古代山陽道は升田をはしる
『日本書紀』は、大化二年(646)正月の条の「改新の詔」に、「初めて・・・駅馬・伝馬を置く」とあります。
新しくできた政府は、まず全国の道を整備し、各地に駅(うまや)をおきました。
とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は最も重要な道でした。
兵庫県下におかれた駅は、図のようでした。
奈良から加古川の野口まで伸びた古代山陽道は、加古川の流れに行く手を妨げられました。
古代山陽道は、今の国道二号線に沿ってつくられたが、そこは加古川の氾濫原でした。
そのため、確実に物を運ぶため、点線の図のように古代山陽道は、野口から日岡山へ、そこから升田へ渡り、升田・大国・岸・魚橋というバイパスが多く使用されたようです。
つまり、升田の集落は古代山陽道のバイパスが通ったのです。
つまり、奈良時代、日本最大の道が升田山の麓に沿ってはしっていたのです。平安時代も状況に、大きく変化はなかったようです。
*『兵庫探検(歴史風土編)』(神戸新聞社)、『加古川市史(第一巻)』参照
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