日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

ファッション2題

2008-06-02 12:17:20 | アラカルト
ファッションデザイナー、イブ・サンローランが死去した。
21歳と言う若さで、クリスチャン・ディオールのブランドを引き継いだ、天才デザイナーといっても良いだろう。
おぼろげな記憶で申し訳ないのだが、現在の美智子皇后様がご成婚された時に着ていらっしゃった白いドレスは、ディオールにいた頃のサンローランの作品だったと思う。
やはり、シンプルで優美なデザインなどを見ると、本当に「女性を美しく見せること」に長けたデザイナーだったように感じる。

フランスのデザイナーには、個々に「こだわり」ともいえる特徴をもっている。
ココ・シャネルは、「女性の膝小僧は、見せるものではない」という、ポリシーの持ち主で「シャネルスーツ」は膝丈よりも少し長いというのが鉄則だった。
ディオールといえば「ニュールック」といわれる、ウエストを絞りふんわりとした膝丈のスカートだろう。
女性らしさを強調したデザインで、第二次世界大戦後の混乱から落ち着きはじめたヨーロッパで、「明るい雰囲気」を呼び覚ましたと言う印象があった。
そしてサンローランだが、特徴のある真っ直ぐな肩ラインのジャケットなどは、最後まで変わることがなかった。
80年代に入り、イタリアのデザイナー、ジョルジョ・アルマーニが打ち出した「スラウチ(ジャケット)」とは、対照的なデザインだった。
サンローランの洋服などは、手にとることすらできなかったが、やはり憧れのファッション・ブランドではあった。

そして今日は「衣替え」でもある。
「クールビズ」が始まって4年経ち、すっかり定着した感がある。
コレまで「クールビズ」といえば「かりゆし」だったのだが、福田さんはを着ているような印象はなかった。
と言っても、今日は肌寒いほどなので、半そでを無理に着る必要はないだろう。
始まった当初は、ネクタイ業界からの反発があったり、「何を着て良いのか分からない」というオジサンが続出したりしたが、それぞれのスタイルの「クールビズ」が定着してきたように思う。
今年に入り、ここ名古屋では「有松絞りのクールビズファッション」が、この夏から売り出されたようだ。
値段的には、高額なので実際どれくらいの人が購入できるのか?は、疑問ではあるのだが、このような地場産業を活用していくことは、良いコトではないだろうか。
だからと言って、名古屋市が市職員の制服として1着2万もする有松絞りのシャツを170枚も購入する必要はない!と思うのだが・・・(私の税金をそんなモンに使うな!!)

サンローランは、「モードの帝王」と呼ばれた。
その巨匠の死は、一つの時代の終焉を告げるモノのようにも思える。
真っ直ぐな肩ラインから、自然な肩ライン=肩の力が程よく抜けた生き方、クールビズのように、「暑い時にはそれなりのファッション」へと変わっていくのかもしれない。

「思いやりのある生活」を考える

2008-06-02 06:20:54 | ライフスタイル
チベット騒動以来、ダライ・ラマ14世に注目が集まっている。
そのダライ・ラマ14世の、いくつかの著書が日本でも発刊されている。
多分初めて読んだのは、今から10年ほど前の「自伝」だったと思うのだが、その時の感想は「過酷な状況にありながら、とても優しく、チャーミングな人」というモノだった。
そして、ここ数年はチベット仏教というよりも、独特な世界観を持った内容の本を書いていらっしゃるようだ。
その一冊が「思いやりのある生活」だ。

この本の主題は「人生の願いは、幸福になるコトを目的としている」なのでは?と思っている。
その「幸福となるために必要なコト」が「人を思いやる心である、その心をもった生活である」ということなのではないだろうか?。

「思いやり」といっても、私たちが普通に考え、思っているような「思いやり」ではない。
ここが仏教的というか宗教的なのだが、「他者に対しての想像と利益が、最終的に自分の人生に幸福をもたらす」という考えなのだ。
企業が、社会の一員として存在するためには「ステークホルダーの利益」=「社会と生活者の利益がなくては、企業利益を得ることができない」と言う考えは、何度も言われてきていることである。
それが実行できているか、否かは別にして。
ただ、過去の企業の起こした不祥事や事件などをみてみると、自己益を追及するあまり、生活者や社会のことを考えていなかった事が分かる。
その結果、多くの企業は廃業・倒産をしている。

コレが個人となると、なかなか難しい。
難しいだけではなく、知らない間に人を傷つけ、不快な思いをさせることのほうが多い。
悲しいかなコレが現実と言うか、今の自分なのだ(トホホ)。
もっと悲しいと思うのは、人を傷つけることが自分の優位であると勘違いをしている社会傾向が、最近顕著になりつつあるように感じるコトが多くなったコトである。
と同時に、酷く傷つけられるデリケートな人もまた、増えてきているように思うのだ。
それも「ことば」によるモノだ。

「ことば」は、コミュニケーションの不可欠要素だが、語彙力が低いと言う問題だけではなく、「ことば」を受け取る相手の気持ちを想像する力が、低下しているように感じるのだ。
同時に思うコトの一つに、「美しいことばを聞き、話すこと」の大切さがある。
子供の頃から「口汚いことばを聞き、話していれば」とてもではないが、「相手の気持ちを想像するようなことば」を使うコトができないだろうし、「相手を思いやる=相手の嫌なことをしない」ことへとは、結びついていかないだろう。

週のはじめに、「思いやりのあるビジネス」は、「思いやりのある人たちの集まりで成り立つ」のではと、思ったのである。