ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

升田山を歩く(19) 蝦夷がいた

2020-04-28 11:11:24 | 升田山を歩く

    蝦夷がいた

 今回の「蝦夷がいた」は、ビクビクしながらの紹介です。軽く読み飛ばしていただいても結構です。升田の「佐伯氏」にこだわっています。

 

 東神吉町升田集落の中ほどで、集落を東西に走る古代山陽道沿いに佐伯廃寺跡があります。

 石の多宝塔(写真)が残っています。

 記録によると、佐伯寺は鎌倉時代の後期に建設されたといわれています。

 ところが、嘉吉の乱(1441)の時、寺は赤松氏に味方したため焼き討ちにあって、跡地に多宝塔だけが残ったらしいいのです。

 古代の佐伯氏の話です。

 桓武天皇の時代、佐伯氏は、蝦夷(俘囚)の管理にあたっていました。印南郡にも俘囚がいたことが確認されています。

 とするならば、佐伯寺は蝦夷の管理にあたり、この辺りを支配した古代豪族・佐伯氏の菩提寺と考えるのかもしれません。

 『日本三代実録』の仁和三年(887)七月の条に、印南郡のひと佐伯是継が、居を山城(京都)に移したことがみえます。

 是継の一家はこの時、山城へ移住したと思えますが、一族の一部はこの地に残留したのでしょう。

 そして、彼ら子孫は升田に佐伯寺を建設したとも想像します。

 尚、佐伯寺の多宝塔ですが、石づくりの多宝塔の数は極端に少なく、信濃が10基で過半数をしめ、近江・伊賀に二基、その外には大和・和泉・備中・播磨に各一基あるのみです。

 播磨の一基とは、もちろん升田の佐伯寺跡の多宝塔のことです。

 *『加古川市史(一・七巻)』・『加古川市の文化財』参照

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