日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「普通」の中に潜む、異常さ

2008-06-08 23:11:49 | 徒然
今日のお昼、秋葉原であった通り魔事件は、なんともやりきれないと言う思いと、「またか・・・」と言う思いが、複雑に入り組んだような事件だった。
亡くなった方々のご冥福をお祈りしたい。
そして、怪我をされた方の一日でも早い回復を願いたい。

ところで、この事件はテレビのニュースなどで映し出された映像の多くが、携帯電話の動画で撮影されたモノだった。
画質云々ではなく、これほどまでの事件が起きながら携帯電話でその光景(もちろん、事件直後の救命活動)を淡々と撮影している人が、多いということに「社会の異常さ」を感じたのは、私だけなのだろうか?
実際、毎日新聞のWEBサイトでも、秋葉原通り魔:容疑者の逮捕・連行を携帯で撮影と言う記事が、掲載されている。
夕方のニュースでも、「ネット上では、事件発生直後からこの事件の様子を携帯電話で撮影した動画が、流れていた」と言っていた。

携帯電話という、多機能で便利なツールがあるおかげで「市民ジャーナル」と呼ばれる、一般市民による報道がされるようになって久しい。
そのことを否定する気はないのだが、携帯電話という「個人」の中に犯人の連行写真や、取り押さえられる瞬間の映像を、入れると言う感覚に一種の怖さと不快さを感じるのだ。
もちろん、撮影している本人たちは「事件の瞬間」をとらえるために撮っていて、数時間後には消去してしまうのかもしれない。
明日、友人、知人たちに見せびらかすような人もいるのかもしれないが、それほど長い時間携帯のデータファイルとして残してはいないと、思っている(と言うか、思いたい)。

いつの頃からか、事件の現場中継があると野次馬が集まり、テレビカメラに向かってVサインをしたり、携帯電話で「自分がテレビに映っている」コトを、知り合いに電話をしていると言う姿を、当たり前のように見るようになった。
Vサインをしたり、携帯電話で話したりすることができるのは、事件の当事者ではないからだろう。
今回のような特殊(最近では、特殊でもなくなってきているが・・・)事件であっても、当事者ではないと言う安心感が、携帯電話で撮影することができたるのではないだろうか?
それだけではなく、大量にコピーできるのではないだろうか?(その意味で「コピー」と言う行為そのものが、野次馬的感覚なのかもしれない)。
しかし、目の前では惨劇が起きているのだ。
さほど距離が離れていない場所なのに、2つの空間があるような気がする。
その2つの空間の間にある得体の知れない感覚に、怖さを感じてしまうのである。
それが、極々普通の人の心や頭の中に知らない間に潜んでいると言うことに、もっと異常な怖さ(あるいは「狂気」)を感じてしまうのである。

どこか、人や社会が狂い始めていると感じるのは、私だけなのだろうか?



「ことば」のちから

2008-06-08 17:00:07 | CMウォッチ
Yahooのトピックスに「復活する『1秒の言葉』」と言う、見出しがあった。
趣味「CM鑑賞」の私としては、「ムゥゥゥ~」と思い出してみるのだが、頭の中を掠めることもない。
「記憶力の低下か・・・(トホホ)」と思い、実際の記事を読んでみることにした。
記事そのものは、「ハァ~」と言う提灯記事だったので改めて紹介する必要はないと思うのだが、実際のテレビCMはとても素敵で、「ことばのちから」を感じる内容のものだった。

私たちが普段、コミュニケーションの始めとして使う言葉は、とても短い。
「こんにちは」や「はじめまして」、「ありがとう」などは、このCMにあるとおり1秒にも満たないような短いことばだろう。
だが、そのことばのもつ意味はとても大きい。
時に励まされ、勇気を貰い、感謝となることばでもある。

考えてみれば、最近ではこのようなことばを聞く機会が、以前に比べ大分減ってしまったように感じるのは、私だけなのだろうか?
そしてそれを表すかのような新書が、書店で平積みされている。


成果主義などで、個人の能力や責任ばかりが求めらるようになり、職場環境が劣悪化しているという指摘は、ここ2、3年の間でされるようになってきた。
仕事内容が分断され、「自分の仕事はココまでです」と線引きをし、他のことに関心を持たないコトが当たり前のようになってきている。
これでは、本来的事業の目的(行政のあるべき姿)とは、大きくかけ離れたモノになってしまう。
そのことに、多くの人(特に、私と同世代の40代後半の管理職者)は、気が付いているのに、手も足も出ないと言う状況すら生み始めている。
その社会環境に「ついていけない人」が、様々な病気や引きこもるような現象を作り出してもいるのではないだろうか。

20数年前に作られたCMだが、その普遍性があるからこそ今と言う時代によみがえってくるのだろう。
1秒足らずのことばではあるが、その「ことばのちから」は、時間以上のモノがある。

「不機嫌な職場」から脱却するために求められる、「ことばのちから」だ。