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「数の論理」の危うさ

2014-06-21 20:52:05 | 徒然

今週話題になった一つに、「東京都議会におけるセクハラ野次」があった。
「議会の野次は花」と言うらしいのだが、「野次が議会の花」という発想は、どこからきているのだろう?
言葉の意味としては、決して褒められた態度とは言えない行為なのに「議会の花」と、言われる所以がわからない。
それに加え、「野次」の内容も品位を欠く様なもの。
野次られた女性議員の経歴などで、「野次られて涙する様な人ではない」ということも、ネット上では言われ始めているようだが、彼女の経歴と「野次の内容」は別に考える必要があるのでは。

その様な社会的な問題に対して、名指しをされた自民党都議側は何とも歯切れが悪い。
ただその「歯切れの悪さ」の理由を考えると、「数の論理」でうやむやにできる、と言う考えがあるように思える。
野次った本人からすれば、「チョット、おちょくってやろう」くらいの気持ちだったのかも知れない。
その様な気持ちになれるのも「最大会派」という、安心感の様なモノがあったからではないだろうか?
「どうせ、わからないだろう・・・」という、気持ちだ。

「最大会派」と言えば、国会での自民党を見ていても「数の論理」で、様々なコトを押し切っている様な気がする。
特に「集団的自衛権」に関しては、公約でも言わなかった様なコトの実現のために、邁進中!と言う印象を受ける。
それもこれも「数の論理」によってできるコトなのだが、「数の論理」と民主主義は本当に同じなのだろうか?と、考えてしまう。
と言うのも、「数の論理」で危うさを感じるコトは、「責任の所在があやふやになる」という点だ。
「責任の所在」と言った場合、多くは発言者にあるモノだが、発言者自身が「だって、みんなで決めたでしょ」と言ってしまうと、その発言の責任は「みんな」という「多数者」に変わってしまう。
安倍さんは「決してその様なコトは無い!」と、言われるだろうが、歴史を見ても「戦争」などを始めた人が自ら後始末をする、といケースはほとんど無い。
少なくとも、第二次世界大戦以降世界で起こった戦争や紛争の多くは、仕掛けた本人よりもそれを後押しした国民によって、戦渦が広がると言う傾向が見られる。

話を戻すと、今の状況は「野次った都議」に対して、厳しい状況になってきている。
都議という枠を超え、全国各地、東京とは全く関係の無い人達までもが、「野次った都議」を探しはじめ、つるし上げようとしているからだ。
この様な状況になると、「野次った都議」は「ごめんなさい」と言い出せ難いのでは?と言う気がしてくる。
元々の問題は「セクハラ野次」であり、野次った本人が謝罪をすべき問題であるコトには代わりないのだが、「つるし上げる」様な雰囲気は、決して良いものでは無いと思う。
これもまた違う「数の論理」の危うさという気がする。

個人的には、野次った都議の古色蒼然とした考えに唖然となったのと同時に、この様な発想をする人が都議会議員として務まるコトを考えると、案外、地方のほうが革新的な発想で自治運営をしようとしているのでは?と言う気がしたのだった。