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師と弟子 ウーレンベックとパイス

2010年06月17日 | らくがき
 アブラハム・パイスは1918年オランダ・アムステルダムに生まれた。ユダヤの家系で、彼の祖父の代まではダイヤモンドの研磨工だった。
 パイスはアムステルダム大学へ進み、数学、物理学、化学を勉強した。そんな時(1936年暮)、招待講演を行うために、ユトレヒト大学からウーレンベックがやってきたのである。アブラハム・パイスは、彼の講演に魅了された。

 ジョージ・ウーレンベック
 カウシュミットとともに1925年、「電子のスピン」を発見したあの男である。

 パイスの聴いたそのウーレンベックの講演の内容は、1934年に発表されたエンリコ・フェルミの「ベータ崩壊理論」に関わるものであった。その内容も、ウーレンベックの穏やかな語り口も素晴らしく、アブラハム・パイスは、「こんなことは初めてだ、一言も聞き漏らすまい」と思ったという。
 この時に彼は決心した。理論物理学で身を立てよう、と。

 パイスはユトレヒト大学教授のウーレンベックに手紙を書いた。大学卒業後は、貴方の元で理論物理学を学びたいのです、と。
 数週間の待ち遠しい時間の後、パイスはウーレンベックからの返事をやっと受け取った。
 列車に乗り、ユトレヒトへ行き、ウーレンベックの研究室の扉を叩いて開けた。緊張していたパイスは敷居につまずき、転んだ。 その後で、ウーレンベック教授に、彼は自分の希望を改めて告げた。
 ところが、ウーレンベックの返事は、パイスにとって、予期せぬものだった。ウーレンベック教授はこう言ったのである。

 「もし物理学を好きならば、実験物理学者になることを検討してみてはどうかね?」

 戸惑うパイスに、ウーレンベックは続けた。

 「あるいはもし理論物理学の数学的面が好きなのなら、数学者になってみては?」

 ウーレンベックはさらに、この分野の就職の難しさ、理論物理学の苦労を語った。
 パイスは困った。 彼はこう言う以外になかった。ぼそぼそと。

 「でも理論物理学がとても好きなのです。」

 するとウーレンベック、

 「もし本当にそうなら、それならばぜひとも理論物理学者になりなさい。君の知っている学問の中でも最高の学問だよ。」


 数年後に、パイスはウーレンベックにこの最初の面接での戸惑いを話した。 ウーレンベックは、どうしてその時そういうやり方をしたのかを話してくれた。
 彼は、「わたしが崇拝する師ポール・エーレンフェストを初めて訪れたとき、まさに同じ扱いを受け、同じ経験をしたよ。」、こう言ってにっこり笑ったという。



 (この話を読んで僕は、なんだかいいなあ、と思ったのでした。)



 ポール・エーレンフェストはウィーン(オーストリア)で生まれた。彼は、ルードヴィヒ・ボルツマンの最後の弟子である。エーレンフェストもまた、ボルツマンから、最初の面会のときに、やはり同じ“儀式”でむかえられていたのだという。



 ところで我が日本の長岡半太郎がドイツ・ベルリンに留学したのは1893~1896年であるが、彼はベルリン(先生はヘルムホルツ)の許可を得て、ミュンヘン大学までボルツマンの講義を聞きに出かけている。このとき、長岡半太郎は、ボルツマンの講義があんまり面白いので熱中し途中でやめられなくなってしまった。やがてボルツマンはウィーン大学に移ることになるのだが、長岡はそのボルツマンを追っかけてウィーンまで行ったのである。
 ただし、ウィーン大学のボルツマンの講義は、ミュンヘン大学の講義を初めから繰り返す内容だったので、それでは聴いても意味がないと思いベルリンへ戻ったのであるが。 そしてベルリンへ戻った時、あのレントゲンによる「X線の発見」の大ニュースが待っていたのだった。

 ボルツマンの講義はどうやら、人を魅了する特別な何か、を確かに持っていたようである。
 ウィーンに迎えられたルードヴィヒ・ボルツマンの講義を聞いて「なんて面白いのだろう!!」と感激した人物が他にもいる。ウィーン大学の学生だった、リーゼ・マイトナーである。




 ボルツマン ― エーレンフェスト ― ウーレンベック ― パイス という師弟のライン。

 ずっと後、1963年から、A・パイスとG・ウーレンベックは、ニューヨーク・ロックフェラー研究所で一緒に仕事をしている。


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