升 田 堤
写真は、升田山の山頂からの南の平野部の写真です。
升田から船頭(せんどう・ふなもと)までの加古川の西堤をご覧ください。
升田堤です。
図は、「正保播磨国絵図(解読図)」です。
池尻から下流に二つの大きな流れがあります。
二筋の加古川は、二ヶ所の渡船が必要でした。
それに、升田堤の西部の地域の人々は、東岸の地域より洪水に苦しみました。
姫路藩は、ここを美田に変え藩の収入をはかることを計画したのです。
藩主・榊原忠次は、升田で西加古川をせき止め、船頭(せんどう・ふなもと)までの堤の強化を命じました。この工事に動員された役夫は、60万ともいわれています。*今の加古川の本流は「東加古川」の流れです。
万治二年(1659)八月、難工事がほぼ完成した時でした。猛烈な暴風雨が襲いました。
一夜のうちに堤は壊れ、元の河原にもどってしまったのです。
藩から、「この工事は重要である。人足が不足なら15~60才までの者をすべて動員せよ。異議を唱える者は追放せよ・・・」と、厳しい命令が出ました。
その後、さすがの堤も短期間で完成させました。
この時の記録が、妙願寺に残されています。
*写真:升田山山頂から加古川市西部・加古川の風景
*図:「正保播磨国絵図(解読図・部分)」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます