前後の古墳が調査され、池尻16号墳は、1964年12月から1965年1月にかけて調査が行われました。

 墳丘の規摸は、南北38.5m、東西42mで、ほぼ方形でしたが、かつては、南北40m、東西42m以上あったと推定されています。

 平荘湖古墳群では、先に紹介した升田山15号墳に次ぐ大きさです。

 古墳の高さは約4mで、墳頂部は弁天祠が造られていました。

 また、墳頂部には石室内から運び出された大きな家形石棺の蓋(写真)が残されていました。

 現在は、平荘湖畔の弁天神社に移され保存されています。

 なお、身の部分は志方町投松(ねじまつ)の公会堂の玄関横にあります。

 次号の「升田山を歩く」で、この弁天社に伝わる伝承を紹介しましょう。

 「稚児窟古墳(池尻16号墳)」のあった場所は、「升田山を歩く(8)」の地図で確認ください。

 

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升田山を歩く(10) こけ地蔵

2020-04-19 08:15:05 | 升田山を歩く

    こけ地蔵

 ウェルネスホールへの途中で、道を右(東)に少し入るとこけ地蔵があります。

 すぐ南の道を5分ほど歩くと升田山15墳です。ひょっとするとこの「こけ地蔵」は、この古墳の石棺の蓋かもしれません。

  

 平安時代は、「鬼」や「もののけ」が信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていました。その役割を担ったのが陰陽師(おんみょうじ)でした。

 良く知られている陰陽師は、阿部清明(あべのせいめい)であり、それに対抗した陰陽師は、西神吉町岸に生まれたという蘆屋道満でした。

 道長との対抗に敗れた道満は播磨へ流罪となり、晩年は西神吉町岸の近くで余生を過ごし、亡くなったといいます。

 ある夜、式神は天下原(あまがはら)の空を横切り、むかし修業をした古墳に近づきました。

 *式神(しきしん・しきがみ)・・・陰陽師の命令に従って、呪詛・妖術などをおこなう鬼神

 式神は、そこに懐かしい石棺の蓋があるのに気がつきました。

 石棺の蓋には、地蔵の姿がありました。

 式神と地蔵は、「お前は石棺だ・・・」、「俺様は、地蔵だ・・・」とお互いに言い争いました。

 火の玉は、地蔵に体当たりした。地蔵は、前に傾きました。

 村人は「お気のどくに・・・」と立て直すが、朝になるとまた地蔵は倒されているのです。

 こんなことが繰り返され、この地蔵は「こけ地蔵」と呼ばれるようになったといわれています。

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升田山を歩く(9) 升田山15号墳

2020-04-18 08:16:22 | 升田山を歩く

    升田山15号墳

『加古川市史(第1巻)』に、次のような記述があります。

 ・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けている。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではないが、前方部を平野側に向けている場合が多い。

 それはまた、被葬者が支配した土地としてよさそうである。したがって、日岡山古墳群の方向と平野部の遺跡との関係は大変興味深い・・・

 つまり、溝口遺跡・美乃利遺跡は、日岡豪族が生前生活していた集落であったと指摘しています。

 

 以下は、勝手な素人の説です。読み飛ばしてください。

 日岡山豪族の説をお借りし、升田山15号墳に当てはめてみます。前方後円墳ではないのですが、羨道(墳墓の入り口)は南側を向いています。

 15号墳の被葬者は、現在の東神吉の支配者であったのでしょう。

生前の集落を守っているのでしょうね。

「ワシ(私)の支配した集落を末長く守っているゾ・・・コロナよ、入ってくるな」と、言っているのかもしれませんよ。

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升田山を歩く(8) 平荘湖古墳群

2020-04-17 10:01:35 | 升田山を歩く

     平荘湖古墳群

 升田山古墳を含めた平荘湖古墳群の分布をみておきましょう。

 海浜の工業地帯に用水を供給する平荘ダム建設のために、多くの古墳が平荘湖に沈んで姿を消しました。

 工事に並行して、1962年(昭和37)から66年にわたり、数次の調査が行われています。

 水没した古墳は約50基ですが、升田山に約11基、飯盛山に約5基残っています。

 全体では、かなりの数の墓古墳がありました。

 これだけの古墳をつくった人々の生活の基盤になったのは、升田山から南西に広がる平野部であったと考えられます。

 加古川右岸(東岸)は、早くから開発が進み4・5世紀を形成する勢力が存在していました。

 が、それに比べると左岸(西岸)はやや遅れ、6世紀になって、豪族はようやく大きな勢力に成長したようです。

  このように、左岸(西岸)の開発が遅れたのは、加古川の河口部の分流がほとんど左岸に集中しており、西岸の平野部の流れが長く安定しなかったためと考えられます。

 *地図:平荘湖周辺の古墳群

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升田山を歩く(7) 古墳説明板(柱)の修理を! 

2020-04-16 08:28:04 | 升田山を歩く

     素晴らしい眺め

 13日(月)は、小さな手術もしました。

 そして、火曜日は、冬が舞いもどったような寒い日。それに、テレビは、コロナの話。

 でも、14日(水)は、前日までの天気が嘘のようなメッチャいい天気でした。

 コロナに関係のない、升田山(105メートル)に再度挑戦しました。山頂まで、たかが105メートルですが結構しんどい山登りです。年(76)のせいでしょうね。

 ですが、山頂の風はいいですよ。それに、加古川近郊だけでなく、上島・家嶋・小豆島そして、明石大橋・淡路島も眺めることができました。

 なによりも、コロナの心配のない空間です。

      古墳説明板(柱)の修理を!

 帰りは、山頂から平荘湖の第3堰堤までのコースを歩くことにしました。

 山は、もう、若葉の季節です。でも、まだツツジの花が残っています。

 でも、一つだけ「恨み節」があります。升田山ハイキングコースの整備はこれで終わりではないでしょうが、気になりました。

 途中に古墳がたくさんあります。一部は新しい説明柱(板)に変えられていましたが、ほとんどの古墳は写真のような状態です。

 新しいのと取り換えてほしいですね。

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升田山を歩く(6) 3つの古墳群

2020-04-15 09:28:11 | 升田山を歩く

         3つの古墳群

 加古川市にある古墳群を探検することにしましょう。

 加古川市には、地図のように3つ大きな古墳群があります。

 日岡山古墳群(4世紀古墳)・西条古墳群(5・6世紀)・平荘古墳群(6・7世紀)です。

 升田山古墳群は、平荘古墳群に属します。

市内には、もちろん、この他にも多くの古墳があります。

 日岡山古墳は、これらの古墳の中でも最も古く、4世紀にさかのぼることができます。

 西城古墳群(5・6世紀)で、平荘湖古墳群(6・7世紀)と続きます。

 平荘湖古墳群(升田山古墳群)の話を続けますが、今日の平荘湖古墳群(升田山古墳群)は、もちろん時代が異なる古墳もありますが、主に6世紀(古墳時代後期)の古墳が中心であることを確認しておいてください。

 *地図:加古川市地域の3つの古墳群

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升田山を歩く(5) 八十橋の伝承と『風土記』

2020-04-14 08:25:40 | 升田山を歩く

   升田山を歩く(5)・八十橋の伝承と『風土記』

 『風土記』の話です。

 『風土記』(奈良時代の地理書)は、編集されて後、まもなく姿を消します。

 何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が全く分からなくなっていました。

 そんな状況が、一変しました。

 江戸時代、何百年もの空白の期間を経て『風土記』がみつかったのです。

 『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年〈1796〉と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。

 『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。

 ですから、「八十の石橋」に書かれた話は、誰にも知られていなかったはずです。

「八十の岩橋」は、江戸時代の『播磨名所巡覧図絵』でも紹介されました。

現在、語られている「八十橋」の伝承は、江戸時代よりのちの話といえます。

それにしても、『風土記』の編纂された奈良時代に「八十橋」の話は、すでに何のためにつくられたのか、わからなくなっていたようです。

*写真:『播磨風土記』の一部

 

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升田山を歩く(4) 升田山、『播磨風土記』に登場(2)・八十の岩橋(やそのいわはし)

2020-04-13 06:47:42 | 升田山を歩く

        升田山、『播磨風土記に登場』に登場(2)

     八十の岩橋(やそのいわはし)

 升田山に石の橋があります。

 『風土記』は、“昔、この橋のところで、八十人衆(やそもろびと)が天と地上の間を上り下りした。そのため、八十橋(やそはし)といった・・・”と記しています。

 「八十」は、もちろん「多い」と言う意味で、『風土記』の時代は、もっとはっきり段階状の階段であったのでしょう。

 八十橋は、升田山の東端が加古川に落ち込むところです。

 『風土記』にいう斗(ます)とオケは、ともに石棺の部分を指しています。

 石棺の製造というと竜山(高砂市)と結びつけて考えますが、この辺りも竜山と同じ凝灰岩です。

 そして、この地は石棺の運搬には絶好の位置です。すぐそばを加古川が流れています。

 八十橋の付近は、石棺または古墳の石材を作った工事場跡であり、石棺を運び出す絶好の場所であったと想像されます。(no4)

 *写真:八十の岩橋

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升田山を歩く(3) 升田山『播磨国風土記』に登場(1)

2020-04-12 07:54:42 | 升田山を歩く

 

     升田山『播磨国風土記』に登場(1) 

 『風土記』の説明をしておきましょう。

 『風土記』は、日本で最も古い書物の一つで、今から1300年ほど前の713年に大和朝廷から各国の①郡や里の名のいわれ、②産物、③地力、④山や川の地名、⑤伝承を書いて報告するように、と命令が出ました。

 その報告書が『風土記』です。

 その風土記ですが、現在残っているものは『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』だけです。

 そのうちでも、『播磨国風土記』は、早い時期に提出されたと考えられています。

 その『風土記』に升田山について2話登場します。今日は、升田山の地名説話です。

〈口語訳〉

 「この里に、山があります。名は斗形山(ますがたやま)といいます。その名のいわれは、石で斗(ます)とオケを作りました。そのため斗形山といいます」

 

 升田山の写真をご覧ください。升田山は、山の稜線が平らで、その端はストンと落ち込んで、まるで山が斗(ます)の形のようであるから「枡形山」と呼ばれたとする説もあります。(no3) 

 *斗もオケも石棺等古墳の築造物のこと

 *写真:升田山(南面)(水道橋より撮影)

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升田山を歩く(2) 素晴らしい景色

2020-04-11 08:51:49 | 升田山を歩く

   升田山を歩く(2)・素晴らしい景色

  今日のブログは、加古川市観光協会会長の大庫隆夫さんのフェイス・ブック(4月3日)を無断でお借りしました。

 コロナが終わりましたら、お歩きください。素晴らしい加古川の風景が広がります。(以下、大庫さんのFBより)

 

 加古川市東神吉町の升田山に登山道(ピクニック道)が完成しました。

 テスト登山に挑戦。東側の八十の岩橋口はチェーンを伝いプチ崖をよじ登る感じ、西側のウエルネスセンターからはハイキング道。
 小さなお子様でも楽しめる加古川新名所。

 実は、八十の岩橋は江戸時代の播州名所巡覧図絵に載る名勝なのですよ。

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升田山を歩く(1) 升田山ハイキングコース完成

2020-04-10 11:11:35 | 升田山を歩く

  升田山ハイキングコース完成

 不思議なこともあるものです。

 先日、フェイス・ブックに加古川市の観光協会の会長さんが、新しく完成した升田山のハイキングコースを散歩されたことを書いておられました。

 その日の昼頃でした。近所の元気なYさん(79)が来られ「升田山に登ろうと思うんやが、どこから登ったええやろか・・・」と言われるんです。

 私も、以前に升田山に登ったのは10年ほど前です。二つ返事で、「一緒にハイキングをしましょう」と約束し、観光協会でハイキングコースの地図(写真)を頂き、さっそく、8日(水)の午後に登ってきました。素晴らしい景色でした。

 あいにく、春霞でいい写真が撮れていません。平荘湖周辺はよく散歩するので再度挑戦することにいします。

 ハイキングをしながら考えました。「升田山周辺について、短く簡単に紹介してみようかな」と。

 題を、「升田山を歩く」としました。きょうの紹介をno1とします。(no1)

 

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